Uninvited(『エスター』)

消防施設というか火災報知器の点検のため、日にちを土曜日にずらしてもらい、前日から大掃除をしてなんとか午前中に点検を終えた。比較的高い階に住んでいるので、火災報知器が最初から着いていて年に2回の点検がある。


大掃除に疲れ果てて、仕事ができず。午後、散歩がてらに映画を。近くのシネコンで、午後から夕方にかけてみることのできる映画は『エスター』しかない。私の苦手な怖い映画で、こういう映画はなにか嫌なことがあって、やけくそになっているとき、心がすさんでいるときにはみることにしているのだが、平常心でいるときには、遠慮している。まあ東京都区内で上映しているのはわずか4館(渋谷とか新宿とか)で、そのうちの一館が近所のシネコンなので、本日が初日の『アトム』や『ヴィヨンの妻』よりも、こちらのほうを見ることにした。とはいえ選択の大きな要因は時間帯なのだが。


怖い映画は苦手の私としては、大きな、音で脅されたりすると、ほんとうにびっくりするのだが、また正直言って、2時間を少し越えるのは長すぎる。編集でもう少し短くまあ90分か100分くらいの映画にできるはずなのだが、正直言って、この映画、予想外というか、予想をはるかにうわまって面白い映画だった。エンターテインメントだったが、知的刺激に溢れた映画で、同じ家族を扱うとしても、『私のなかの二人』を凌ぐ、あるいはその裏面をまざまざとみせてくれた。お勧めの映画である。


原題はOrphan「孤児」だが、日本語のタイトルは、フランスでのタイトルと同じ『エスター』Esther。まあ他にも最初と最後に流れるGlory of Love(作曲者のBilly Hillが歌っている)から、これもタイトルあるいはサブタイトルにふさわしいのかもしれない。


Glory of Loveという曲は、スタンリー・クレイマーの有名な映画『招かれざる客』Guess Who’s Comingの最後に流れる曲でもあって、これま、まさに「招かれざる客」であったエスターの存在をあらわしているのだが、そんなことはわからなくても、というかわからないほうがGlory of Loveという曲(実際、歌詞はわかりやすいし、Glory of Loveというキーワードは聞き取れる)から連想されるイメージがつかみやすい。まさにこの映画はGlory of Loveの映画だったとわかる。通常のホラー映画ではあるが、それ以上のものがあった。


私自身は、この設定は、ほんとうは使ってはいけないと思う。この養子でもらわれてきた女の子が悪魔的な側面をあらわにすれていくにつれ、この子はまるで大人みたいだと思えてくる。そうなると考えられる結末は、たとえば彼女が宇宙人だという設定だったら、私は暴れるが、それはないとすると、超自然的ホラー(『オーメン』のような)か、そうでなければサスペンスになる。サスペンスにしたおかげで*1、いろいろなものが見えてくることになった。


そうブラック・ライトによるペインティングもこの映画のなかの重要な根幹をなす設定で、たとえば女の子の描くなんの変哲もない絵にも、ブラック・ライトで照らすとみえてくるインクで、女の子自身、陰惨な図を描きこんでいた。この「ブラック・ライト」効果――「ブラック・ライト」でみえてくるもうひとつの絵、もうひとつの人格、もうひとつの真実というのがこの映画のテーマでもあって、この二重の視覚は、映画を寓意的主題の展開へと導いてゆく。


たとえば最後の場面、生き残った母親と障害者の娘は、ともに、真実を聞き届けられぬまま疎外され孤独な境遇に陥ることで、「ブラック・ライトに照らすと」親と娘の関係を超えて一体化する。いっぽう池の底に沈んだ少女も、父親への愛と憎しみをめぐって、その義母とも、また難聴の女の子とも一体化し、「ブラック・ライトに照らすと」池の底という無意識の暗部から到来した欲望の権化である。彼女は、招かれざる客、外部からの到来者かもしれないが、「ブラック・ライトに照らすと」その出自は家族の無意識の世界、まさに内なる他者、内なる悪魔なのである。


実際に冒頭から、ワーナーブラザーズのWBのロゴそのものがブラック・ライト絵の具で汚されていて不気味さを発散するのだが(どんなものかピンと来ない方は、その効果の一端は、ネット上のこの映画の宣伝サイトで確認できる。)、「ブラック・ライトに照らすと」、すべて二重性を帯び、子どもが分別と自己犠牲によって二重生活をおくり、いい年の大人が騙されやすい無垢の子どもにみえてくるし、精神異常者が確固たるアイデンティティとゆるがぬ目的意識のもとで統一的自己を保持しているの対し、通常の健康的な家族のほうが、精神的にもろすぎて、病人に近い。


もちろん物事が見かけ通りのものではないというのはホラー映画では常套手段であって、そんなの感動すること自体が、ホラーだと言われそうだが、モンスターの側が、もちろんエンターテインメントとして最後までモンスターではあっても、その運命が垣間見えるようにもなっていて、モンスターという客体が主体化されるところがある。そこが、もちろんもっと主体化して欲しかったという批判もあるかもしれないが、主体化の可能性を残したことによって、最後に退治されるべきモンスターであっても、人間でもあったことが明確に観客に刻印される点ですばらしい。それは小説『フランケンシュタイン』でも、あるはジェイムズ・ホエイル監督の初期の『フランケンシュタイン』でも、前景化されていたモンスターの悲哀が映画の歴史のなかで連綿と受け継がれてきた感があるのだ。


いやそう考えると、さらにこの映画のモンスターについて、さまざまな意味の可能性を指摘できるだろう。ここので養子の娘は、まさに悪魔であったわけだが、血のつながった娘でも基本的に悪魔である。すでにいる兄や姉たちからは、両親の愛情を奪う悪魔として疎まれるし、成長する娘は、父親を誘惑する魔女である(娘からの誘惑daughter’s seductionというフロイト理論――実は、父親が娘をレイプするという可能性をフロイトは退けたのだが、映画でも、そのもっとブラックな可能性はみせていない)。また娘は兄よりも精神的成長が早いので、妹であっても兄である。


またこの養子の娘は、流産した女の子の身代わり(生まれ変わりという超自然的ホラー設定を映画はとっていないが)のところもあり、『ローズマリーの赤ちゃん』ではないが、悪魔の子なのである。この子は、まさに流産=抑圧されたものの回帰として、夫婦の、あるいはこの家族の、封印された記憶と欲望と罪と秘密を白日のもとにさらすもであり、彼女は、まさに死んだ娘の「生まれ変わり」的側面をじゅうぶんにもっている。


そして水。幼い実の娘を池で溺死させそうになった母親は、映画の最後では、まさに池の底に引きずりこまれる恐怖を味わうのだが、私はここで、同じく、娘を池で溺死させた(こちらはほんとうに死んでしまう)夫婦のうち、夫が、水の都ヴェネチア(冬の都ヴェネチアはまさに死都であるが)で、娘の影に復讐されてゆく、デュ・モーリアの中編Don’t Look Nowを映画化したニコラス・ローグの『赤い影』(映画の原題は原作と同じだが、「赤い影」というのは日本で付けたタイトル)を思い出した――『エスター』と『赤い影』、このふたつの映画をご覧になった方なら、両者のもうひとつの結びつきがわかるはずである。


モンスター・エスターの登場には、流産とモンストラスな出生とが関係しているが、初期の『フランケンシュタイン』を創造した映画監督ジェイムズ・ホエイルがゲイであったことから、モンスターの報われぬ愛のテーマが同性愛ならびに同性愛者の運命とも連動するのをみることができる。この映画のエスターには、同性愛者の影がある。もちろん、それは同性愛者の悪魔化なのだが、抑圧され無視されるよりは悪魔化であろうと顕在化するほうがよいという同性愛の文化的要請からは、このことは、ぜひとも指摘せねばならない。そしてまた同性愛テーマからするとこの映画にはパッシングが重要な要素として存在する。


このエスター・モンスターは、映画の設定どおりでもあるのだが、外国人表象とも関係する。これも悪魔化というかゼノフォビアなのだが、外国人は、みかけは無垢であどけなくとも、つまり外国人あるいは移民などの語るたどたどしい言葉から、子供のように思えてしまうのだが、実際には母国では、母国語の世界では、りっぱな大人として生きていたのだから用心せよというゼノフォビア。外国人は、外国で暮らすなか、そのたどたどしい言葉遣いによって、子供のようにみられてしまう。あるいは現地人は、外国人を子供のように思ってしまい、そのように接してしまう。その過ちと恐怖が映画のテーマともなっている(くりかえすがゼノフォビアを助長する危険性があるテーマである)。


外国で暮らす場合、外国人に優しい人たちは外国で暮らす側にはありがたいのだが、それは彼らがこちらを子供と思って可愛がっている/見下していることなのである。いっぽう、外国に行くと、若い世代は、外国人に冷たいことが多いのだが、それはこちらが、彼らの職業と生活のみならず、親の世代からの寵愛を奪うものとして嫌われるからだろう。それはそれでこちらを一人前のライヴァルとしてみてくれているわけで、ありがたい面もあるが、そうした不親切ぶりは、外国で暮らす場合にはけっこう重大な障害になってありがたくない面も多い。むつかしいものである。


この映画、エスターの驚愕の正体が暴かれたとき、全世界の悪がひれ伏すとおどろおどろしいコピーになっているが、全世界の悪がひれ伏すかどうかわからないが、この映画、私は見終わって、参りましたとひれ伏したくなった。午後の散歩の映画としては、予想外に刺激的で、けっこう頭が活性化した、元気になった。反動で翌日疲れているのが怖いが。


付記1:俳優について。母親役のヴェラ・ファミーガは、『ディパーティド』(2006)年以来、おめにかかっていないのだが、それは彼女の重要な映画が日本で公開されていないことと、同時に、私が『縞模様のパジャマの少年』を見逃していたからである(まだどこかで上映しているだろうか)。DVD化されている『ジョシュア』(07)という映画では、同じような設定の母親役をしている。


ピーター・サースガードと聞いて私が思い出すのは、彼がキンゼイ博士の助手を勤めた映画『キンゼイ』。そのなかで、博士と二人で接吻する場面がなんといっても印象的だったのだが、この映画では太ったように感じた。昔からあんな体だったかしら。まあ彼も中年太りになる年齢に達したということか。『エレジー』に出演していたが、私は、見ていない。あの映画は自発的にパスした(いまではDVDも出ているが。フィリップ・ロスの原作なのだが、あの内容は、私にはつらいので)。


エスター役のイザベラ・ファーマンと、障害者の娘で自身も難聴者のアリヤナ・エンジニアの二人の子役が、ともにむつかしい役を、みごとに演じていて、彼女たちふたりがこの映画を支えている。アリヤナはエンジニアEngineerという信じられないファミリーネームをもっているが、イラン人男性とスコットランド人女性との混血ということで、まあ、その名前の由来がなんとなくわかったような気がする。


付記2:殺された生き物たち。この映画では多くの人たちが殺されるが、同時に設定上、完全に殺しきれていない場合もある。ダニエル(ジミー・ベネット((彼は『スタートレック』のなかで子供の頃(若い頃ではなく)のジェイムズ・カークを演じていたのだが、全く気づかず)は、殺されて当然のバカ息子だったが、完全には殺されていない。馬鹿父親も殺されて当然なのだが、あれだけめった突きされたのだが死んだはずだが、それでもかろうじて息をしていて一命をとりとめるかもしれないようにみえるのは、相手が子供だからであろう。しかしほんとうに殺されて当然なのは、あのバカ・カウンセラーであるが、残念ながら彼女は死なない。


あとダニエルが、野外のコンバット・ゲームで使うようなペンキの入ったピンポンだまのようなゲーム用の銃弾を鳩にむけて発射するシークエンスがある。それに当たった鳩が動かなくなってしまう。驚くダニエルにむかって、エスターは、あんたがこういう事態を招いたのだから、鳩を楽にさせるためにも、とどめをさしなさいと、ダニエルにいう。そんなことはできないというダニエルに対して、エスターが手にした煉瓦で鳩に止めを刺し、雪の積もった周囲に、つぶれた鳩の血と肉が飛び散る。残酷な場面だが、鳩嫌いの私には、この場面だけは、眼を覆うことなく、ざまみろと思いつつ、しっかりみていた。ちょっと悪魔になっていた私だった。

*1:繰り返すが、私としては使ってはいけない設定だと思うが、しかしこの永遠の孤独の運命は、顕示化することに、意味があるかもしれないという思いもある。