Breaking the Silence 1


村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白」(2009年3月9日12時29分)という記事が以前ネットに載ったことがある。

 2月15日に開かれたエルサレム賞授賞式のスピーチで、イスラエルのガザ攻撃を批判して話題になった作家村上春樹さん(60)のインタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」が、受賞スピーチ「壁と卵」(全文)とともに、10日発売の「文芸春秋」4月号に掲載される。昨年11月の授賞の打診、発表前のガザ攻撃で悩んだ経過やペレス大統領の表情、スピーチで明かした昨年90歳で亡くなった父親の戦争体験などを率直に話している。


 村上さんは、国ではなくブックフェアの賞であることや、過去の受賞者のパレスチナ政策批判スピーチも内容が公開されていることから、授賞式で話すという「ポジティブなメッセージ」を選んだ。


 授賞式にはペレス大統領も出席。式の前に「僕は14年前に『ノルウェイの森』を読んだ」と言われた。しかし、「スピーチの途中から最前列に座っている大統領の表情がこわばってきました」。終わると、多くの人が立って拍手したが、大統領はしばらく席を立たなかったという。


 一方、エルサレム市長は「あなたの意見は小説家として実に誠実なものだ」と、積極的に握手を求めた。村上さんはイスラエルにもいろんな考えをもった人がいて、そういう人に会えたのが「大きな収穫」としている。


 ウェブを中心に受賞辞退を求める動きもあったが、パレスチナで起きていることへ関心を集めた点で「有意義」な問題提起だったと見る。他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

もちろんインタヴューにもとづく構成記事であって、これをもって本人に、その発言内容の責任を負わせるのは、むしろ理不尽であるので、本人の責任ではないことを前提として、もしこういうことを語る人物がいれば、虚構であれ現実であれ、やれやれ地獄に落ちろとしかいえない。


村上春樹の英語のスピーチの日本語訳はいくつかあって、以下はネット上に掲載されていたものだが、そのサワリを引用する。もちろん有名になったところである。

≪資料≫村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)


 真実をお話しします。日本で、かなりの数の人たちから、エルサレム賞授賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。


 受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。もちろん、私の本がボイコットされるのは見たくはありません。


 しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。【この発言に対して会場から拍手があったことを、私はニュース映像で覚えている。――引用者】


 というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。


 ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。


 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。


 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?


 この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 

 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。【以下略】(仮訳=47NEWS編集部)

こういうのを何というか知っていますか。人間の屑というのですよと、村上という高い壁に卵をぶつけてやりたくなる(私が卵になるのももちろんやぶさかではない)が、まあこのスピーチに対しては、すでに誰もが忘れかかっているとしても、いずれ、もっときちんとした批判を展開しなければと思うので、今回は、これだけ語っておこう。


「この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。」と買った手いるところ。ここでいう暗喩とは、英語原文でmetaphorであって、いまどきmetaphorを「暗喩」と訳すのもどうかと思う。「隠喩、メタファ(−)」さらには簡単に「比喩」でも「たとえ・譬え」でもいいし、そのほうがわかりやすいと思うのだが、もちろこんこれは村上本人の責任では全くない。


ここでは「爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です」と語れる時に、あらわれる「白リン弾」という言葉である。その前の三つの単語は、軍事侵攻なり軍事攻撃を意味する換喩であって、特定の軍事行動を意味しないが、「白リン弾」だけは、イスラエル軍がガザ侵攻に際して使用した兵器で、国際的に非難されているものである。


基本的には焼夷弾なのだが、たんに家屋を焼くだけでなく、人体組織にも甚大な被害を与えるもので、これを人口密集地域に打ち込むとは、家屋だけでなく住民の大量殺戮を狙ったことが明白で、国際的に非難されている。もちろん、イスラエル国防軍の場合、あえていうまでもなく、白リン弾の非武装市民に対する使用は、それはジュネーヴ条約に対する重大な違反行為である。


したがって「壁」と「卵」の比喩では「壁」イスラエル(軍)、卵は非武装のガザ市民あるいはパレスチナ人を意味していることは明白であり、この比喩は特定の歴史的事実に言及しているのである。


エルサレムに乗り込んで、このことを堂々と語ったことで、村上春樹は、日本中から拍手をもらったといっても過言ではないだろう。しかし冗談というのは、最後まで聞かないとわからない。壁と卵を、イスラエルパレスチナと解釈するのは「あまりに単純で明白で」であって、「しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります」と言って、この時事的言及を軽視して、わたしたち一人ひとりが、システムの前では無力な卵であると言ってのける。


彼にとっては、パレスチナイスラエルがジェノサイドを敢行し、地球上の全人類を侮辱する挙に出ている(あるいは国際社会の非難を無視して虐殺に走っている)ことよりも、わたしたちがシステムの前では無力な人間であるという、そんなことはわかりきっていることのほうが、深い意味があるらしい。そしてこの「陳腐きわまりない」深い意味の前に、イスラエルのガザ侵攻という重大事件は、露払い役として役目を果たしたあとは、ただ消え去るのみなのだ。冗談は最後まで聞かないとわからないのである。


したがってシステムと人間個人という、この腐った卵のような、だがリベラル・ヒューマニズム(個人と社会との対立相克がバカの一つ覚え的テーマだった)からポストモダン(システムはすべて悪であるという単細胞的発想)まで続いている発想のなかで、つぎにくるものはわかっている。自爆テロを敢行するパレスチナ人はいうにおよばず、ただ壁にむかって投石をするパレスチナ人もまた、システム(PLOなりハマスなり、いやなんでもいいが政治団体なり週教組織)に動かされて、無自覚なまま残虐行為なり暴力行為に走っているのであって、彼らも被害者であるかにみえて実はシステムと一体化した加害者だというのだろう。


弱い立場の者たち、虐げられた人々に同情し共感はするが、彼らが自発的にあるいは支援を受けて抵抗したり、さらには強くなると、卵ではなくて壁だと恐れ始めるというのは、弱い人がいて、同情に値しない人がいないと面白くない、あるいは永遠に虐げられる人たちと一体化したいというマゾヒストかセンチメンタリストということだろうか。結局は、弱い立場の人間が強い人間になる、あるいは虐げられているだけでなく抵抗するようになることを、なにより恐れる壁側の人間ということである。村上春樹が壁なのであって、本人は卵の側だと思っているにすぎない。


あるいは村上春樹にとっては政治活動というのは何であれ(つまり抑圧に対する抗議行動や抵抗運動も)システムであり、壁であり、忌まわしいものなのである。だかそういう立場の村上は、日本で一番政治的な作家であろう。ここまで臆面もなく、保守的政治を擁護する政治家・文学者というのも、そうざらにはいないのだから。


最初に引用した朝日新聞の記事によると、「しかし、「スピーチの途中から最前列に座っている大統領の表情がこわばってきました」。終わると、多くの人が立って拍手したが、大統領はしばらく席を立たなかったという。」と村上春樹は語っているようだが、うそだろう。かりにほんとうだとしても、ペレス大統領に誰か言ってやって欲しい。村上春樹は、あなたがたイスラエルの味方ですよ、と。


あなたは、自分たちイスラエル人が、アラブ世界という高い壁にぶつかってもろくも壊れる卵だと思っているでしょう。村上春樹も、自分は卵の側につく、自分もまた卵だと思い込んでいますよ。ふたりとも、ほんとうは壁なのに、自分は卵と思い込んでいる大バカ者です。お似合いのふたりではないですか。友を呼ぶというやつですよ。ふたりともいっしょに地獄に落ちればいいのです。


土井敏邦監督のドキュメンタリー映画『沈黙を破る』(2009)を観た。(つづく)