No Future

で、結局、『ノウイング』、観てきた。


昔、NHKで『地球46億年の謎』とかいうシリーズがあって、そのなかで何が衝撃的だったかというとこれまでに地球を襲った巨大隕石衝突の実態をシミュレーションしてみせるという映像だった。話をわかりやすくするために、現在の地球に巨大隕石が太平洋のグァム島付近に落ちるという設定にした。衝突から地殻がめくれあがって起こる地殻津波とか、地球を覆いつくす岩石蒸気というのは、いまでも言葉は鮮明に覚えている。この映像は、You Tubeなどで見ることができるので、まだ観てない方はご覧あれ(「巨大隕石衝突」でWikipediaあるいはYou Tubeを検索すると情報・映像は得られる)。たとえば岩石蒸気に覆われた地球では、水深4000メートルの海もあれようというまに蒸発し、水がなくなった海底は熱にさらされ燃えて、溶岩のようにどろどに溶けるというのは、私たちがこれまで想像して来たどんな地獄図絵よりも強烈なものだった。


実際、このような巨大隕石衝突は、地球の歴史のなかで何度か起こっているとのこと。こんなことが起こったら、地球上の生命は完全に絶滅していたにちがいない。現在、生命体が存在することは、ほんとうに奇跡に近い。と同時にこのシミュレーション映像、強烈すぎるため、あちこちで引用されたり加工された――これもまたYou Tubeで確認できる。ただこうした巨大隕石衝突が、私たちが生きているときに起こる可能性はないだろう。だから、まさに遠い過去に起こった惨事の再現であり、私たちとは無関係な、ひょっとして気の遠くなるような未来に起こるかもしれない出来事であり、その時は巨大隕石衝突以前に人間の文明は滅んでいるかもしれないのだから、とにかく関係のないことである。しかし、なんだか魅力的な事件であることも事実である。私たちは密かに思っているのではないか。こんなにすごいことになるのなら、巨大隕石に衝突して欲しいと*1


昔、小松左京のSFに、詐欺師たちが、パラレル・ワールドへいけるマシーンがあると騙してお金をとるという短編があった。詐欺師たちは客に、三つの未来の姿を見せて選ばせ、機械で客を、そのパラレルワールドへと送り届ける。もちろんそんな機械などなく、客は機械に乗り込んだと思い込まされ、自分が望む未来へと続くパラレルワールドのひとつに到着したと思い込む。この扉を開けて中に入ると、あなたが望む未来が待っているパラレルワールドに行けると騙されるのである。


詐欺師たちが客に見せて選ばせるパラレルワールドは三つ。ひとつは高度に文明が発達した未来が待っている世界。もうひとつの未来は、文明の発達が適度に抑えられ、自然と共存するエコな生活が実現されている世界(小松左京のこの短編が発表された当時は、「エコ」という言葉はなかったが)。そして三つめの未来とは、核戦争かなにかで文明が崩壊し、廃墟しか残っていない世界。


さて騙された客たちは、どの未来を選ぶかと言うと、そう、予想どおり、ほとんどの客が文明が崩壊する世界を選ぶのである。詐欺師たちは、客を騙して、未来に確実にこの世界が崩壊すると客に思い込ませてします。そうすると、そうした思い込みを持った人間がつぎつぎとこの社会に放出されるとき、いったい未来はどうなるのだろうと、詐欺師たちが空恐ろしくなるというのが話のオチだった。


私の好きなSFにグレゴリー・ベンフォードの『タイムスケープ』(原書は1981年)がある。自身が科学者であるハードSF作家だが、このネビュラ賞を受賞した長編はハードSFというよりは重厚なリアリズムSFで、筋は良く覚えていないのだが、人為的に生じたささいな環境汚染が全地球規模に発展して地球崩壊にいたる世界に生きるケンブリッジ大学の科学者たちが、異変を解明していくうちに、原因を特定し、それを通信可能になっていたパラレルワールドのもうひとつの地球に伝えることで、もうひとつの地球の危機回避に貢献するのだが、すでに異変が起こり手遅れになった地球のほうは、崩壊してゆくというものだった。いったいこの、どこが重厚なリアリズムSFなのかとあきれるかもしれないが、舞台は近未来か現在に設定されていて、科学者たちの行動も合理的かつリアルなものであり、その圧倒的な現実効果と存在感に、筋書きの荒唐無稽さを忘れてしまう。ダブルプロット形式で、未来ある地球と、未来なき地球との物語が交互に展開するが、最後に、ふたつの世界が交信するなかで、危機とその原因を知らせてくれた科学者たちが生きていた地球が崩壊してゆくさまがリアルタイムで実況されるとき、その恐れと慄きに思わず体が震えたのを今も覚えている。もちろん、私は、その消滅する地球にいたかったのである。


『ノウイング』は、さわりの部分が、予告編に組み込まれていて、内容や映像の衝撃と驚きとを減じている部分がある。予告編で示された航空機の墜落場面は、主人公の目の前で航空機(エアバスか、ボーイング767か)が落ちてきて炎上し、ばらばらになった機体が爆発炎上を繰り返すなか、主人公が、生き残った乗客たちを助けに走るシーンは、CGだがワンショット・ワンシーンを実現していて実に見ごたえのある場面なのだが、予告編で出しているため、その驚きは半分以上失われている。実際、予告編にはない地下鉄の事故の場面は、CGとはいえ、その迫力に度肝を抜かれた――『ダイハード3』の地下鉄事故よりもはるかにすごい――ので、飛行機事故の場面も、予告編に収録せずに驚かせて欲しかった。


太陽の異変によって地球上の全生命が死滅する話である。どの生命も助からない。巨大隕石衝突と同じく、地球上の生命体の最期である。世界の終末を描く、暗いSFだが、同時に、未来への希望も残されている。だから徹底して暗いというわけではない。しかし、そんな未来の希望など絵空事(実際、文字通りそうなのだが)にしかみえず、やはり文明が、人類が、全生命が消滅する、その衝撃と恐怖と名状し難い心地よさが映画の魅力を形成している。


もちろん親子の別れと一族再会など、泣かせてくれる場面なり要素は数多くある。べつに私は泣いたりはしなかったが、そこで泣くか涙ぐんでしまう観客がいても、それはおかしくない。また物語も、キアヌ・リーヴス主演の『地球が静止する日』に比べたら、はるかに整合性があって、SF映画として違和感がない。また内容は『未知との遭遇』といったUFO物と『アルマゲドン』『ディープ・インパクト』といったカタストロフ物との融合で、どれもどこかでみた映画という既視感は拭い去れないが、そこに安定感もあるだろう。


そうした要素のなかで、まさにどさくさにまぎれるかのように、キリスト教神話の正当性とか予言性、若いアダムとイヴとか、家族的価値の再発見といったアメリカの保守的文化潮流のアジェンダのようなものが入りこんでるのだが、あるいはローズ・バーン(いまや『ダメージ』の、というべき)が、うっとしい女になってくると交通事故で死んでしまうようなある種のイデオロギー操作が如実に見え隠れするのだが、それも関係ない、みんな滅んでしまうのだから。


映画『ディープ・インパクト』のなかで印象的だったのは、地球に隕石(巨大隕石ではない)が落下することで津波が起こるなか、ジャーナリストだが助かるチャンスを捨てて後に残ることになったティア・レオーニが、父親のマクシミリアン・シェルと海辺で抱き合って巨大津波に瞬時にさらわれ死んでゆくシーンだった。ただ、そのシーンのすばらしさは、高い山へ逃れ生き延びた人々(イライジャ・ウッドリリー・ソビエスキーら)がいたことで、そのインパクトの深さともども、大きく損なわれたと思ったのだが、今回も、たしかに助かる子供はいても、そんなものは絵空事なので(何度もいうが、ほんとうに絵空事なのだ)、一人残らず死ぬ――今回は家族、両親と二人の子供たちが抱き合い、瞬時に焼かれていく――この映画は、魂をゆさぶる。べつに抱き合う人がいなくても、一人でもいいので、あんなふうに焼かれて瞬時に昇天したらどんなにすばらしいかと、かなわぬ夢に、身も焦がれそうである。焼かれる瞬間に、地球の破滅のなかにいたいという死の欲動を、唯一引きとどめるのは、そうなると、地球消滅の壮麗で崇高な光景を外から見ることができないという残念な思いでしかない。

*1:実際、NHKのシミュレーション画像は、昔の『エヴァンゲリオン』の劇場版における、セカンド・インパクト後の最終補完計画が成就したときの、全人類の魂が昇天する映像と似ていなくもない。もちろんシミュレーション映像に魂たちの姿は登場しないが、巨大隕石衝突の衝撃は、地球上の全生命が瞬時にして昇天してもおかしくないものであることは、想像できる。