想像の友

私は人と話すのが基本的に嫌いで、書くのは好きだが、そうでないときは、できるだけ黙っていたい。正確には人との会話で声帯を使うのが嫌いなのではなく、人づきあいが嫌いなのである。だからパーティというのは最も苦手で、さすがに同僚との宴会のようなもの、数人との仲間や学生との語らいとか宴会は、苦手ではないが、大きなパーティとなると、もうどうしていいかわからない。話しかけられれば、たぶん、本人が気付かなくても、嫌な顔をしてしまうのだろう。こちらから話かけようとしてもタイミングがわからない。たただた黙ってすごしてしまうことも多い。もし知り合いがいたら、その知り合いとだけは話して時間をすごすが、初めての人間とは話さないし、新たな知己を作ろうとも思わない。


まあ、そういうわけでパーティなどは特に苦手なのだが、しかし、もし想像の友がいたらすこしは時間がまぎれそうな気がする。想像の友は、私の友人である。パーティの時間じゅうずっと友人と話すというのは、パーティの場にふさわしくない失礼な行為かもしれないが、想像の友人となら、べつに問題はない。現実の友人とだけずっと話していたら、その友人にも、周囲の人にも迷惑なことだろうが、想像の友人とだったら、誰にも迷惑をかけることはない。頭の中でその友人と会話していればいい。「あそこにいる男or女はかっこういいね」とか、「あのバカは前に一度会ったことがある」とか、「退屈だ、早く終わらないかな」と、頭の中で想像の友人と話すことができる。時には、ついつい頭の中での会話の内容が表に出て、独り言になって周囲に聞かれるかもしれないが……、いや、これはまずい。


また頭の中の想像の友では、結局、パーティでぽつねんとしているだけで、周囲にも、また自分自身にも退屈で気まずい時間をつくりだすしかない。どうすれば、この気まずさ、退屈さ、時間のもてあましを脱すことができるのか。いや、もっと根本的な問題として、周囲と、あるいは道の人といかにコミュニケーションするのか。


おそらく想像の友を、頭の中ではなく、実体化すればいいのだ。どう実体化するのか。実際の人間ではだめである。ただし話しかけることができるものでなくてはならない。薔薇の花を、自分の想像の友として、これに話しかけてもいいのだが、しかし薔薇では、そもそも話しかけているのかどうかも、周囲にわからないことになる。では、どうするか。おそらく人形とか、ぬいぐるみというのが無難なところであろう。もちろん自分のペットでもいいが、ほんものの動物は、心の友であって、想像の友ではないし、そもそもパーティに連れていけるかどうかも疑問である。


本物のペットではなく、たとえばぬいぐるの動物でもいい、あるいは指人形のようなものでもいい。もちろん人形でもいいが、人形の場合、りかちゃん人形のような場合だと、小ささが問題となる。実際、りかちゃん人形に話しかける人は多いだろうが、小さいと、人格をもった存在に思えなくなる。つまり、それは心の友ではなく、またペットでもなく、端的にりかちゃん人形であり、お気に入りのりかちゃん人形をもってきた、あるいは見せびらかしにきただけということになる。


ほぼ等身大の赤ちゃんの人形がある。あれなどは理想的である。まず、この赤ちゃんの世話をするということで、自分の行動に理由ができる。シェイクスピア風にいうと、「行為の名前」が確立できる。「この子が料理を食べたがっているから」とか「この子はトイレにいきたがっている」とか「外の空気を吸わせたほうがいいみたい」というように、この子になにかをしてやるということで、パーティでの行動のみならず、普段の日常生活においても、自分の行動に意味ができる。


そう、ペットを連れている人、あるいは赤ん坊なり幼子を連れている人間(あるいはさらに妊婦でもいい)は、そのペットなり赤ん坊が足手まといになり、行動が制限されると思われるかもしれないが、たしかにそういう面もあるが、同時に、いろいろなところへ優先的に行けるライセンスももつことになる。ちょうどハンディを負った人が電車のなかで席を譲ってもらえるように、足手まといになるようなペットなり子供なりを連れているひとは、社会から一定のリスペクトされる場合が多い。そしてそれだけでなく、周囲の注目を浴び、もちろん注目されるだけで終わることもあるが、さらには話かけられることにもなろう。そう、ペットや赤ん坊は、コミュニケーション手段になるのである。


そうなるとペットを飼っていない人(あるいは最初からペットを連れてゆけない場所は多いので、ペットはよい方法ではないとしておこう)あるいは赤ん坊なり子供もいないときどうするか。赤ん坊の人形では、会話ができない。一方的に、その人形を赤ん坊に見立てて世話をすることしかできない。したがって会話ができるためには、幼い子供、あるいは動物のぬいぐるみあたりが、もっとも良いということになる。


かりに動物のぬいぐるみを私の想像の友としよう。私はこの想像の友があると、もうパーティは怖くない。いや、そんな心の友を連れてパーティに行くことのほうが、はるかに怖くて勇気もいるし蔑みの眼に耐える忍耐力も必要となると思われるかもしれない。たしかに勇気はいるだろう。しかしやってみれば、問題はないかもしれない。もちろん周囲では、私が冗談でやっているのか、頭がおかしくなったのか、困惑するかもしれない。ただいずれにせよ、しっかりしろと言われる可能性は排除できないとしても、私とのそのぬいぐるみとのやりとりに、割って入って、その続きをしようとする者もいるだろう。あるいは、私に話をあわせようとする人もいるだろう。実際、私に合わせて、ぬいぐるみの世話をしたり、ぬいぐるみと話をするほうが、馬鹿な真似をするなとやめさせるよりも、ずっと面白いからである。


こんなことを考えたのは、わけがある。実際、あれだったら、パーティの苦手な私もうまくやっていけるのではないか。残念ながら、私に勇気はないのだが。最近、その格好の例に出会うというか、想起したのからである。


**君のこと?、いえ、違う。『ラースとその彼女』(2007)という映画の話である。最近DVD化されたようだ。私は持っていないが、映画館で今年の2月に観た。実際、あんな彼女がいれば、パーティとか人付き合いもほんとうに怖くないのにと思った。むしろラースが、想像の心の友として見立てた彼女こそ、赤ん坊や幼い子供やペットやぬいぐるみはフィギュアや人形よりも、理想的な心の友である。残念ながら、これは男性限定であって、女性には無理かもしれないという難点はある。なにしろ、そのラースの彼女、観た人はわかるように、ダッチワイフなのだから。