Run, Fleance, Run

本日は午前中に、シェイクスピアの観劇会で簡単な話をしたあと、午後『子供のためのシェイクスピア マクベス』を見ることになった。


この会では『マクベス』は何度も観ているので、あまり話すこともない。興味深い解釈とか伝統的な解釈なども紹介しつくしているし、まあ、メンバーは、シェイクスピアの作品は翻訳などで、よく知っている人たちばかりだから、これまでとはちょっと異なる話そしておなじみの魔女の話をすることになった。


そのちょっと違う話とは、『マクベス』に登場するフリーアンスについてである。マクベスと並び称される武将バンクォーは、「国王にはならないが、国王の父祖となる男」という予言を魔女から受ける。そのためバンクォーは、マクベスにとっては、みずからのスコットランド王位を脅かす存在となる。そこでマクベスは、バンクォーと息子のフリーアンスを、暗殺すべく刺客を放つのだが、刺客はバンクォーを殺すまではよかったが、フリーアンスを逃がしてしまう。逃げるフリーアンス。予言は実現しそうである。


マクベス』を読んだり観たりした者は、おそらく誰でも、このフリーアンスはどうなっちゃうのだろうかと疑問に思う。マクベスが倒されたあと、王位につくのはフリーアンスかというとそうでもなく、マクベスが殺したダンカン王の息子マルカムなのだから。


また実際に将軍の息子であるフリーアンスが、どうしてスチュアート朝をひらくことになったのかもよくわからない。劇中でなんの説明もないからである。


私は午前中の話のなかで、このフリーアンスの逃亡以後の足取りを、シェイクスピアが参考にしたホリンシェッドの『年代記』の記述内容を紹介しつつ辿ることになった。フリーアンスはこのあとウェールズへ逃亡する。その地で手厚くもてなされた後は、ウェールズ王の娘と結婚することになる。そしてその息子ウォルターが、ウェールズからスコットランドに帰り、Royal Steward王国執事官とでも訳すのだろうか、そういう要職に任命される。そしてその子孫のウォルター・スチュアートがスコットランド王ロバート一世の王女と結婚。その子供がスコットランド王ロバート二世になったことから、スチュアート朝が開かれる。


以後、シェイクスピアの時代のジェイムズ一世(もとジェイムズ六世)にいたるまで、ロ八人の国王・女王がスコットランドに誕生する。


1ロバート二世(1371−1390 在位期間)。
2ロバート三世(1390-1406)
3ジェイムズ一世(1406-1437)
4ジェイムズ二世(1437-1460)
5ジェイムズ三世(1460-1488)
6ジェイムズ四世(1488-1531)
7ジェイムズ五世(1513-1542)
8メアリー一世(1542-1567)
このあとジェイムズ六世(1567-1625)がジェイムズ一世(1603-1625)としてスコットランドイングランド両王国国王となる。


マクベス』の第4幕第1場で、魔女がマクベスに見せる幻影のなかの八人の王というのは、このスチュアート家八代の王(なかにはひとり女王がいるのだが)のことを指している。そして最初のスチュアート朝のロバート二世の父親がウォルター・スチュアート、このウォルター・スチュアートの先祖がフリーアンスであり、フリーアンスの父親がバンクォーである。


だが、バンクォーもフリーアンスも、架空の人物である。実在はしていない。


〈子供のためのシェイクスピア〉公演は、この会でも何度も見ていて、同じ紀伊國屋のサザンシアターでの『尺には尺を』は、内容がとても子供に見せられる芝居ではないし、子供はわからないと思うのだが、会のメンバーには好評だったし、前回、東池袋のアウルシアターでの『シンベリン』も、あまり上演されることのないシェイクスピア作品で、ものめずらしさもあったが、アレンジもうまく好評であった。今回の『マクベス』は残念ながら、不評だった。


〈子供のためのシェイクスピア〉のメンバーは、みな、実力のある演技者たちで、いろいろな芝居ができるし、事実、さまざまな作品に出演している。『ベニスの商人』からだったと思うが、それから始まった〈こどものためのシェイクスピア〉シリーズは、最初は、話題にもなったし、子供だけでなく、大人も楽しめる、良質のエンターテインメントとして評判になったし、公演を楽しみにしてた若い学生たちも多かった。


しかしパフォーマンスの質が、子供でもわかるシェイクスピアというよりは、子供にはわからないシェイクスピアになっていたこと、大人でも楽しめるということは、ある意味で、子供向けの良質のパフォーマンスではなくなったことを意味する。実際、夏休みなどに、子供にも見せられる演劇をよく探すのだが、この〈こどものためのシェイクスピア〉は候補からはずれている。学生には推薦するかもしれないが。


で、『マクベス』という芝居は、たとえば小学生高学年から中学生や高校生にはわかると思うし、彼らは面白いと思うだろう。しかし、今回、あるいはいつでもそうだが、中学生から高校生はほとんど目に付かず、子供はいても、小学校生それもけっこう低学年の子供たちが圧倒的に多い。もちろん残りは大人。大人が7割から8割いる。


で、結局、パフォーマンスも、おどろおどろしい悲劇を、子供受けするようにアレンジしたところもあり、会のメンバーには不評だった。人形を使ったり、手を叩いたり、シュシュと息を鋭く吐いて音を出すことなど、毎回みせている型なのだが、それすらも、鼻についたみたいだ。


もちろん演出にも問題はあろう。少ない人数でシェイクスピア劇をアレンジして演ずるから、一人何役もする。今回は、マクベス夫人をした女性が、マクダフをも演ずるということで、どうしても違和感があった。『尺には尺を』では、彼女は、公爵を演じていて、それも違和感があったのだが、彼女がいくら実力があるからとって、また発言力もあるのだろうが、キャスティングには難がある。


またそのため、原作での有名な場面、たとえばマクベスの行動が周囲から非難を浴びて、マクベスが窮地に立つとき、マクベス夫人が失神して、その場をすくうことになる場面−−マクベス夫人が意図的に演技として失神したのか、ほんとうに失神したのか、原作は、観客の判断にまかせているが−−でも、今回の演出は、マクベス夫人を早々と失神させ、そのためマクベスは夫人の失神によって窮状を脱することができるほど窮地にたたされることもない。彼女が早々と、周囲の雰囲気とは関係なく失神して運び出されるのは、彼女がマクダフの役を演ずるためであるとわかる。そのため劇の面白い部分が消えてしまった。


まあ『マクベス』のどこが、面白いところなのか、見せ場なのかについては、おそらく知識がないのだろう。専門家をブレインか相談役として迎え入れたほうがいいかもしれない。


ちなみに今回の演出では、フリーアンスが逃げるところで前半が終わる。それをみていると、やはり、フリーアンスが逃げっぱなしという原作の設定は、難があるのではないかと思う。そして今回の演出は、前半の終わりでフリーアンスの逃亡を強調したため、後半の最後では、逃亡中のフリーアンスが反乱軍によって確保され、新国王の即位と秩序復活の場に居合わせることになる。フリーアンスがスコットランドにもどってくるのだ。歴史というか伝説では、もどってくるのはフリーアンスの息子なのだが、そのへんは知らないのだろう。ただ知らないとしても、逃げたフリーアンスの辻褄をあわせるために、最後の場に登場させたのは面白いといえる。この確保されたフリーアンスが、やがてスコットランドの宮廷で、王位を簒奪するのではないか、権力闘争は終わることはないという暗示を観客は受けとめることになるので、それなにり意味のある終わり方といえなくもない。


ただしフリーアンスを最後に登場させる演出は、過去にも多かったみたいで、ただ、それを踏襲しただけかもしれないが。


付記1:このユニットは、今回の公演の15分前に、「イエロー・ヘルメット」と称するパフォーマンス集団となって(名称の由来は、工事現場でみかける黄色いヘルメットを全員がかぶっていることから)、一曲歌を披露し、観客をなごませるというパフォーマンスをしてくれたのだが、驚くべきことに、彼らが劇中でも登場し、いきなりどこかの工事現場の一角で、昼休みの弁当の時間となった。やがてその後、そこは宮廷の一画で、廷臣たちが謀議するために、作業員はその場を明け渡すことになるのだが、それまで間、彼らはリアルな雑談で盛り上がる。それが石田・東尾のゴシップで、けっこう面白くて、劇場が一気に盛り上がった。この調子で彼らは一時間あるいはそれ以上、舞台をもたせることができるので、この圧倒的にすぐれた喜劇のセンスでもって、シェイクスピア劇以外の演劇を上演したほうが、やっているほうも、みているほうも、面白いのではないかと思ってしまった。


付記2:原作では、「フリーアンス、逃げろ」という台詞は、Fly, good Fleance, fly, fly, flyなのであしからず。