今日の日はさようなら

エヴァンゲリオン新劇場場版 破』

Hさま


メールありがとうございます。


一時的に帰国されて、またニューヨークへともどられるのですね。
今日の日はさようならというのは、お会いしてもいないのに、変ですが、
またお会いできるチャンスはあろうかと思いますし、
いつまでも絶えることなく友達でいましょう
(この歌は、名曲なのですが、たしかに映画を見た後では、ちょっときついですよね)。


北海道で『エヴァンゲリオン新劇場版 破』をご覧なったということで、
その時の感想と、昔、テレビ放映後のはじめての劇場版を2度にわたってみたとき思い出を書かれていて、
それはなつかしく感じました。


私たちが『エヴァンゲリオン』の最初の劇場版を観たのは、
今から何年前のことか忘れてしまったのですが、
どこの映画館であったかは、
もちろん、最近、どの映画館も改装して快適な空間に変わって、
完全に著名な劇場を凌ぐまでになったのですが、
それ以前のことなので、正確にどこかは覚えていないのですが、
ひとつは新宿三丁目伊勢丹の前の明治通り沿いの映画館でした
――いまもあるかどうか覚えていません
(角川シネマとかシネマート新宿が入っている建物ではなかったような気もしていますが)。
もうひとつは池袋のいまではHUMAX4になっている映画館でした。
どちらかがどちらだったかは憶えていないのですが。


でも、当時『エヴァ』を観たという思い出は、
私たちにとってはつらい思い出でもあって、
その2回のどちらにも出席していたか、
どちらかいっぽうだったか憶えていませんが、
そう4人か5人の出席者のうち、
2人は、いまこの世にはいません。
2004年に相次いで亡くなったのでした。
私たち二人は、その年、二度目の葬式でいっしょになったとき、
もうこれで終わりにして、今度は、葬式で再会するなんてことがないことを
ほんとうに祈っていると、そう語り合って別れた、その数ヵ月後、
また葬式で再会したのでした。


私たちは、二人は、それこそセカンドインパクト*1の生き残りのようなもので、
活力に溢れ変化の波のなかにあった重要な時期というか時代が、
急激に終わってしまったあとの、まだ復興を果たしていない世界のなかで、
日々あわただしく過ごしていながら
気がつくと追憶にひたっている、
そんな哀悼期からまだ抜けきっていないように思います。いまも。


しかしそうした私たちの個人的な思い出とは別に、
エヴァンゲリオン』は確かに若者たちに人気があります。
今回の『破』のほうも、あらかた旬を過ぎた頃、
近所のシネコンでは、上映回数も1日2回に減ってしまった『エヴァ』を
見に行ったのですが、
それでも若い人たちがいっぱいいて
(これだったら、上映回数を増やしたほうがもとがとれるのではと思ったくらいですが)、
しかも圧倒的に若い人たちでいっぱいで、
年配の人間は私ともうひとりくらいで、
これでは生徒の引率で来た先生
もしく最近の若者に人気のある映画を偵察に来た先生のような格好になってしまいました。


前回の『序』(2007)のほうはご覧になっていないとのことですが、
あれは一種の総集編で、
テレビ放映時の映像を、そのまま、あるいはかなり手を加えて使ったもので、
テレビ版を観ている者には、ちょっと物足らないものでした。
べつにご覧になってなくていいもので、内容的にはヤシマ作戦までのところでした。


で、その最初の『序』のほうは、卒業をひかえた学生たちと見に行きました。
ちなみにかつての劇場版を見に行ったときに、
あなたと、亡くなられた方が、『エヴァ』のアスカやレイたちが身につけるプラグスーツについて、
通常はだぶだぶなのだけれども、
手首のスイッチで瞬時に体に密着するところが好きだというようなことを話していて、
なるほど同感だと思った私は、
いま研究室に置いてあるアスカのフィギュア(もちろん既製品ですが、よくできています)も、
手首のプラグスーツのスイッチに手をかけているポーズのものを選びました。
学生には、アスカのこのフィギュアをみせて、
何をしているところかと聞くと、
答えられる学生がいるのですよね。
そういう、いまでもいる新しい世代のコアなファンと、
はじめて『エヴァ』をみる学生たちといっしょに、
『序』のほうは劇場で見たのですが、
私にとっては、やや物足らない総集編だった映画も、
はじめてみる学生には面白かったようです。
ほんとうに面白いのか、私にとっては疑問だったのですが。


今回も、はじめてみる若者たちにとって面白いのだろうか、
たんになんとなく流行だからと、そういう軽い気持ちで観に来ているのではないかと、
思っていました。
北海道でご覧になった時も、
エンドクレジットの流れるなか
若者たちは誰も席をたとうとせずに
最後まで見入っていたことの不気味さを指摘されていましたが、
ひとつは、エンドクレジットは、いくらそこで宇多田ヒカルの歌が流れていても、
帰る観客はいておかしくないのですが、
あれは最後に予告編があることをみんな知っていたからですよ
序破急ですから次の『急』、予告編ではQとなっていましたが)。
しかしそうだとわかっても、不気味さを感じたのはわかるような気がします。
だって普段は映画にを実に来ることのなさそうな若者たちが見に来ているわけですから。
また、彼らは、ある意味、難解なこの映画をおとなしく神妙に見入っているわけですから。


けれども、私はこの映画は若者たちには端的に言って面白かった。
度肝をぬかれるぐらいの映像に驚かされ、
なにかわけがわからなくても、続編ですべてがあきらかにされるだろうというような期待のもとに、
感動で席が立てなかったというのが、ほんとうのところではなかったのかと思います。


今回、もとのストーリーからはずれるようになってきました。
いきなり5号機が出てきます。あまりにもめまぐるしく、
おじさんの私には、5号機の姿が、よくわかりませんでした。
よくわからないまま、あっというまに5号機は破壊されてしまいましたが。


あるいはアスカ登場の場面。
テレビ版では、海上に現れた使徒を、海上運搬中の弐号機に、
同じ船にドイツから乗ってきたアスカが乗り込み、
海上で起動させ迎え撃つという展開でしたが、
これは今回の映画版では完全に消えました。
テレビ版のあのシーンでは、
航空母艦の甲板にはロシアの実在する戦闘機が配置されていたり
(ロシアの戦闘機はいまでも、その空中機動能力では世界随一ですが)、
そうした空母の名前に「シンベリン」とか「テンペスト」といった、
シェイクスピアの芝居のタイトルが付けられていたりと、
私にはとても思い出深いものがあったのですが、
それはすべて消えました。まあアスカも敷浪アスカと名前まで変わってしまったのですが。


あるいは松代でエヴァ参号機でしたか、
それが使徒に汚染されたとき、
3号機に乗っていたのは、シンジ君のクラスメイトのトウジだったのですが、
今回は、アスカでした。そしてアスカは汚染されたエントリプラグのなかに閉じ込められてしまいます。


たしかに、テレビ版をよく観ているファン、
あるいは前回の『序』で初めて『エヴァ』に接したファンは、
今回、はじめて『エヴァ』を観る者とはちがって理解はしやすいことは事実です。
エントリープラグとかダミープラグといっても、
今回はじめて接する観客にはなんのことかわからないはずですから。
あるいはシンジのクラスメートのトウジの妹が病院から退院するといっても、
テレビ版、あるいは『序』を見ていないと、なんのことかわかりません。


しかし、ここが問題ですが、
コアなファン、あるいはテレビ版に慣れ親しんだファンは、
はじめての観客よりは理解度が高いかもしれませんが、
同時に彼らはどうしても変化後と変化前とを比較してしまいます。
ここは前はこうなっていたはずだと、
どうしても思い出さずにはいられません。
実際、今回はほとんど新たに描かれた映像が多く、
時折、痕跡器官のように、以前の絵が垣間見えることがあるのです。
そのために、前のテレビ版を知る者には、
どうしてもビフォー・アフターを比較しなくなるのですが、
それが逆に映画の受容の邪魔をすると思います。


実際、今回、あなたが思い出されたのは、
私たちにとってもかけがえのない人であった、
もう一人の死者が、その昔、
エヴァのテレビ版のビデオをコロンビア大学の先生にあげてしまったことですよね。
DVD化されているはずですから(調べてはいませんが、DVD化されているのはまちがいないでしょう)、
そんなビデオなどもう価値もないのですが、
今回の『破』で、もとのストーリーが変えられていることに対する危機意識、
あるいはもとのストーリーが消えていくことへの不安なり残念な気持ちが、
贈与されてなくなったビデオ一式の思い出となってあらわれたのではないかと思います。
テレビ版のファンであったわたしたちにとって、
それはまた死者が忘れされれるにも似た痛ましい気持ちにさせられるのですが。


閑話休題
今回、はじめてこの映画に接する者は、
たしかに頭の中に「?」がやまのように浮かぶとは思いますが、
しかし、従来のファンのようによけいなことを考えずに映画に没入できるのだと思います。
何も予備知識がない彼らこそが、疑問の代償に、この映画をほんとうに楽しんでいるのです。
そういう意味では、若者に人気があるとすれば納得できます。
何も知らない者がいちばん強いし、またいちばん楽しめるわけですから。


と同時に、このアニメの映像は、たしかに度肝を抜きます。
技術の進歩にはめざましいものがあって、
初期のテレビ版とは比べ物にならないくらい、
アニメ映像の技術はすすんでいます。
度肝を抜くのは、人間のアナログな想像を超える、
まさにアナログ想像を絶するデジタルな映像が登場することです。
抽象絵画を思わせる使徒の映像は、
凡百のアニメを完全に凌駕しています。
そしてこのデジタルな映像の迫力は、
テーマともつながっていて、
エヴァ』は、最近のアニメのなかでは、
際立ってインパーソナルなものを前景化しているように思えるのです。


もちろんエディプス・コンプレックスをはじめとするさまざまなコンプレックスに汚染されている登場人物たち、
友情とか家族愛というテーマは存在します。
しかしそれらは、使徒のもつ抽象絵画さながらの、
まさに抽象性の凶悪さと、
汎用ヒト型決戦兵器人造人間エヴァが隠し持っている獣性の凶暴さに挟み撃ちにあって、
行き場をなくしてしまっているかのようです。
スーパーエゴとイドとが凶暴化して、
エゴが行き場をなくしてしまうといってもいいのですが。
実際、アスカは、そのコンプレックスとともにエントリープラグに閉じ込められているし、
レイもシンジも、使徒に飲み込まれて身動きできなくなっているようです。


そしてこれは映画を観る前は予想もしなかったことですが、
サードインパクトも起こってしまうのですよね。
まさに人間の命などものともしない、
何かが起こり始めているのです。
そしてこれは、いくら形而上的超越的テーマを誇っていようとも、
その精髄はきわめてウエットな人間的テーマでしかないような最近の多くのアニメのなかで、
異彩を放っているといえるかもしれません−−まさにそのインパーソナルな次元の到来が。


結局、最初に戻りますが、
アスカが閉じ込められている参号機を攻撃できない初号機のシンジにかわって
ダミープラグが初号機をコントロールして、3号機をぼこぼこにするとき流れる
「今日の日はさようなら」という昭和の名曲。
これは、「いつまでも絶えることなく友達でいよう」という友情賛歌なわけですが、
この場面に流すというアイロニカルな姿勢は、
友情とか家族的価値を嘲笑する点で、
最近の、いえ、これまでだって、アニメにはないことです。
そしてこの辛らつさ、冷たさは、インパーソナルな次元とあいまって、
テレビ版とは異なる衝撃を観客に与えるのではないかと思っています。


そして、こんなことを語ってしまったあとではなんですが、
わたしたちは、実際には、お目にかかれる機会は、
これからも少ないかもしれないのですが、
それでも、アイロニーなしで「いつまでも絶えることなく友達」でいましょう。
なにしろ、私たちの友情は、死者を通して結ばれてもいるのであって、
死者を媒介にした友情ほど強いものはないと、
私は確信しているからです。気が向いたらニューヨーク通信を下さい。


今日の日は、これでさようならですが。

*1:セカンドインパクト」が何のことかわからない人は、『エヴァ』を観てください。