アマルフィ問題


ある雑誌から原稿依頼が来た。トム・ストッパードの特集をするとのこと。9月に日本でも『ユートピアの岸辺』三部作が上映されたこともあり、特集するのは妥当な選択かもしれない。で、私が依頼されたのは、トム・ストッパードが脚本を書いた映画について。5枚書けという。映画のリストが添えられている。ずいぶんたくさんの映画に脚本を書いているものだと思う。見ていない映画も多い。しかし5枚? 映画のタイトルを並べているだけでも、すぐに終わってしまう。そんなものに貴重な時間は割けるか! どうせ、これは嫌がらせだろうと思い、すぐにメールでお断りの返事した。その後、うんともすんとも言ってこない。まあ、最初から、いたずらの依頼か悪意ある依頼だったのだろう。


いくらなんでも、この依頼は、私を馬鹿にするような依頼で、こちらもすこしはプライドがある。引き受けられるか。ただ、もし書き手がいなくてほんとうに困っているなら、助けてやらないこともない。もちろん、その時は、無署名の記事にしてもらう。名前が出るのは恥ずかしい記事なのだ。まあ、私のような大物が、こんな雑誌に書くこと自体、冗談のようなものだが、書いてあたりまえというような失礼な依頼はほんとうに頭にくるし、また私のような年寄りの大物になると、平気で断わることができる。また同時に、私のような大物になると、名前が出ない記事でも、たとえば人助けで、平気で書けるようになる。そのへんのところが全くわかっていないようだ、この編集者は。


ただし、そうしたことを離れても、劇作家のオリジナルな作品(アダプテーションでもいいが)とは別に、劇作家が依頼されて書いた映画台本については、それについてなにかまとまったことを言えというのは、むつかいのだ。つまり、特徴がないことが多い。ストッパードは、有名なところでは『太陽の帝国』と『恋に落ちたシェイクスピア』の脚本を書いている。しかし、この二つの作品にどんな共通点があるというのだ。また監督も違うので、映画の作風も異なる。となると、何か言えというのは、かなりむつかしいのである。ストッパードの演劇についてなら、これはいろいろなことが言える。しかし脚本については、上記の二作品を比べても、共通性なり特徴は指摘するのが困難である。


太陽の帝国』を出したついでに言えば、あの脚本は原作の精神を全く無視したひどいものだと思った。スピルバーグ監督のあの映画は、当時、まったく無名で、いまではこんなに有名になるとは夢にも思わなかった、クリスチャン・ベールジョン・マルコヴィッチが出演していて、なつかしいのだが、たとえばアメリカ軍のムスタングが低空飛行して収容所を攻撃するとき、ジム少年(クリスチャン・ベール)は、「空のキャデラック」と原作にはない喜び方をするのだ。ジム少年が、おそらく収容生活のなかで写真すら見たこともないアメリカ軍用機を識別できて、それを応援するなんてことは、考えられないし、原作にそんな場面はない。そもそもジム少年が好きなのは、空飛ぶタナトスともいえる特攻機零戦であって、彼は基本的に日本の軍用機ファンなのだ。


しかし、それはまあ眼をつぶるとしても、許しがたいのは、上海から長崎に落ちた原爆の光が見えること。実際に見えたのかのかどうか知らないのだが、映画では、この原爆投下の閃光が天からの救いの光のごとき提示のされ方をして、さすがに憤りを抑えることができなかった。もちろん原作にはそんな場面はない。


そもそも長崎の原爆は、日本のキリスト教教会を爆撃しているのであって、この事実を、アメリカは隠そうとしてきた。隠蔽行為は、やましさの表れとして理解できるが、それを賛美するというのは、許しがたい。それはちょうど、ユダヤ人を抹殺することが世界の救済と信じたナチスの感性と同じではないか。父親を日本軍に殺されたといってもいいストッパードだが、日本人に対してのその感性は、結局、ナチスと同じではないか、そう感じたものである。


しかし、後で知ると、『太陽の帝国』はストッパード一人が脚本を書いているわけではなく、他の人間の手も加わっている。したがって、いま私が指摘した問題箇所も、ストッパードの手になるものか、そうでないのか決めがたいのである。


今年の夏公開された映画『アマルフィ』には脚本家の名前が明記されず、脚本家軽視の疑いがあるとして日本シナリオ作家協会が制作者側に抗議を申し入れた。脚本は、小説版作者の真保裕一と監督の西谷弘監督が担当したが、「一人で書き上げたわけではない」とそれぞれが表示を辞退したたため協議してクレジットを入れないことにしたという。合作なら二人の名前を入れればいいのだが、それをしないというのは、どちらも自分の作品として責任を取りたくなかったのだろう。


たしかに映画を見た感想からすると、脚本が説明不足で違和感が残るところがあった。脚本をつくる段階で、意見の相違とか、どちらかが放棄したとか複雑な事情が絡んでいることは予想された。しかし、このアマルフィ問題は、特殊な例でなく、どんな映画脚本にも当てはまるものだろう。ストッパードが脚本を書いた映画のリストがあっても、脚本に、どれだけ関わっているか、どれだけ責任を負っているのか判定は不可能であるし、また、その間の事情は、内部事情に詳しい人間以外に誰にもわからない。


だからストッパードが脚本を書いた映画のリストを与えられても、それが議論の出発的にはならないのである。そこに家族的類似性すら、見出すことはできないだろうし、よしんば見つけたとしても、それが確かな根拠に基づいているかは判定不可能なのだ。