ミヒャイル・コールハウス

(『MW』をめぐって)

せっかくだから、自業自得で無理やり見る映画になった『MW』の感想を。


手塚治虫の原作は読んでいないのだが、原作のクィア性は完全に消しているから、クィア性を期待すると、まったく裏切られることになる。前日7月10日に、『ヴェニスの商人』をエクスプリシットにゲイの物語として演出した舞台に感激したあとだから、この映画の逆行性には嘆かわしいものがあるが……、いや、そもそも見に行くつもりもなかったのだから、そんなことを言ってもはじまらない。


無理やりみる映画は、こんなにも冷ややかに観るのだと、われながら初めての体験だったので驚いたが、映画『MW』は、大画面を前のほう座席(小さな部屋なので、全座席が通常の映画館でいったら前部座席になる)でみているからかもしれないが、画面が粗い。なぜこんなに映像が粗いのか、ちょっとあきれる。比較的最近、『ディア・ドクター』とか『剣岳』の見事な映像を見た者にとっては、フォーカスがめまぐるしく変わり、カメラも動き、映像も粗い画面は、ただただうっとうしいだけである。演出も疑問がわく。


冒頭、タイが舞台の場面では、犯人(玉木宏)と日本から来た刑事(石橋凌)の追跡劇が展開するのだが、冒頭なので、どうせ、犯人は逃げ切るのだろうとわかっているから、緊迫感もなにもない。しかし、にもかかわらずけっこう長く追跡劇を展開する。どうせつかまらない追跡劇をこうまで長くする意味はあるのか。むしろここまで長く激しい追跡劇を展開するなら、捕まえないといけないのでは。この場合、捕まえてから、またあとで逃げられるという展開以外考えられない。暑いタイでの激しい追跡劇を、最初から、なんと冷ややかにみているのかという自分に驚きもしたが。


また冒頭の沖之真舟島での大量虐殺場面の映像の迫力のなさ。しかもその迫力のない映像が、回想場面として何度も出てくるし、最後のエンドロールにも加工して使われるとなると、そんなによくもない映像をここまでこだわるのどうしてなのかと、そのセンスを疑ってしまう。あるいは米軍基地で、人質を連れ、毒ガス兵器をかかえた犯人と、それを取り囲む警備陣が移動する場面の、迫力のなさ。


また昨日の私の脳の劣化状態から、正確な記憶を呼び出せないのだが、こうした復讐物あるいはその細部も含めて、どこかで、なんらかのかたちで観たような映画なのですよね。


ただ、この映画の魅力は、そうした演出とか映像の部分でもなくて、玉木宏をはじめとする演技者たちの魅力だろう。だれもがカッコイイのである。玉木宏の悪役ぶりも、そして山田孝之の悩める神父役も、また石橋凌の辣腕刑事も、また石田えり子の新聞記者にしても、この作品は、こうした役者たちのこれまでの出演映画以上にその魅力を引き出している。顔が大写しになることも多く、この映画はアクション映画でも、サスペンス映画でもなく、顔の映画といえるだろう。そもそも、台詞のないせんだみつおですら、かっこいいのだ。


もうひとつクィア性を削った分、つまり変態犯罪者としての主人公の復讐劇の要素が消えて、テロリストとしての主人公の報復行為が前面に出たことである。ここにあるのは、クィアな悪魔の生態と心理ではなく、テロリストの心性である。つまり秘密兵器の存在とその事故を隠蔽しようとした政府(あるいは特定の政治家)に対して、闇に葬られた事実を認めるように迫るというのは、完璧にテロリストの行為である。テロリストは変態犯罪者ではない。テロリストは愉快犯ではない。不正をただし、闇に葬られた事実を暴露し、その承認を求める政治犯なのである。問題は、その報復が過剰になること。不正なり犯罪の犠牲者になった者が、犯罪の承認を求め、正義を要求するなかで、報復が大規模になり、無実の者を犠牲にすることである。


クライストの中編に『ミヒャイル・コールハース』という作品がある。私は昔、岩波文庫で読んだのだが、いまでは沖積舎の3巻本全集(最初は4巻の予定だったのだが)でも読める。中世というかルターも登場するので、その頃と思ってもらえばいいのだが、簡単にいえば、悪代官の陰謀で、大事にしていた馬二頭を盗まれたミヒャイル・コールハースは、その悪代官の悪事を暴露し正義の裁きを求めるのだが、受け入れられないとわかると、報復に出る。しかしその報復は、悪代官だけに留まるのではなく、都市を、国家全体を敵にまわす大規模な戦争状態ともいえるものにエスカレートする。悪代官の処分・更迭ではコールハースの怒りは収まらない。彼にとってもはや休戦はない。そして今風の言葉でいえば、彼は国家を相手に、大規模テロに走るのである――都市を何度も焼きうちにするのだ。


彼の場合、受けた不正に対して、その報復が過剰すぎるといえるのだが、読んでいて、その不条理に気づかないのは、結局、馬二頭をくすねる行為が、実は庶民を食い物にする貴族や国家の犯罪の代表であり、些細な一部ではないこと。その報復には、悪辣な代官とか貴族を倒せばすむののではなく、国家そのものを敵とし、国家そのものを転覆せねば、おさまらないのである。


眼には眼を、歯には歯をという原則は、原始的なおそるべき報復原理と受け止めらているが、実際には、報復は、そこまでにしておけという、報復の拡大を防ぐ原理だともいわれている。つまり、私から視力を奪った相手に対し、私はその相手から視力を奪ってもいいが、その相手の家族から一族、さらには同じ地域の全住民の視力ばかりか、さらには命までも奪うのはまちがっているというのが、「眼には眼を」の原理だといわれている。


報復はエスカレートする。さらには報復行為そのものが、承認を求める政治的行為から逸脱して自己目的化する。報復が面白くなり、その結果、犯罪の快楽が追及されていゆくようになる。テロリストは、不正を暴露し、不正の是正を求める正義の士であるが、同時に、その正義を求める行為のかなかで快楽殺人者に変貌を遂げる。まさに天使と悪魔である。


このパラドックスを解くのは、テロリストの側なのか国家権力の側なのか。そもそも復讐とは、ある意味で、エスカレートしがちである。Revenge is wild justice. 報復とは常に過剰な報復であってみれば、過剰性はついてまわる。過剰な報復は、必然的運命となる。国家権力が、みずからの不正を認めない限り、テロ=犯罪は終わることがない。しかし国家権力は、みずからの不正を認めることで、攻撃が強まり、国家転覆計画が履行されると恐れている−−そのため国家による報復も過剰になる。個人であれ国家であれ、報復は過剰になり、歯止めがきかなくなる。Revenge is wild justice.


ここで、たとえば無辜の民を巻き添えにする自爆テロリストのことを思い浮かべた人は、正しいが同時にまちがっている。個人の無差別なテロは過剰な報復である。しかし自爆テロリストひとりに対して国家は数百単位で報復をする。報復は常にエスカレートする。同時テロをしかけたテロリストがイラクにいるからといって(もちろん、それは当時でも、またいまでもありえないことなのだが、仮にいるとして)、軍隊を進軍させるというのは、過剰すぎる報復である。昔、『フェイル・セーフ』(原題。日本語のタイトルは忘れた)という近未来SF映画があって、まちがってソ連のモスクワに水爆を投下することになったアメリカが、その埋め合わせに、ニューヨークにみずから水爆を投下するということで第三次世界大戦を回避するという結末だったが、それで回避できるとは思えない。水爆を落とされたソ連にとってみれば、アメリカ国民をすべて皆殺しにする報復しか、問題解決はありえないだろうから。


解決策は、報復を求めないことである。そして加害者である個人なり集団なり国家が、その罪を認めることである。罪の存在の承認がないかぎり、報複者が活動を開始し、エスカレートしつづける報復の連鎖しか存在しなくなる。Revenge is wild justice.


とまあ、こういうことを考えたのなら、けっこう『MW』という映画を楽しんだのではないかと思われたがちだが、実際には映画に触発されたというよりも、最初から、考えていたことを映画にあてはめただけである。予告編ですべてわかる。しかし、それでも本編をみることで考えさせられることがある。今回の映画では予告編がすべてであった。本編は、予告編を確認するだけで、そこから先には行くことはなかった。予告編で偽医者物だとわかっても、本編をみると、さらに刺激をうけ、考えさせられる『ディア・ドクター』とは違う。