ニューヨークの株が下がる(『サブウェイ123』)


映画『サブウェイ123 激突』は、もっと早くみておくべきだった映画だったのに、ネット上のドバカ映画評のために、なにかエンターテインメントとしても面白くない映画かと勝手に思い込んで、見たいという強い気持ちがわかなかった。しかしバカに影響されてはいけなかった(映画評論家はもっとましなことを言っている。恐ろしきは、評論家気取りのバカ素人だ)。エンターテインメントとしても面白く、何度見てもいい映画だと思った。


トニー・スコットの映画は、いつもスタイリッシュでまったりした映像を堪能させてくるもので、時としては、映像がうるさく感じられるときもあるが、今回は、むしろ自然なメリハリがあって、みていて心地よい。


トニー・スコットの映画は、そいうわけで、必ず見るのだが、前作、デンゼル・ワシントン主役の『デジャヴュ』が、予想外に、こてこてのSF(それも時間物)だったので、かなりひるんでしまったので、今回も警戒していたが、現実路線、それもこてこての現実路線に、もどってよかった。2時間を10分くらい切る映画だが、しかしテーマ的にもトニー・スコット映画のモチーフが出揃っている。ちょっと神がかかったところ(『ドミノ』なんかでも、時としてびっくりするぐらい変な神がかりシーンがあったでしょう)、自己と分身との葛藤あるいは尋問者と悪魔的誘惑的な被疑者、タナトスあるいは自己犠牲(『燃える男』のような)。トニー・スコットの映画の世界である。


もちろん、すでに述べたのようにトニー・スコット監督の映画の魅力はその映像にある。『サブウェイ123』でも、地下鉄の列車の運行を暗示する横長の太い線のモチーフによる冒頭の映像と、それにあわせた音楽から、酔わせるというか、つくづく上手いと圧倒される。またソニー・スコットの映像世界にやってきたという感慨が沸いている。


映画の撮りかたには二種類あって、ひとつはカメラを固定して、映像そのものに語ら、映像そのものに動きをもたせること。多くの芸術映画はこの手法を用いている。たとえば素人が携帯でもカメラでもなんでもいいのだが、動画を撮ろうとすると、やたらカメラを動かすのだが、動きのあるものをとろうとしてカメラもいっしょ動いては、動きが伝わらない。むしろ通常の写真をとるのとかわらないかたちでカメラを固定すると画像に動きが出てくる。これと同じにカメラをめまぐるしく動かし、画像を加工するのは、ある意味素人のやり方である。


トニー・スコット監督は音楽のビデオクリップ監督から出発したこともあって、スタイリッシュな映像には定評があるが、カメラを激しく動かし、画面を加工し、加工した画面に語らせるために、画面は、めまぐるしいが、同時に動きはない。むしろトニー・スコットの映画は、動画ではなく、静止した「絵」の蓄積となる。それがもっとも美しい時は静止画像である。見事に感動的な絵の集積こそがトニー・スコット映画であって、この絵は、対象そのものから動きを奪い、むしろ対象を永遠の相、もしくは図式化のなかにとらえることになる。トニー・スコット監督の映画は、そういう意味で、どこか象徴的・寓意的なのである。


では内容はどうか。以下の引用を見ていただきたい。

デンゼル・ワシントン(地下鉄運航指令係:ガーバー)とジョン・トラボルタ(地下鉄乗っ取り主犯:ライダー)の組み合わせに大いなる期待があったが・・・。

●ガーバーは、自身に問題を抱えていて、賄賂を受け取った容疑で課長職から指令係に降格され、内部調査を受けていた。そういう事情を背負っているということがドラマに緊迫感を与える・・・はずだったが、成功していない。

という感想もあるが、どうだろう。「組み合わせに大いなる期待が」と偉そうなことを書いているが、二大俳優の競演という程度のことか。それにしても、エリート証券マンそれも天才的頭脳の持ち主だが転落しやさぐれて犯罪者になっている複雑な役どころをトラボルタの怪物的な演技が見事に実体化しているので、トラボルタのこの悪役ぶりは、新鮮な驚きをもって受け入れられてしかるべきだろう。トラボルタの起用は成功している。


またガーバー/デンゼル・ワシントンは自身に問題をかかえていることがドラマに緊迫感を与えているのはまちがいない。実際に、デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタは、たんなる地下鉄運行指令係と地下鉄乗っ取り犯という関係にとどまらず、分身関係にある。あるいはこうしたアクション映画の常套手段でもあるのだが、ワシントンとトラボルタは同一人物あるいはオルターエゴである。


それは次の引用からもうかがい知れる。

●地下鉄を乗っ取った犯人ライダーは、警察が事件に介入開始してからも、警察とは交渉せず、ガーバーを交渉係として指名する。それは、ガーバーが指令係にしては聡明で冷静であるからゲームの相手として不足はないとライダーが考えたのだろう(説明不十分だったが。)。そのため、担当刑事として指令室に乗り込んできたジョン・タートゥーロの活躍場面が少ない。存在感のある役者だけに、画面に出ているがストーリーにあまりからまないのでかえって邪魔な存在だった。無名の役者を使えば良かった。

これは、ガーバー/デンゼル・ワシントンとライダー/トラボルタとの関係が、相手の聡明さと冷静さに関して、まさに合理的・冷静に判断を根拠にしたものだけでなく、いわくいいがたい運命的な出会いあるいは、似たものどうしであることの直感的反応によって成立していることを見ていない。ふたりは引き合ったのであり、似たものどうしというライダー/トラボルタの発言は、そのことを裏付ける。ふたりは他人同士であって、またそうでない。二人の会話は他者との対話であり、また自問自答である。


刑事役のジョン・タトゥーロは最近では『トランスフォーマー』での感じの悪いバカ捜査官の役が印象的すぎて、この映画では最初、どういう役どころかつかみにくいのだが、交渉役としてはじゅうぶんに働いているし、これ以上活躍してもらうと、ワシントン/トラボルタの分身関係にひびが入る可能背がある。

次の引用

●おかしな点はいくつもある。
1)要求された1000万ドルを59分以内に届けるのに、NY市は犯人自身が言うようになぜヘリを使わないのか。
2)犯人たちはなぜ覆面をしないのか。
3)身元がばれるような情報をなぜ捜査側に与えるのか。
事が終わってからの逃避行も緻密な犯人にしては粗雑だ。
4)若者がPCを使って問題の車両で恋人とチャットをしていた途中に犯行が始まり彼も人質になる。そのPCのカメラが活きていてネットを通じて車中を映し出すのだが、これがストーリー展開上の小道具としてあまり役に立たないばかりか、チャット相手のバカな女の子が、今にも殺されそうな緊迫状態の彼氏に向かって「愛していると言って!」などと言わせる無神経さは大いに興を損ねる。

もちろん私にもわからないところはあるのだが、このバカよりは(たしかにすぐれた映画評論家の文章ではなく、素人の文章をいじっているの私は人間の屑であるが、偉そうな人間に対しては、素人だろうと専門家だろうと、容赦したくない)、一応わかっているつもりである。


一番簡単なのは4)。たしかにPCのカメラが活きていてネットを通じて車中を映し出す。面白い設定だが、大いに「興を損ねる」「バカな女の子」の「無神経さ」だけに集中していると重要な点を見落とすだろう。たしかにこのPCのカメラのことが犯人側にバレルのではないかと冷や冷やする。だから途中、「女の子の無神経さ」にいらいらするということもあるのだが、最後のほうで犯人たちは、このPCのカメラの存在に気づいていて、あえて放置していたことがわかり、ちょっと驚く。そう、このPCのカメラで車中の様子をネット上に中継し、さらにテレビでも中継することで、犯行が現実に起こっていること、人が殺されたりしていることを生で中継する必要があったのだ。株価の下落を引き起こすために。この犯人たちは、とにかく犯行を大々的に伝える必要があった。本物の犯行であること知らせることで、株価の下落を狙っていた。株価の下落と、金貨価格の高騰こそが目的であって、1000万ドルの身代金などは、どうでもいいのである。それは映画のなかで明確に説明される。


こう考えれば2)と3)は自動的に解決する。劇場型の犯行であって、たんに1000万円が目的ではない。彼らの存在と犯行が闇から闇へと処理されては困るのである。犯行によって株価の変動を起こそうとしている以上、犯人たちは、みずからの存在と犯行を明るみにだすことを目的としている。このことは映画のなかで何度も出てくるから、わからないのは「地下鉄のドジ」である。


1)も、そう考えれば、運送途中で事故でも起これば、犯行は現実味を帯びて市民に伝えられるだろうし、それによって「ニューヨーク市の株」は、ますます落ちるからともいえる。とはいえ、犯人がヘリコプターによる現金輸送を指示してはいなかったので、これは考えすぎかもしれない。とすれば、べつの考え方として、車で運んだほうが安上がりだからである。このニューヨーク市長は1ドル市長という設定で、月収1ドルで働いている。ということは緊縮財政で、しかも、どこかの国の航空会社の社長と同じく、公共の交通機関を使って移動している(実際、側近と地下鉄を利用して移動している)、ニューヨーク市にはお金がないという設定なのである――実際にないのかもしれないが。


さらに

●5)警察の側でも、居場所が分かっている犯人がどうやって地上に脱出するかについては推測がつくはず。
6)ラストの主犯とガーバーの対決におけるライダーの選択も、一種の狂気だが、納得できない。
●まあ、あれこれおかしなところもあるおかげで地下鉄車両内対指令室の対決という密室的構造を超えて派手なカーアクションなどを盛り込んで、全編、緊張感を貫くことができたのだろう。
●ガーバーの汚職は彼の英雄的活動によって市長からもみ消しにされることを暗示して終わるが、これもカタルシスを阻害する要素だ。
●トラボルタのクライムアクションと聞いて「ソードフィッシュ」の圧倒的な面白さを期待した方が間違いであった。投稿:みつばち先生 評価:3

5)については、問題のたてかたがおかしい。問題なのは、警察が推測できなかったからではなく、いとも簡単に犯人の脱出経路が警察にわかってしまうことである。これは地上に逃れていった犯人の後を追うデンゼルワシントンが地下道かどこかで電話連絡をしたからであろう。そのあとすぐに次の場面にうつるから、連絡内容は明らかされないが、この連絡で、犯人の人数、姿かたち、逃走経路、そして暴走する客車の止め方などが指示されたと思われる――このことは、その後トラボルタの乗ったタクシーを追跡中のワシントンが、携帯電話で交通局か警察に連絡するとき、ほんの数語キーワードをいうだけで、言いたいことが伝わることからも推測できる。もうひとつの可能性としてトラボルタは、仲間のことを警察に告げて、彼らを警察に始末してもらったことになる。トラボルタはかなりの悪人であって、そのくらいのことはやりかねない。なお、そのことを隠した、あるいは観客の推測にまかせたのは、やや無理があるのかもしれない。


ラストの対決についても、「あれこれおかしなところもあるおかげで地下鉄車両内対指令室の対決という密室的構造を超えて派手なカーアクションなどを盛り込んで、全編、緊張感を貫くことができたのだろう」的な反応しかできない人間には理解を超えたものであろうこともわかる。


「地下鉄車両内対指令室の対決」と言っているが、正確には、地下鉄の運転席と司令室である。トラボルタが共犯のもと地下鉄職員と狭い運転席で並んで座っている(それは外部からのまるみえになるのだが)、その様子は、間に両者を隔てる壁でもあれば、まるでカトリックの告解室のようである。カトリックと告解という観点は映画のなかで強調される。そしてこの告解室のような運転席で、司令室にいる見えない相手に対して話をするトラボルタの様子は、告解室での懺悔そのものである。


しかしデンゼル・ワシントンも、犯罪者の告解を聞いている聖職者ではなく、彼自身も、罪びとであることが、トラボルタによって明かされるにおよんで、力関係は逆転するというか、自他との境界はくずれる。ふたりとも有能なプロであったが、所属していた会社にうらぎられる、かたや犯罪者として服役し、かたや管理職から降格されている。トラボルタにとってワシントンは、犯罪に走らず屈辱に甘んじていたかもしれない時、自分がなりえたであろう分身だし、ワシントンにとってトラボルタは、もし彼が怒りを爆発させて犯罪に走ったであろう時、自分がなりえたであろう分身なのである。


したがってワシントンにとって、トラボルタは、その挑発性と犯罪者性によって、彼が会社と社会に対して抱く怒りを代表している。トラボルタの犯罪の成功は、ワシントンのなかにある復讐の可能性を全開にしたものとも、復讐の代行ともとることができる。と同時に、その復讐と犯罪の帰結あるいは復讐の代行が成就したことを見極めたあと、ワシントンにできるのは、みずからの悪しき分身を抹殺することである。フィクションにおける、こういう情動操作をなんと言うか――カタルシスである。ちなみにカタルシスはウンコと肛門に関係する。


実際、映画の途中まで、ワシントンとトラボルタは、共犯者であって、最後にふたりは手に入れた巨額のお金を前にして高笑いするのではないかという幻想がよぎったことは事実である。刑事のジョン・タトゥーロが当然のこととして疑ったようにワシントンは共犯者ではないかという疑いは、二人の寓意的あるいは象徴的共犯関係を超えて、現実のそれにいたるのではないかという非現実的な結末、まさに非現実路線を思い描いたことが上映中、何度もあった。


あるいは実際にはトラボルタは最初から存在しなかった。『ファイトクラブ』みたいに、すべてはワシントンの幻想であったというような結末(まあ、それはちょっと無理がありすぎるが)あるいは非現実路線が頭をよぎったことも事実である。


ともに犯罪者であり企業の被害者であるという共通点は最終的に、どちらかいっぽうが抹殺されるという敵対関係に終わる前は、友愛で結ばれていた。それも同性愛的ともいえる強い友愛で。


追い詰められたトラボルタの最後の願いは、刑務所には戻りたくないからここで殺してくれというものであった。誰でも刑務所には戻りたくないだろうから、それはわからないわけでもないが、同時に、この現実路線は、もうひとつの現実路線を経由して象徴的な友愛にいたる。それは刑務所の同性愛である。トラボルタが犯罪計画を練ったのは同室のもと地下鉄職員とであった。またワシントンに対してトラボルタが話す、アイスランドにおける犬ぞりの話――ここは聞いていてかなり緊張した。犬が走りながらウンコすることと、刑務所における排便の話。男性の下半身、とりわけ排尿や排便に関する話題なり状況(トイレなど)は、同性愛的なものを暗示する時の常套手段である。そもそもトラボルタがアイスランドに連れ言った「お尻」専門の女性モデルというのも、あやしい。実際のこの映画のなかでトラボルタが同性愛者として明確に設定されてはいないが、登場人物としてのライダー/トラボルタに同性愛者の表象がまとわりついていることも事実なのだ(ライダー、RyderというのもRiderに通じて怪しいでしょう)。ちなみにウンコと肛門に関することは、カタルシスにもつながる。トラボルタは、犯罪によってカタルシスを求めたのだ。


結局、この同性愛表象が、ワシントンとトラボルタの友愛につながり、ふたりの分身関係を強化すると同時に、分身関係に亀裂を入れる。つまりトラボルタが、ワシントンにとって最終的に切り捨てるべき悪しき分身である観客に伝えるのも、この同性愛表象を通してなのであって*1浮気ということで女性とのつながりを確保するニューヨーク市長もなんとなく許されてしまうし、最後にデンゼル・ワシントンも、奥さんに頼まれた牛乳パックをもって帰宅するのである。平穏な市民生活はヘテロの市民の所有物なのである。


別の映画評から

本日、試写会行ってまいりました*2
まず、開場前だというに長蛇の列・列・列。ここのところ枯れきってるハリウッドに映画ファンの期待が伺える光景に思えた。


キレるトラボルタ、冷静なワシントン。さすが、この二人の演技は作品全体にかなりポイント高い。地下鉄を乗っ取り、乗客に対する身代金要求、そして主犯の本当の狙い。この筋書きにアクションやバイオレンスを加え、それはとても面白く、最後まで観客を飽きさせない。


ただ・・・
宣伝文句である「頭脳VS頭脳」。お互いにそう言えるほどの計画であり作戦だったか?
という疑問が拭えない。だって、とても「完全犯罪」とか「人質救出プロ」とは思えない稚拙さばかりなんだもの。ワシントンは以前ちょっとだけ魔がさしただけの善良な地下鉄職員で、トラボルタはただのクレージーで、いったい何にそこまで命を懸けたのか・・・
伝わりそうで結局伝わらずじまいで終わってしまった気がする。


単なる一犯罪を報道番組で知ったような、そんな上っ面な感じ。あと30分長くてもいいから、もっと内面的なものを掘り下げてほしかったかなぁ。投稿:moon 評価:4

上っ面なのは、あんたの頭のなかでしょう。内面的なものを掘り下げてほしかった? よりにもよってトニー・スコットの映画について内面性をもちだすとは。トニー・スコットの映画は、内面をテーマあるいは内容とするのではなく、その映像が、アクションがすべて内面的なのである。この映画は現実路線にみえて、内面しか描いていない。その激しい映像によって、静止した内面の光景しか顕在化していなのいのである。


なお最後にこの映画の日本版タイトルの欠点を――タイトル『サブウェイ123』というのは、「123」を「いち・に・さん」と読むのか「ひゃくにじゅうさん」と読むのか、わからなくて窓口でチケットが買いづらいことである。ポスターなんかでルビでも振ってくれたら、それにあわせるのに、わからない。映画のなかでは123をone twenty-threeと言っていたから、これはone hundred and twenty-threeの略式の言い方なので「ひゃくにじゅうさん」でいいのだろうが、もちろん「いち・に・さん」がいけないということでもないだろうとわかっていながら、窓口でチケットを買うときには、「さぶうぇい ****」と123をごまかした私はちょっと恥ずかしかった。

*1:もちろん、このような同性愛者を犯罪者とつなげるような表象操作は断罪されねばならないが、しかし同性愛表象は、たとえ悪魔化が目的でも、抑圧されてしまうよりはましだから、ある意味で評価できるのだし、わたしたちがなすべきは、その同性愛表象を明確に言明することであって、カタルシスがないなど馬鹿なことを語るべきではないのだ。

*2:試写会というのは宣伝用に行われるものだろうが、試写会に行った人間は、無料で映画をみせてもらったことに何の恩義も感ずることなく、また試写会に呼ばれたことが偉さの証明でもあるかのように上から目線で、映画の悪口しか言わないのは困ったものである。無料で見せてもらったのだから、映画をベタ褒めしなくてもいいが、どこかその映画の良さなり、面白さなりをみつけて語るべきなのに、批判しかしないバカが多いのは困ったものである。いっぽう私のように自腹でしか映画を見ない人間にとって、思う存分批判してもよいのだが、しかし、せっかくお金を払ったのだから、よいところを確認しないではいられないという貧乏人根性が出てしまって、なかなか批判できない。映画会社も試写会に頼る宣伝方法は再考すべきであろう。ちなみに今回の映画は充分に面白かった。