神になろうとした男1

『しんぼる』編



松本人志の前作『大日本人』は、なにやらむつかしそうな前衛映画めいたところがあって、それで劇場まで足を運ぶのを敬遠した人も多かったようだが、予想に反して、良質のエンターテインメント映画で、馬鹿馬鹿しいギャグが満載だったが同時に、その妙なリアリティが日本の日常と文化の古層にまで到達している透徹した視線を暗示し、松本人志の天才性をあますところなく伝えていた。


いっぽう第二作『しんぼる』は、『大日本人』を見る前に多くの人々の妄想のなかでとらえられた、こういう作品だったら嫌だなと思われるものを、まさに過不足なく実現したところがあり、また前作とはまったく異なるジャンルの映画であるものの、主題的に共通のところがあり、まぎれもない松本映画でもあったのだが、前作で予想されながらも無縁であった凡庸な前衛性を全開しているところがあった。


公式サイトとかWikipediaには以下の紹介文がある。

メキシコのとある町に住むプロレスラー、“エスカルゴマン”。彼の妻は、夫がいつもとは様子が違う事に気付く。その原因はその日の対戦相手が自分より若くて強い“テキーラ・ジョー”である事だけではなく、他に“何か”が起こりそうという胸騒ぎがしていたからだ。


時同じくして水玉模様のパジャマを着たマッシュルームカットの男(松本)は、ふと目を覚ますと白い壁に囲まれた部屋に閉じこめられていた。男はその部屋から脱出を試みようとする…。

前半のメキシコ編では、「他に“何か”が起こりそうという胸騒ぎがしていたからだ」というのほどの胸騒ぎはなく、むしろ淡々としていて、ひとたび始まった物語である以上、クライマックスでは何かが起こるという当然の予感以外の、胸騒ぎめいた予感はない。


ただこの引用かもらわかるように、映画は基本的にパラレルに進んでゆく。ローカルなルチャ・リブレをめぐるステレオタイプなお約束物語とリアルな映像からなるメキシコ編と、白い部屋に閉じ込められた男(松本人志)の脱出までを描く、お笑いコント的不条理劇(まあ不条理劇とは、そもそもお笑いコント的なのだが)。むしろ観客の予感は、このパラレルに進行するふたつの物語が、どこで交錯するかに向けられる。両者の関係とは何かが、全体を牽引する原動力となる。


不条理劇のほうは、水玉模様のパジャマのようなものを着て、マッシュルームカットのヘアの松本人志の脱出劇なのだが、そのパジャマは、本人が眠っていて、すべては夢の中の出来事であることの暗示のようにもみえるし、またまだら水玉模様は道化師の衣装のようにもみえるし(正統的不条理劇の主人公)、中年のオヤジながら同時に幼児のようにもみえる。脱出劇は、同時に誰かあるいは何かに監視されている実験のようにもみえる。



昔、アイザックアシモフの、いまでは名前も、読んだ本も忘れてしまったのだが*1、あるSF短編にいたく感動したことがある。それは笑いの問題を追及している科学者が、人間はなぜ笑うのかという問題を解明しようとする物語だった。人間がなぜ笑うのか理由はわからない。ある種の刺激、冗談とかギャグなどで笑うことはわかっているのが、なぜかは理解できていない。笑いにはなにか超越的なところがある。そこで、その科学者は、実験室の鼠をアナロジーとして笑い問題へのブレークスルーを行っていた。


つまり、たとえば、迷路を走らされる鼠がいるとする。それは科学者が、鼠の行動や認識のパタンをみるための目的も意味も明確な実験だとしても、鼠にとっては、ただわけもわからずに迷路を走らされ、刺激に対して本能的に反応するしかなく、みずからの行動も認識もまったく説明できないし、すべてが謎の不明確な不条理な世界である。鼠の迷路での行動を説明できるのは、鼠ではなく、実験をおこなっている人間である。なぜ笑うのか人間には説明できないとすると、説明は高次の存在に属するのである。笑いの理由を解明できるのは人間を超えたメタレヴェルでしかない。人間は、なぜだかわからないか笑う。それは人間が迷路の鼠同様に、何かに(宇宙人によって、神によって?)、実験されているということである。そうするとわたしたちの周囲の世界、このありふれた日常的世界が、実験室の迷路にみえてくるという壮大な冗談が、その短編のオチであった。


しかし、このアナロジーは、不条理劇を解明するうえでのヒントをあたえてくれる。昔、サルトルは不条理劇を公衆電話ボックスで話している人間を外から眺めるようなものだと語ったことがある(モーリス・ブランショを論じている文章だったかと思うが忘れた)。つまり話し声は聞こえなく、口をぱくぱく動かし、身振り手振りで電話のむこうの誰かに伝えようとする人間の姿は滑稽であるというのだ。今風の比喩でいえば、音声を消してみるテレビということだろうか。言語的コミュニケーションを奪われた人間は、意味を奪われた、こっけない動物あるいは機械でしかない。そこに不条理劇あるいは不条理小説を解く鍵があると考えたわけだが、実験される鼠のメタファーは、さらに低次の存在と高次の存在という神学的構造をつけ加えることになる。


ただし神学的構造といっても、それは聖なる存在の肯定であると同時に否定でもある。不条理劇が西洋の神学的形而上的世界観なくしては誕生しなかったことは事実だが、同時にそれば誕生とともに親の息の根を止めた。実験室鼠の比喩は、神の存在を前提とするが、しかし鼠には最後までなにも説明できない以上、神の存在は感じ取られても、同時に、無意味なものであれ、聖なる侵入もなければ聖なる交流もない世界は、神なき世界と変わらないものとなった。



白い部屋に閉じ込められた松本人志の脱出劇は、「修行編」と銘打たれているように、試行錯誤と試練の場であり、そこを乗り越えることによって次の階梯へと進むことができる。となると、松本の姿は、神に試されている道化でもあり、また大人へと成長する前の幼児のようでもある。しかし、もっとも適切な比喩は、実験される鼠というよりも、実験される猿である。


ちなみに白い部屋は最初なにもないのだが、冒頭、そこに無数の白い天使(幼児の姿の)が壁から現れ(予告編でも見たこの映像は、圧巻である)、また壁のなかに消えていくが、そのときチンポコだけを白い壁のところから突出させる。その白い、小さな子供のチンポコを松本が押さえると、白い部屋にさまざまな物体(ときには現象)が投げ入れられる。これが映画のタイトルの意味である。チンポコ=男性のしんぼる。実際、この睾丸とペニス(とはいえ子供のそれなので、大人のそれのように気色悪いものではない)のキャラクター商品さえ売っている。


このチンポコ・ボタンは、天使のチンポコであり、聖なる存在を暗示させると同時に、押すと部屋に投げ入れられる物体・品物、ならびに部屋に生じる現象と、一対一の対応をしているため、そのチンポコ・ボタンは、部屋の中の被験者の様子を観察する実験が進行していることをも暗示する。それは、部屋のなかにあるものを工夫して、えさのバナナにありつこうとするチンパンジーを使った実験を彷彿とさせるものがあり、事実、脱出方法も、チンパンジーあるいは猿を暗示するものである。


この脱出劇は、それだけを楽しんでもいいのかもしれない。ナンセンスな笑いは、それはそれで面白ことはちがいないからだ。しかし最終的な脱出方法は、知能の冴えをみせる主人公(松本)だが、それまでの行動と思索が、さほど頭がよいとも思えず、むしろ意味のない行動をして、見ているものをいら立たせることも事実だ。最終的に脱出したあと何があるのかを知りたいと観客は思うので。だが次第に、脱出した後も、何も起こらないのではないかという予感もふくらんでくる。この脱出劇の部分が退屈になってくる。


おそらく、そのぶん、メキシコ編が逆に面白くなってくる。


冒頭からカメラを固定して映像をじっくりみせはじめるこのメキシコ編は、ルチャ・リブレの、あまりぱっとしないレスラーと、その家族の物語であり、その父親を愛し応援している小さな男の子が、父親の出る試合を、祖父と見に行く物語は、なんどもくりかえすようにステレオタイプな物語と人物像とはいえ、ローカル色のみごとな提示方法と、芸術的とすら形容したくなる撮影方法ならびに迫力あるリングでの格闘シーンによって、俄然、面白くなってくる。このメキシコ編は、よく出来ていて、このままモントリオールへもっていったら賞がもらえるのではないかと思えるほどの完成度なのだ――最後の瞬間に台無しになるまでは。


4 【ネタバレ注意】
白い部屋での脱出劇が、主人公(松本)、脱出法を考案し、ついにドアのむこうの世界に飛び出たときに終わりを告げるのだが、長い廊下を走る主人公が、結局、最後に、もとの部屋にもどってくるしかなかったように、脱出は水平方向、あるいは横方向の空間移動においては実現せず、垂直方向、空間的移動ではなく時空の超越、高次元への移動によって実現する。なお部屋から奪取できた主人公(松本)が走る長い一直線の廊下は、実験で鼠が走らされる迷路を彷彿とさせる。ボルヘスのいうように、この世で最高の迷路は直線の迷路なのだ。


実際、横方向の移動(迷路走り)に疲れて帰ってくると部屋の様子が変わり、天使たちも大人の男になっている。壁に埋め込まれたチンポコの形に変化はないのとしても、これは主人公が試練と実験を経た上で、高次の存在へと変貌を遂げたこと意味する。高次の存在、それは何か。神になったのか。そう、神になったのである。笑いの神に。


主人公が笑いの神になったときに、メキシコのルチャ・リブレとの繋がりが生まれる。どのようにしてか。前作『大日本人』では、最後の土壇場で実写編に移行して、それまでの映画特撮CG編がずっこけてしまうのだが、どうも、これがお笑いの本質と思っている松本は、ここでも同じことをする。


主人公が部屋のチンポコ・ボタンを押すと、白い部屋だったら部屋に物体なりが投げ込まれたのだが、この灰色の部屋では、チンポコ・ボタンを押しても、部屋に変化は訪れない。そのかわり現実の世界に変化が訪れる――奇跡といってもいい。松本が押すボタンは、メキシコのルチャ・リブレの世界に変化をもたらすのである――台無しにするかたちで。


メキシコ編のクライマックスは、少年の父親で二番手のヒーローで、スーパースターの足をひっぱっていると少年の友人たちからいつも馬鹿にされている「エスカルゴ・マン」が、パートナーと組んで、ヒール組とリングで戦う場面である。スーパースターが、善戦むなしくヒール組の反則で倒れた後、エスカルゴ・マンが次ぎの餌食となり、羽交い絞めにされ、折りたたみ椅子で強打されそうになる。エスカルゴマン(少年の父親)の運命はいかにというとき、何も知らない松本人志が灰色の部屋でおそるおそるチンポコ・ボタンを押す。


するとエスカルゴ・マンの首がろくろ首のように伸びて、頭部と首とが、ハンマーのように相手レスラーに振り下ろされ、相手を倒してしまうのである。唖然。なに、このろくろ首は。


これまでのローカル色豊かなリアルな映像がこれですべて破壊される。このろくろ首ハンマーが、ヒール組のもうひとりのレスラーを倒すだけでない。もはやモンスターと化したエスカルゴ・マン*2は、暴走し、相手レスラーだけでなく、パートナーもそのハンマー頭突きで倒してしまい、さらに止めに入ったレフリーも、そして最後には、リングにあがった幼い息子に対しても、ハンマー頭突きをくらわしてしまい、リング上にはレスラー三人、レフリー、少年が倒れて横たわってしまうという、まさにお笑いの結末が出現する――これって鉄板なのか。そして最後にゴングが連打されるが、それもエスカルゴ・マンがろくろ首の頭部でゴングを連打していることがわかる。そしてそれは、灰色の部屋で、チンポコ・ボタンを押しても何も起こらないのをいぶかった松本人志が、ボタンをいらだたしげに連続して押した結果なのだ。ああ。


テレビのコマーシャルでも放送している「もったいない」乾電池のそれは、映画館でもよくやっているのだが(ちなみに近所のシネコンでは予告編の前に必ずこのコマーシャルが流れる)、それを思い出す。つまりこう書くと、『シンボル』という映画はくだらないけれど、すごく面白いと思ええるかもしれないが、そんなことは全くなり。つまりメキシコ編は出来がよかっただけに、あの、ろくろ首の出現によって、あんな終わり方しかしなくなって、「もったいない」という慨嘆しか出てこない。紋切り型だが、それなりに活力もあったメキシコ・ルチャ・リブレ編—おそらく多大な制作費がかかっているはず――が、すべて、このろくろ首のお笑いを出すための前振りだったというのは、あまりにもったなさすぎるぞ。


これは松本が金がありすぎるのか、無神経すぎるのか、残酷すぎるのか。


笑いの神は残酷な破壊神なのか。


5 【引きつづきネタバレ注意】
灰色の部屋での松本の行為は、白い部屋でのそれが「修行編」だったのに対して、修行を終えた後の「実践編」と銘打たれている。そして今回、チンポコボタンを押しても、現実の世界には影響が出るのだが、部屋にも何も起こらない。松本は、自分が何をしているのか全く把握できなまま、世界に変化をもたらしつづけるのである。


これはひとつには修行を終えたばかりで、自分が何を創造し、何を破壊できるか、その能力をコントロールできない状態にあることを意味しているのかもしれない。突如出現したみずからの超能力をコントロールできなくなったエスカルゴ・マンは、その意味で、松本人志の分身でもある(実際、予測がはずれたのだが、私は、途中まで、松本人志エスカルゴ・マンの頭のなかで生じている葛藤の具現化であり彼はエスカルゴ・マンの化身であるかもしれないと思っていた)。やがて実践を通して、松本はみずからの力をコントロールして、笑い神として自己実現をするともとれる。そう、エスカルゴ・マン事件は、過渡期に生じたアクシデントなのだ。


しかしべつの解釈も可能だろう。そもそも笑いの神様は、ノーコントロールなのである。笑いの効果は、たくまざるところ、予期せざるところに生ずるのであって、それ自体、どんなささやかな笑いですら、奇跡という超越的事象なのである。ノーコントロール、ノーアジェンダ。笑いの神は、神でありながら、すべてをコントロールできない。あるいはコントロール能力を欠いた神という、それ自体、お笑いの種になるような存在なのであって、お笑いの神は、加害者であると同時に被害者である。白い部屋の松本人志は、チャーリー・チャップリン的道化だったが(部屋の中の天使たちはさしずめチゃーリーズ・エンジェルか)、上位の階梯を暗示する灰色の部屋の松本人志は無表情のまま世界に奇跡=笑いを引き起こすも自分では何をしているかわからないバスター・キートン的笑い神なのだ。


しかし、私が何の説明もなしに、主人公(松本人志)のことを、勝手に「笑いの神」と呼んでいると思われる方もいるかもしれないが、それはちがう。この映画の、この物語のなかでは、主人公は、笑いの神になる。


実際、主人公は、やがてコントロールを学んだようで、ただ身振り手振りだけで世界に変化をもたらせるような超能力を身につけるようになる。それまた高次の存在へと階梯を上り詰める、あるいは浮揚し浮上してゆく、垂直運動として出現する。そしてそれと平行して、主人公が引き起こす世界の変化が示される。それは部屋の壁にも映し出されるようになる。それは主人公が、みずからの意思で変化を引き起こしていることを暗示する。これを神といわずしてなにか。しかもこの神がなにを起こしているかというと、最初のほうでは、「ずっこけ」現象なのだ。たとえば月面で宇宙飛行士すら低重力のためずっこける。そうした現実に起こったずっこけ映像をつなげていくことによって、ずっこけを出現させる主人公は、神、それも笑いの神なのである。


あるいはこのずっこけこそ、奇跡でもあり、キリスト教神学で便利な言葉を捜せば「エピファニー」なのである。


神の存在は、奇跡の出現によって検証できる。奇跡がある限り、そう、エピファニーあるかぎり、それは高次の存在を、神の存在を暗示する。あるいは笑いが起こる。


それは日々、さまざまなずっこけによって起こる。あるいは日常に無限の笑いがエピファニーの瞬間が潜む。日々起こるささいな笑いは、同時に世界の大きな変化ともつながっていることがわかる。まさにエピファニー。そして、映画のなかで、いまや丸くなった部屋の壁に、世界の歴史映像(実際の映像)が映し出される。そこからわかるのは、戦争からオバマ大統領の出現にいたるまで、世界における大きな変化は、神が仕組んだエピファニーであり、この映画の語彙でいえば「ずっこけ」なのかもしれないのである。


それゆえ笑いの神は、神に仕えるもうひとつ神ではなく、神そのものである。笑いの神以外に、べつの神がいるわけではない。世界に変化をもたらす神――その変化は、笑いというかたちで感知されるとすれば、神は笑いの神である。もちろん神の存在を世界に恐怖をあたえるものとして示すこともある。聖なる恐怖。だが、ここにあるのは、そのような恐怖ではなく、笑いである。聖なる笑い。いや、そうだが、しかしまた、やはり聖なる恐怖につながる笑いがここにある。


メキシコ編。最後の土壇場になって、それまで順調に、また緊張感をともないつつ、力強い映像美を誇りながら進行したメキシコ編が、最後のろくろ首の出現によって、台無しになる。これを笑いとることも、また奇跡ととることも、エピファニーとることも可能だが、この現象のさらなる説明は、破壊そのものということになる。笑いとは、創造よりも破壊、継続よりも変化をもたらすものであるとすれば、恐怖と紙一重である。


実際、いよいよ高次の存在に達したらしい主人公(松本人志)が再び部屋におりたつとき、その壁に見えるのは、凹凸のある世界地図と、巨大な子供のチンポコ・ボタンである。この「未来編」と銘打たれ、新たな部屋を出現させる最後のセクションは、主人公がそのチンポコ・ボタンに触れようとするその時に終わりを告げる。主人公がボタンに触れれば、何かが起こるはずであり、それは何であるかは観客の想像に委ねられるのだが、予測できるのは、世界の壊滅的打撃あるいは消滅でしかないだろう。つまり笑いの神となった主人公は、同時に、まさに同時であり背中合わせで表裏一体かしているのだが、破壊の神でもあるのだ。


もちろんすべては夢でしたということも考えられる。映画は夢落ちで終わってはいないけれども、パジャマ姿の主人公(松本)は、眠りと夢を暗示する。と同時に、ここに暗示されるのは、神になろうとした松本監督と、神になった男(主人公)の物語ということになる。だとすれば、同じく、平凡なくそオヤジなのだけれども、強大な魔人に変貌を遂げ、日本を怪獣なり怪物から救う「大日本人」物語であった前作は、今回と同じように、神になる自己にとりつかれていたのではなかったか。そして神になる自分と戯れる松本監督の行為は、ある意味、自慰行為でもある。チャーリーズ・エンジェルたちの可愛いチンポコからは、すぐに連想はされないが、つぎつぎとチンポコ・ボタンを押さえる主人公の行為は、まさに自慰行為である(実際、チンポコ・ボタンを押さえると「あえぎ声」が漏れるのだから)。


ただし、この壮大な自慰行為が見ていて面白いかは、また別問題であるが。

*1:たぶん‘Jokester’とかいう短編で、なにかのアンソロジーで原文で読んだ。

*2:ちなみに「エスカルゴ・マン」は、予示法プロレプシスprolepsisに属するもので、リングにあがる姿は、どこが「エスカルゴ」なのかわからないが、奇跡の変身後つまりろくろ首になったあとは、まさにカタツムリである。