殺しのライセンス(インタルード)


裁判員制度について、批判を書こうと思っているが、その際に、報道で示された事実を見る限り、裁判員制度はもう茶番でしかない。メディアはなぜ、そのことをコメントしないのか。くだらなすぎる。


前にも書いたが、また何回も書くが、国家がまちがった選択をした時に、それを批判するのもメディアの役割ではないだろうか。国家が戦争を選択したときに、メディアはそれを批判すべきかもしれないが、結局、国家に迎合するのだろう。もう半世紀前にもなった前回の戦争の時の反省など全く生かされていないのではないか。


ところで、手術中に患者が死んでも、明確な医療ミスでもないかり、わたしたちは医者を人殺しとはいわない。あるいは警察官が犯人逮捕のなかで犯人を殺しても、警察官を人殺しはいわない。あるいは軍人が戦争で敵兵を殺しても、わたしたちはそれを人殺しとはいわない。彼らは、明確な文書化されたものではないものの、殺しのライセンスをもっている。人間の生死を扱う訓練を受け、知識をじゅうぶんに持っていて、その作業の途中で事故なり不可抗力で人が死んでも許される。あるいは事故ではなくて意図的に人の命を奪う場合でも、軍人や裁判官は国家から、その行為を保証され正当化されている以上、連続殺人鬼よりもはるかに多くの人間を殺しても、その行為を殺人行為とは呼ばない。


わたしは裁判官も軍人も殺人鬼と呼ぶべきだというつもりはない。彼らのもっている殺しのライセンスは、私たちが長く是認してきたものであって、そこを問題にするつもりはない。


だが裁判員の場合、一般人が死刑の判決にサインするときがある。彼らは、特殊な教育も訓練も受けているわけではなく、むろんのこと、経験も、また経験をつむことはない。そのため彼らが死刑のサインをするとき、お茶の間でテレビをみながら、これは死刑に値する、殺してやりたいと口走るのとは違って、法的な重みがある。しかも、このお茶の間でも無責任な感想めいたものを、裁判員制度推進派のファシストどもは、市民感覚と呼んでいるのは、実にstupidだ。仮に国家から正当化され合法化されていても、つまり殺しのライセンスをもらっていても、中身は、抽選で選ばれた、ただの素人であって、ラインセンスは中身も伴わないうすっぺらなものだ。それは国家によって合法化された拳銃を、たまたまひろって、それを誤って発射して人を殺してしまった、いや、その拳銃で、意図的に人を殺してしまった人間である。死刑を肯定する裁判員は、裁判官、あるいは法務大臣とは異なり、ただの人殺しである。


またべつの見方もできる。裁判官は訓練も受け、知識もあるから、人殺しといわれることはないし、また自分自身の気持ちとしても正義の鉄槌を下しているという意識があるから、司法制度という鎧に守られ、良心の呵責など感ずることはないだろう。しかしそのような鎧のない一般人は、死刑を認める調書にサインしたら肯定したら、死ぬまで苦しむことになる。


裁判官は人殺しとは言われないだろうが、実際に死刑を執行する係官は、国家から死刑を委託されているだけなのに、もしその仕事が多くの人に知られたら人殺しといわれるかもしれない。殺人鬼とまで呼ばれないにしろ。だから絞首刑の時、床を開くボタンは3つあのは、誰が押したボタンが、最終的に死刑囚を死にいたらしめるか、わからないようにしているからである。映画『休暇』にも、この三つのボタンが出てきたが、映画のなかで、それを説明していないのは残念だ。あれでは、ただ三人の共同作業で床が開くとしか思われないのだから。また映画『休暇』でわかったことだが、死刑を執行した係官には、特別手当と休暇がでる。そうまでしないと、人を殺したことに対する心の苦しみを和らげることができないのである。


裁判員は、鎧なき、守られることなき、殺人者の汚名を一生着ることになる。たとえ誰からも大っぴらに批判されなくとも。


もちろん、こう語ったからといって、裁判員を非難するのではない。非難されるべきは裁判員制度をつくり、それに賛同したファシスト連中である。地獄に堕ちる野郎どもである(まあ女性もいるだろうが)。