ハムレット2

映画館での映画は、DVDを買うときの予告編だというようなことをアメリカの映画会社の社長が行ったらしく、物議をかもし出しているのだが、確かに、映画館でみる映画と、レンタルするDVDは、最終的にDVDを買うときの予告編のようなものである。私にとっては。だから『レッドクリフ』は、『三国志』を、格別好きというわけではないが、読んだことがあるので、映画館で興味深く観たものの、映画館で見た後、あんなに原作を変えて、戦争の意味も変えて、スペクタクルだけで、結局、部分的に面白くても、全体的には何が面白かったのか、いまとなっては、はっきりしないので、DVDは購入していない。


で、今回見たのは、まあ、どんなDVDをレンタルしてみているのか。恥ずかしいところもあるのだが、ひとつは、エンターテインメント系でギレルモ・デル・トロ監督の『ヘルボーイ2 ゴールデン・アーミー』(2008)である。ヘルボーイ・シリーズは、面白い。まあDVDで持ってはいないのだが、ギレルモ・デル・トロ監督の独特の映像美もあって、十分に楽しめる。


今回、出演しているセルマ・ブレアが、とくにかわっていないので安心した。彼女のファンかと言われると、まあ、ファンかもしれない。しかし、ファンであろうがなかろうが、特定の出演者が前に映画で見たときと、今回の映画で見たときとを比較しようにもできないのだ。なにしろ、他の出演者は、みんな特殊メイクか化粧がきつくて、素顔がまったくわからないので、とにかく比較しようがない。ロン・ペレルマンは、『ロスト・チルドレン』に出演したときのことが印象深いのだが、今回のヘルボーイ、顔が赤いだけで素顔わからず。ただこの赤い顔のヘルボーイのほうが、素顔の「フランケンシュタイン顔の」ペレルマンより、若々しく生気にあふれていることは事実。あとの人物は、それこそみてもらえばわかる。デルトロのおどろおどろしい映像美は、第1作よりも強烈さが増した。


というか、本題は『ヘルボーイ』ではなく、このレンタルしたDVDを見ていたら予告編がいろいろと入っていて、そのなかで、『ロックミー・ハムレット』というタイトルの作品がある。予告編をみると、これはスティーヴン・クーガン主演のHamlet2(2007)である。日本では公開されなかったのだが、こうしてDVDになった。ということはこれも日本にいるわたしたちにちとって『ハムレット』映画のひとつのとなる。ということで、DVD化された『ハムレット』映画は、今年で2本めである――もうひとつは、いうまでもなく『大阪ハムレット』(しかしマンガが原作の映画は苦手じゃ〜)。


ハムレット2』について少し語っておこう。主役のスティーヴ・クーガンは、比較的最近みた映画では老けた役が多かったので、彼が演ずる高校教師の若さに最初、当人とは気づかなかった。


物語は、もと俳優で、いまで高校で演劇を教える教師であるスティーヴ・クーガンは、毎年、有名な映画を舞台化する上演で不評を買っているのだが、高校の予算削減で、演劇コース消滅の可能性を前に、起死回生の一大行事として、みずからオリジナルの脚本による舞台上映で生徒や地域の住民たちの度肝を抜いてやろうとするのだが、学校からの妨害も入り、使われなくなった倉庫で、エスニシティ混淆の生徒たちのによって、シェイクスピアの『ハムレット』を土台にし、ハムレットがタイムマシンで過去に遡り、悲劇を回避するよう画策して最後にハッピーエンドを迎えるロックミュージカルを、紆余曲折のうえ上映し、成功を収めるというもの。


生徒たちは、どこからも受講を認められず、やむをえず演劇コースを受講するアフリカ系、ラテン系の生徒たちばかりで、やる気がないのだが、そこを教師の説得と頑張りによって見事な上演にこぎつけるというヒューマン・ドラマ。だが主眼は、そうしたありきたりの高校青春ドラマ、ハイスクール・ミュージカルとは、ちがって、さまざまな小技によって逸脱を実現することである。その逸脱ぶりは新鮮だが、同時に、映画にとっては最終的にマイナス効果になりうるところが、問題なのだ。


たとえばこの高校教師演出による毎年の上演は、学校の新聞で酷評されるのだが、劇評に怒った教師が、それを書いた記者に会うと、相手は、高校生にしてはまだ幼い中学生ともいってもおかしくない小柄な男子生徒で、結局、この小柄な男子生徒に、教師は反論できず、最後には適切なアドヴァイスまでもらってしまうのだ。


あるいは『ハムレット2』の主役はアフリカ系アメリカ人の少年なのだが、父親が舞台に立つのを反対しているからと舞台稽古を休んでしまう。演劇に無理解な黒人労働者の父親が息子の演劇活動を許可しないのではと教師は考え(私たち観客もそう考える)、その父親を説得するため、少年の家庭を訪問すると――少年の家は豪邸である。黒人の父親は、大学でPhDを取り、小説もこれまで8冊書いている著名な作家であった。そして父親は、こんなくだらない台本の芝居に、息子を出演させるわけにはいかないと、しごくもっともな意見を述べるのだ。そこをなんとかと出演を承諾させるのだが。またこの父親は最後のパーフォーマンスを見に来ていて、この芝居は、ほんとうにくだらないけれども、心動かされるものがあると、映画内でもっとも好意的な自己言及の台詞を述べる。


あるいはこの高校教師は、妻と同居人の三人で暮らしているのが、気づくと妻は、その同居人と出来ていて、二人はその家から去ってしまう。同居人を演ずるのはデイヴィッド・アークエット。ポイントは、このデイヴィッド・アークエットは一言もしゃべらないのだ。彼には台詞がまったくないのである。


きわめつけはエリザベス・シュー。映画ではエリザベス・シューが看護師役で出演している。スティーヴ・クーガンは病院で彼女の姿を見つけると、つかつかと歩み寄って、あなたは、私がファンでもある女優のエリザベス・シューにそっくりだといきなり語りかけるのである。これには、なんというギャグじゃいと、のけぞったが、それで終わらなかった。そう語りかけられたエリザベス・シュー扮する看護師は、なんと「私はエリザベス・シューです」と答えるのだ。女優業が嫌になって、いまは看護師になって働いているという。なんちゅう設定じゃ〜。そのうえ彼女は、演劇コースで特別講演までして、最後までエリザベス・シューを演じているのである。それもずっと看護師の制服で(まあ、高校教師が賞賛とともに言及する彼女の出演作は『バック・トゥー・ザ・フューチャー2』とか、『リーヴィング・ラスベガス』といった、古い映画ばかりで、彼女の最近作についての言及はなく、台本もおかしいのだが)。


こう書くと、けっこう面白そうな映画と思うかもしれないが、これらは、みな、ずらしのギャグで、そこに力が入っているぶん、本体の構築はかなり阻害され、貧弱なものになってしまうのだ。最後のロック版『ハムレット』後日談は、それになり興味深いし、じっくり見せて欲しいのだが、ダイジェストであって、『ハイスクール・ミュージカル』のようにはいかない。いや『ハイスクール・ミュージカル』のようなものをずらしにかかっているのはわかるのだが、ジャンルの基本構造とか、映画的な魅力の部分が損なわれているのである。


まあ、いまはそんなところか。


ただそれにしても、私が中学生くらいの時に読んだ心理学の一般向け入門書(翻訳)(けっこう熟読した)には、精神分析についての紹介もあり、フロイトのいうエディプス・コンプレックスというのは、フロイトの時代には有効な概念であったかもしれないが、現在のアメリカには、子供を抑圧する厳格な父親などいないのであって、エディプス・コンプレックスは、もう過去の議論であると書いてあった(まあ精神分析も過去の議論だとまでいわんばかりであった)。私はこれを大学生の頃まで信じていたが、嘘もいいかげんにせよと、その本の著者に言ってやりたい。現在の映画にかぎらず、フィクション分野でエディプス・コンプレックス物は実に多い。この映画でも根底にあるのは、主人公のエディプス・コンプレックスであった。いまふと眼をあげた本棚の端に、ジョニー・デップ主演ティム・バートン監督の『チャーリーとチョコレート工場』のDVDが眼に入ったが、あれも典型的なエディプス・コンプレックス物でしょう。結局、息子は、父親とは、いまもうまくいっていないのである。