コブラ・ツイスト

G.I. Joe(2009)

映画『G.I.ジョー』は比較的最近、新宿のバルト9で観ようとしたところ、エレベーターで上がる1階のフロアの電子掲示板の情報では、上映1時間前だというのに『G.I.ジョー』はすでに満席。ほどなく電子掲示板からも情報が消え、もうその日は、見られないことがわかった。べつに無理して観たいとは思わなかった映画だが、こうなると意地でも観たくなる。まあ見逃してDVDに無駄なお金を費やさないようにと、観ておいてやろうと、そう思うと、いてもたってもいられなくなって、本日、近いところの映画館で時間的もちょうどよいところとして、池袋東急があったので、そこへ出かけた。


めったに行く映画館ではなく、昔、『タイタニック』を見たところだ。かつては大きなきれいな映画館で、スペクタキュラーなロードショー・ムーヴィーしか上映しない館だが、いまでは、ビルの最上階近くにあっても、なんだか場末の映画館のような雰囲気がある。絨毯は汚れている。椅子の肘掛には飲み物を置くところがない。番号札が取れかかっている椅子もあるでの、これでは指定席制にできない。とはいえ週日のこの時間帯には観客はほとんどいないので、映画を観るのに問題はなかった。


映画そのものは、予想どおりのアクション満載のスペクタクル映画で、まあ原作のコミックスの味わいを残している作り方としていると、原作を読んだことのない私でも感じられた。だが映画も終わり近くになると、なんだかどこかで見たような映画という気がしてくる。良い意味でも悪い意味でも。


たぶん誰もでもすぐ連想するのが〈007シリーズ〉である。それもショーン・コネリーロジャー・ムーアが出演していた頃の007シリーズ。水中基地とか、成層圏から落下するミサイルを追いかけるとか。さらには基地内での攻防など。これをパクリというなかれ。今頃、007をパクっても意味がない。つまり意識的引用でありオマージュである。


実際、この映画には、ほかにもオマージュがある。あの北極海の秘密基地から飛び立つマッハ6のコブラ・レイヴン戦闘機は、ああ、昔懐かしいファイアーフォックスに良く似ている(設定も良く似ている――クリント・イーストウッド主演・監督の『ファイアーフォックス』参照)。たぶん意識的借用だろう。また強化服での、路上を走っての追跡は、007風の水中基地の攻防よりは、はるかに面白いのだが、これなども、私は超人ハルクの走りを連想してしまった。


G.I.ジョーの基地をエジプトのピラミッド近くに置いたのは、『ハムナプトラ(原題はThe Mummy)』の監督による、自己言及的設定のようだが、こうした意識的な引用なりオマージュは、それなりに興味深いものがあるが、オマージュだからこそ、引用が面白くなく陳腐であっても許されるし、それがオマージュのしるしになる(面白いところであったら、たんなるパクリとなるのだから)。そしてそれこそが、映画の欠点となる。オマージュの部分が面白くないのだ。もしこれがオマージュであり引用であるとわからない観客がいたら、たんに、昔風の安っぽい設定とみなすかもしれないし、それはそれで正しい判断であり反応なのだ。


この映画の設定で面白いのは、ある人物がその場にいてもホログラム映像であって、ほんとうは遠くにいる、あるいは居場所すらわからないということである。これなど、現前する映像は、いくら迫力があっても、その中心はべつのところにある、つまり現前する映像は引用にすぎないという暗号あるいは信号のように思えてくる。


まあいすれにせよ、せっかくのCG技術なのだから、もっと面白くなったはずが、引用なりオマージュなりノスタルジアへとはまり、つまりポストモダン化に傾斜したため、センス・オヴ・ワンダーが希薄になってしまったとでもいえようか。


俳優のほうに目を転じたい。主役といえるのは、特殊部隊の指揮官で、コブラ軍団の襲撃から、からくも生き延び、GIジョーに入隊するデュークとその相棒のリップコードだろう。デューク扮すチャニング・テイトゥムの顔をみながら、ライアン・フィリップの顔を思い出していた。なんとなく似ている。しかし、やはりライアン・フィリップではない。どうしてかといぶかった。


前の日にテレビで『トランスポーター2』を放送していたが、主役のジェイソン・ステイサムは、『カオス』という映画でライアン・フィリップと共演している。だからライアン・フィリップのことが思い浮かんだのかと思ったが、そうでもないようだ。帰って調べてみて、理由がわかった。『ストップ・ロス』。あの日本では公開されなかった(DVD化されたが)すばらしい映画のなかで、チャニング・テイトゥムとライアン・フィリップは共演していた。彼らは部隊を指揮するふたりの軍曹であり、恋敵でもあり、ライヴァルでもあり、また親友でもあったが、軍隊と人生とのありかたについて意見が激しく対立していた。


英語のサーヴィスは、兵役という意味もあって、これは一定期間、国家や軍隊のために奉仕することを意味する。その一定期間、奉仕すれば、つまり兵役に服すれば、あとは除隊できる。イラクへ派遣された兵士たちも、兵役を勤め上げて帰国して除隊するはずが、アメリカのストップ・ロスという制度によって、除隊が認められず、再びイラクに派遣されていた。この問題のある制度に切り込んだ映画が『ストップ・ロス』。せっかくイラクから生き残って帰ってきても、再び派遣されたら生還できる可能性は少ない。消耗品である彼らは、死ぬ(戦死する)まで、イラクへ派遣されつづけるのだ。


映画の最後の場面。イラクから英雄として帰ってきた兵士たちも、ふたたびイラクへ派遣されるべくバスに乗り込んでいる。イラクで重傷を負って両足を切断し両腕も使えなくなりさらに失明した黒人兵の弟が新たに乗り込んでくる。稼ぎ手を失った貧しい黒人の家族は、その弟を兵士として送り出し、家族の支えとしなければ生きていけないのである(なおこの映画は、負傷し障害者となった兵士たちの生々しい姿を真正面から捉えた稀有な映画でもある)。チャンニング・テイタムは、これまでのいきさつから、沈痛な面持ちで座っている。そのすぐとなりにいるライアン・フィリップスは兵役から逃れるべく奮闘するのだが、万策尽きて再び派遣されることになり、ふっきれたような表情をしている。バスの外では見送りの人々が来ている。ライアン・フィリップの母親は、二度と息子に会えない予感で泣き崩れる。チャニング・テイタムの元妻で、ライアン・フィリップスの恋人でもあったアビー・コーニッシュが怒ったようにバスを見つめている。戦争なり兵役が日常生活の一部となった社会の悲惨さを、これまでにない角度からこの映画は伝えていた。戦争は、イラクの家族も、アメリカの家族を破壊するのである。


そしてこの映画『ストップ・ロス』には、まさにお約束ともいうべき、精神に破綻をきたす復員兵が登場するが、それをジョゼフ・ゴードン・レヴィットが演じていた。そしてゴードン・レヴィットは、この『GIジョー』でもチャニング・テイタムの恋人アナの弟で、いまではコブラの科学者になっているドクターの役でも登場していた。そう、私はこの映画をみながら無意識のうちに『ストップ・ロス』を想起していた。だから、ライアン・フィリップのことを思い出したのだ。


ジョゼフ・ゴードン・レヴィットは、芸歴の長い俳優で、子役として活躍して、いまや重要なスターへと生まれ変わった。シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を学園物にアレンジした映画に出ていたことが印象深いのだが、その時は、この貧相な子どもがけっこう重要な役に出ていることに不満があった(なにしろ、その映画でペトルーチオにあたる役を演じていたのはヒース・レジャーだったのだ)。しかし日系のゲイの監督グレッグ・アラキの『ミステリアス・スキン』(日本未公開)で男娼を演じたときには、これがあのゴードン・レヴィットかと我が目を疑った――このブログでも以前書いたように、ほんとうに抱かれたいと思ったくらいだ。以後、重要な映画に出まくっているし、今年の夏、東京で彼が出演(主演ではないが)している映画は、もう一本封切られているのである(なんだかは教えない――まあいずれレポートするが)。


実際、彼を観に映画館まで足を運んだところもあるのだが、残念ながらこの映画では素顔を見せるのはほんの少し(回想シーン)で、コブラの科学者となった彼は、戦争でひどい怪我をして顔面が変形している。しかも映画の最後ではさらにコブラの指揮官となるべく、完全に鉄火面になってしまうのだから、その顔をみることができない。


あとレイチェル・ニコルズについては『スタートレック』(2009)に出ていたとのことだが、数ヶ月前に観たばかりなのに憶えていない。その前には『チャーリー・ウィルソンの戦争』(2007)にも出ていたとのことだが、まったく憶えていない。しかし、彼女は、やはり『P2』(2007)の人でしょう。車を運転しない私は、地下駐車場を使うことなどないので実感がわかないのだが、実際に車を運転する女性に聞いたら、予告編を観ただけでもリアルな怖さがあると語っていた。


ジョナサン・プライスの大統領は、意外な感じがしたし、そもそも映画で観るのも久しぶりと思っていたが、プライスは『パイレーツ・オブ・カリビアン』とか『ベッドタイム・ストーリーズ』(2008)に出ているようだ(後者を私は観ていないのだが)。まあはじめての、ブリティッシュ・アクセンツのアメリカ大統領ということで、めでたいのではないだろうか。


デニス・クエイドは相変わらず元気なのだが、コブラ側のザルタンは、デニス・クエイドに成り代わるのではと思ってしまい(そう思ったのは私だけではないと思う)、怪我から復帰した彼が登場すると、変に緊張してしまったが、まったく関係なかった。


総じて、悪役のコブラ軍団のほうに魅力的な俳優が多い。イ・ビョンホンは、前作『アイ・カム・ウィズ・レイン』についで悪役なのだが、悪役はよく似合っている。前作では、狂人に近いギャングのボスの役だったが、今回くらいの悪役忍者のほうが適役のような気がする。いずれにしても、その独特の悪の魅力はこれからますます磨きがかかるに違いない。


そしてシエナ・ミラーSienna Miller(1981年12月28日〜)。べつに彼女を観に映画館に来たわけではなかったが、結果的に、私が彼女のファンかどうかは別にして*1、この映画は、彼女の顔をみるためのものではないかという素朴な感想を抱いた。主人公のデュークの恋人だった頃の不幸をまだ知らぬ金髪の彼女から、弟の死、恋人の離反によって悲嘆にくれ、悪の組織コブラに拉致され、そこでバロネス(実際にフランスの男爵と結婚しているという設定)としてコブラの指揮官への変貌。G.I.ジョーとの死闘、そして素顔の彼女への変貌など、まさにシエナ・ミラーのコスプレとパフォーマンス、そしてそのつど変貌をとげる彼女の表情――この映画は、彼女をまさにディーヴァとしている。


実際、この映画は「コブラの台頭」と名づけらているように、続編へとつづいてもおかしくない設定でつくられている。最初は、軍需産業の長が、いかにしてコブラ軍団の援助者デストロになるか、怪我をしたドクターがいかにコブラ軍団の司令官になっていくかという話であり、一応、戦いに決着はついていても、本番はこれからだという構えで終わっている。だったら、この映画は、つぎなるステップへの捨石ということになるが、実際には、きちんと物語ができていて、それはアナ/バロネス/シエナ・ミラーの争奪戦である。デュークの恋人だった彼女は、コブラの側に拉致され奪われる。彼女のことを、デストロ役のクリストファー・エクルストンも、あるいはイ・ビョンホン扮する忍者も狙っている。しかしデュークは、彼女を奪還し、ダークサイドから離脱させる。


このプロセスはまた表情の変化のプロセスでもある。悪のコブラ軍団は、表情がわからない仮面をかぶる。そして武器産業の会長も最後には鉄の仮面をつけたデストロに生まれかわる。ドクターもまた、鉄の仮面をつけるようになる。コブラ軍団は最終的に仮面軍団として立ち上げられてゆくのに対し、その流れに逆行するかのように。奪還されたシエナ・ミラーだけは、素顔にもどってゆく。人間の顔をとりもどしてゆく。シエナ・ミラーの顔を観に来たという私が抱いた感想は、作品の構造についての、適切な感想だったのかもしれない。


それにしてもシエナ・ミラーがキーラ・ナイトリーとともに、詩人ディラン・トマスをめぐる二人の女を演じたThe Edge of Love(2008)は日本で公開されるのだろうか。

*1:最近作は見ていない。『ファクトリーガール』『インタヴュー』『スターダスト』『レイヤーケーキ』『カサノヴァ』『アルフィ』あたりまでは見ているが。