The Spanish Match

映画『アラトリステ』をめぐって

昨年の後半は、異様に忙しくて、映画をみる時間もなく、結局、見過ごした映画をDVDのレンタル/発売を待って観るという状況が、このところ続いているが、そのひとつが、12月に公開されていたスペイン映画『アラトリステ』(2006)である。昨年の12月に公開されていた映画としてはキアヌ・リーヴス主演の『地球が静止する日』があったが、あれは古い映画をみていればそれでよく、評判の悪かった、わけのわからないリメイク版をは観ていないのだが、後悔はしていない。しかし、この『アラトリステ』は失敗した。観ておけばよかったと後悔しきりである。


アグスティン・ディアス・ヤヌス監督の作品で、スペイン映画史上最も巨額の映画と言われているこの『アラトリステ』は、ぼんやり観始めてからも、みるまに引き込まれてゆく内容だった。17世紀世界最大の帝国を誇りながら、同時に、その勢力を徐々に失ってゆく落日のスペインにあって、勇敢な兵士(平時には剣士でもある)として戦い、その生涯を終えたアラトリステ(架空の人物)の物語を、重厚な歴史絵巻たらんと、それもルーヴェンスや、ベラスケスの絵画に描かれたような十七世紀のスペインあるいはヨーロッパの空気を映像で表象せんとする歴史絵巻たらんとした大作である。


歴史的に観ても興味深い映像が数多くある。いきなり映画の最後のエピソードになるが、スペインが16世紀に考案したテルシオtercio陣形というのを、私は映画ではじめてみた。これは歩兵が大型の槍pikeをヤマアラシの棘のように陣形の四方に突きたてて、騎兵の進行をさまたげ味方を防御し、その間、別の歩兵が、その槍ぶすまの間から攻撃を加えるという複雑な野戦戦術で、結局、このテルシオ陣形を騎兵では破ることができず、敵味方双方がテルシオ陣形を衝突させるしかないなる。そしてスペインのテルシオとコンデ伯率いるフランス軍のテルシオが激突するところが最後の山場となる。


それはまたスペインの無敵を誇ったテルシオが始めて破られスペイン軍が退廃するロクロワの戦いでの出来事であり、この戦いでアラトリステはその生涯を終えるらしいのである。


で、その場面をみてみると、襲ってくる騎兵を、最初、一列に並んだ銃手が火縄銃(マスケット銃など)を斉射して撃退し、次の列の銃手と交代する……って、これって織田信長武田勝頼との長篠の合戦じゃないか。しかも長篠の合戦よりも半世紀以上も後に。だが、これは日本とヨーロッパ(スペイン)が歴史的にみて同期的に連動していからで、戦国時代であれヨーロッパのスペイン帝国に対する暴動あるいは反スペイン・ハプスブルク同盟の時代であれ、騎馬兵の勢いをいかにして削ぐかが野戦における重要課題であり、スペイン軍はこれに回答を与え、信長も、おそらく宣教師からの情報で、それを踏襲したのである。


ひとつはゴンサロ・フェルナンデス・コルトバ(日本ではコルトバと呼んでいるが)の野戦築城。ゴンサロは戦場に塹壕を掘り、あとは火力で騎馬の進行を食い止めたことで名高く、塹壕をはじめとする野戦築城と、火力の集中化によってその後の戦いを有利に導いたし、さらにテルシオの原型をつくったのもこのゴンサロである。長篠の合戦でも、おそらく幾重にも掘られた塹壕、火力の集中化、そして長い槍の柵によって、武田の騎馬軍を撃退したと思われる。スペインの戦術が日本でも使われたのである。


しかしこの映画は、もちろん最初から歴史的な重要な事件を扱う。まずフランドルでの苦しい戦いが描かれるが、帰国後、アラトリステに、刺客の仕事がまわってくる。1622年から映画の物語ははじまる。イギリスの文学史に詳しい人間なら、この1622年という年はひっかっかる年である。そして1623年。アラトリステが与えられた使命は、イギリスからやってくる二人の異教徒を殺せというものだった。え、これって。もしかして。と思うまもなく、場面は夜となり雇われたアラトリステともう一人の刺客は、イギリスからやってきた貴族とおぼしき二人を、いまにも殺しそうになる。あ、このままでは、歴史が、歴史がかわるぞ、と、私が、思わず叫びそうになった瞬間、アラトリステは、なにかがおかしいと感知して、もうひとりの刺客に攻撃をやめさせ、イギリス人二人を救うのである。


歴史がこれで変わらずにすんだ。


映画では、この事件について、とくに説明もせず、さらっと流してしまうが、原作(すでに全巻翻訳されている)にも、最初のほうにこのエピソードが出てくる。原作第1巻の紹介文:1623年、マドリードに住む剣客アラトリステのもとに奇妙な仕事の依頼が舞い込む。一つ目の依頼は「ある二人組の旅行者を痛い目に遭わせてマドリードから追い払ってくれ」というものであり、二つ目の依頼は「この二人組を暗殺してくれ」というものであったが、依頼主はいかにもやんごとなき筋の者のように思われた。だが降参した者を殺すのを潔しとしないアラトリステは、とっさの判断でこの二人組を助けてしまう。実はこの二人組こそ、お忍びでマドリードを訪れたイングランド皇太子チャールズとバッキンガム侯爵だったのだ。


これは、こうした時代小説には、いかにもありそうなことながら、実際には、ありえるはずがない出来事と思うかもしれないが、これは歴史上に起こったことである。1623年3月7日、当時の英国王ジェイムズ一世の皇太子チャールズ(のちのチャールズ一世)とジェイムズ一世の寵臣で皇太子の友人でもあったバッキンガム侯爵(ジョージ・ヴィリヤーズ)がおしのびで、マドリードに到着、イギリスの大使館のドアを叩いたのである。これは当時のスペイン君主(どうして皇帝といわないかといわれそうだが、皇帝の名称は同じハプスブルグ家だがウィーンで神聖ローマ帝国を統治する者にもってゆかれた)フェリペ四世の実の妹インファンタ・マリーアとチャールズ皇太子の結婚問題を話し合い実現するために、イギリスからチャールズ皇太子みずから、マドリードまでやってきたのである。結局、この結婚話は流れて、何の成果もあげられぬままチャールズとバッキンガム侯爵は半年後帰国する。


だがそれにしてもプロテスタントの英国が、当時、反宗教改革の旗頭であったスペインの皇女を妃に迎えようとしたというのは、私が当時のイングランドナショナリスト(まあそういう概念は当時なかったのでアナクロニズムなのだが)だったら、暴れるぞ。ブラディ・メアリー時代再来の可能性もある。実際にこのスパニッシュ・マッチは流れ、インファンタ・マリーアは、神聖ローマ帝国の王子で、後のフェルディナンド三世(だったか)と結婚。現在、残っているマリーアの肖像は、この結婚後のものである。実際、スペインのフェリペ四世も、またローマ教皇も、このチャールズとマリーアの結婚を認めるつもりはなかったで、英国側の早とちりだったし、また当時の英国駐在大使ゴンディマーのよからぬ入れ知恵の影響も大きかったかもしれない。チャールズ皇太子がスペイン宮廷を訪問することは、カトリックに改宗する意思表示とみなされてもしかたなかった。ただ英国はそこまで考えておらず、この点でも両国の思惑は食い違った。


チャールズのマドリード滞在は半年に及ぶが、こんなに長くなったのは、スペイン側に結婚を勧める意図はなかったものの、チャールズに、とっとと帰れとも言えず(礼節を重んじたスペイン宮廷では、そのようば無作法は許されなかったし、イギリスとの友好関係は維持したかった)、結局ずるずると長引いたのだ。その後、英国は、反スペイン同盟を形成すべくフランスへと接近する。


ちなみチャールズ皇太子とバッキンガム侯爵がおしのびでマドリードに行き、スペインの皇女との結婚をすすめようとしたことを聞いたとき、ジェイムズ一世のお抱えの道化師アーチー・アームストロングは、ジェイムズ一世の頭に道化の帽子をかぶせたといわれている。つまり、おまえはアホかということだ――シェイクスピアの『リア王』を髣髴とさせるエピソードである。


こうした歴史知識は日本ではなじみがなかったのかもしれず、いや現代ではヨーロッパでもなじみがなかいかもしれず、それを当然の事実として、説明抜きで扱う映画はちょっと不親切といえば不親切だろう。原作を読んだことはないが、だいたいの粗筋と映画とを比較すると、原作の重要なエピソードは拾ってあるようだが順番は変えてある。原作への忠誠度はやや希薄なのだが、歴史的再現性の情熱のほうはかなりなもので、時代考証的にみてもかなり正確なのではないかと思う。レイピア(ラピエール)による決闘はシェイクスピアの『ハムレット』とか『ロミオとジュリエット』などに出てくるのだが、この映画の中でも頻出しているので、わかりやすい教材としても使える。


そう、マドリード市に隣接している宮廷には、市中に通ずる秘密の通路があって、そこを通って国王はおしのびで歓楽街に出没したことは良く知られているが、この映画にもそうした事実は暗示されている。また映画のなかで舞台上映されていたティルソ・デ・モリーナの芝居は有名な芝居のようだが、スペイン演劇に疎い私としては、原作がわからない。調べてみる価値はあると思っている。そもそもプリンス・チャールズにあとで合流したイギリスの貴族(だったか)が残した記録によると、当時のマドリードの生活は、イングランドと比べると、かなり質素で(スペイン大帝国のことを思うと、驚くが、大貴族はともかく庶民レヴェルの暮らしは貧しかったようだ)、ただ、市の特徴としては、剣客がマントに剣を携えた剣客が闊歩しているということだった――当時のスペインでは女性が家事以外にもさまざまな仕事を担当して、男はただふんぞりかえっているだけでよかったようだ。ああまさに、これこそ映画が再現しようとしている世界だ。歴史的思索あるいは歴史的事実の確認へと、私たちを導いてくれる映画なのだが、もちろん最終的な映画の魅力は俳優にかかっている。


アラトリステの終生の恋人の女優は、『パンズ・ラビリンス』のお母さんなのだが、それよりもなによりもアラストリステがヴィゴ・モーテンセンであることがこの映画の魅力を決定付けた。もちろんヴィゴ・モーテンセンであればなんでもいいということではない。『イースタン・プロミス』は、映画の出来とはべつに、その主役のモーテンセンは、そんなに魅力的ではなかったのだが、今回のモーテンセンは、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラルコンの再来の感がある。そこがモーテンセンのファンならずとも、拍手を送りたい気持ちになる。