そして誰もいなくなった(『悪夢のエレベーター』)


落ち込んだ時にはどうするか。私の場合は、怖い映画、つまり普段、怖くて見ることができないような映画を見ることにしている。酒を飲んだり、旅に出るというような一般的方法とは違って、よけい気持が落ち込むのではないかと思われがちだが、人間、うっぷんがたまったり、やけになったりすると、ふだんできないこと(まあたいていは悪いことか、変な勇気がいることだが)もできてしまう。それと同じと考えてもらえばいい。怖い映画は苦手なの。


本日はいやなことがあったのだが、それは大学関係のことではない。授業とか会議で嫌なことがあったとか、人間関係でストレスをためることがあったりとか、そういうことは全くない。むしろ平穏無事に一日が終わりかけていた時に……。絶対、内容証明入りの手紙を出してやる。くそ協会をぶっつぶしてやると心に誓って、映画館に。


とはいえ悪いことは重なるもので、怖い映画は今週末から増える。いま上映中の映画は3Dのホラー映画くらいしかなく、いまなら見ることができるのだが、3Dというのが、やはり気になって、目が疲れるのではないかと躊躇する。


帰りに『悪夢のエレベーター*1を見ることにした。怖い映画だから選んだのではなく、怖い映画がないから選んだにすぎないが、結論からすれば、面白かった。久しぶりにプログラムも買った。それが400円と安かったせいもある。読んでみると、この夏公開とか、夏に**が控えているという記述が目立つ。また芦名星の紹介のところで、「『カムイ外伝』の公開が控えている」とあって、彼女が『カムイ外伝』に出ていたか、ちょっと覚えていないのだが、この映画、『カムイ外伝』の前に公開予定だったようだが、あとになったということか。それに彼女がいま仲間由紀恵主演のテレビドラマ『アンタッチャブル』に出ていることにも触れていないから、情報が今年の前半で止まっている。いろいろ事情もあったのだろう。プログラムの発売日は10月10日になっている。


その芦名星が、嫌なことがあって死のうとするとき、明日はいいことがあるかしらと言うと、意を決した内野聖陽が、明日はもっとひどいことが起こる、その先ももっとひどいことが起こる、そうして嫌なことが起こりすぎて、今日のことなんかどうでもよくなるのだと話す。すると、それは明日、もっと嫌なことが起こるのを楽しみに待てということかと芦名星がいうと、内野はそうだという。なんちゅう理屈だいと思ったが、まあ、嫌なことがあれば、見るのもおぞましい映画を見ようと思う私の理屈とも、数段階を経ればつながる論理かもしれないし、そもそもこれは悲劇の論理だ。そう思うと、この映画をたまたまみることになって、よかったのかもしれないと思うようになった。


で、映画の中身だが、いつもの芸達者の内野聖陽と、いい味を出しているモト冬樹、そしてイケ面の斎藤工、そして不気味な大堀こういちという男性陣と、あと影の薄い女性陣のなかで、なんといってもゴスロリ少女役の佐津川愛美(『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』)が光るというのが、一般的印象かもしれないが、で、佐津川愛美ゴスロリ少女がなんといってもすばらしいことは否定できないが、しかし、全体の鍵を握るのは、ゲイバーのママ役のモト冬樹だろう――彼のおかま役は、かなり決まっていて、すごく好印象だったが。


男性俳優陣優位の物語も、モト冬樹を男性と数えるか女性と数えるかで、趨勢が変わってくる。やはりモト冬樹は、この映画のなかでは女性役だろう。すると映画のなかでは4人の女性がでてくる。男性は3人、そのうち二人は殺される。となると、これは男性の生き残りの内野が女性たちに翻弄される映画なのだ。この映画では女性たちが圧倒的に優位なのである。そしてそのなかでも二人の女性、モト冬樹佐津川愛美が全体を代表する。それは、ふたりとも演技者だからだ。


演技者というのは、演技が達者だということではなく、自己を偽り演技しているということである。たとえばゴスロリ少女の佐津川は、演技しているかにみえるゴスロリ少女の姿が、実は本物で、探偵事務所を訪れてきたアガサ・クリスティー好きの純情そうな少女のほうが演技であることがあとでわかる。彼女の真実の姿が、いかにも偽物っぽいゴスロリ少女というところが、彼女が演技者たるゆえんである。つまり演技者であることが真のアイデンティティというパラドクスなのである。あるいはデフォルトが演技者なのである。


そう考えると、内野が仕事の仲間に選ぶのがオカマのモト冬樹だというのは、かなり興味深い設定である。いわゆる「おかま」も、女性を演ずる男性だが、しかし、そのモト冬樹に、さらに超能力者の男性を演じさせることで、女性を演技する男性というかたちで男性をデフォルトにするのではなく、超能力者を演ずるオカマということで、結局、デフォルトは、オカマ(演技者)ということに落ち着くのである。


結局、内野の仕事も、依頼人から演技することを要求される仕事となるし、そもそも探偵という仕事には演技が不可欠で、その内野が演ずる空き巣というのも、そもそも変装して徘徊する職業だし、たとえば犬に噛まれるエピソードでは宅配便業者の制服を着ているが、あれは空き巣としての仕事なのか、探偵としての仕事なのかは、よくわからないのだが、宅配業者の仕事ではないことは確かだろう。なにか変装=演技しているのだ。


エレベーター内という密室は、それ自体、そこに閉じ込められた男女の葛藤対立和解そのものが、演劇舞台空間を強く連想させるものだが、この映画では演劇性が二重というか倍加されている点が面白い。疑似演劇舞台空間に閉じ込められた男女が、全員演技をしているからである。


また内野は依頼者の要求(夫の本心を探り、夫にお灸を据える)を、演技によって実行しようとし、そのため演技のできない本上まなみに、演技指導までするのだ――こう書くと、とげがあるかもしれず、本上まなみファンからぶっ殺すといわれそうだが、そうではなく、内野が依頼者の妻(本上)にも演技してくれと頼むということなのである。


そして夫の愛人である芦名星も演技によって愛人をとどめ置こうとしている。こうしてみんな演技者ということになるが、この映画の中で、まあミソジニーというべきか、悪魔化あるいは魔女化されるのは女性である。そして演技する女性に手玉に取られ、時には殺されてしまう男性というのがこの映画の主題となる。


実際、演技する女性の魔女化というのは、管理人が見るエロビデオ映像にまて浸透している。エレベータ内を盗撮し、乗ってきた素人OLにいたずらをするというビデオは、もちろんその手のビデオの通例でやらせである。素人OLもAV女優が扮しているものだろうといことは、容易に想像がつく。


かくして演技する女性と、彼女に翻弄される男性がドラマを進行させる。演技する愛人と、その夫の真意を確かめたいという妻との間に板挟みになって抜け出せなくなっている夫。エレベーターという密室でのやりとりのあと、この夫がいよいよ本心を明かそうとする、あるいは素顔をみせようとして、演技者であることを辞めようとする、その時、彼は殺されるのである。


また管理人は、演技することもなく、むき出しの欲望をさらけだしているがゆえに、死すべき運命にあったといえるだろう。あるいは犯人の女性が、思い出のなかで、ある男性が自分の姉に言い寄る口実として、彼女を利用したとき、それを知った彼女は復讐行為にでるのだが、それは演技して接近してきた男の本心がみえたとき、演技を辞めて、本心が、現実が、リアルが見えたときである。犯人はデフォルトが演技者であって、犯人の本心と演技性は一体化している。ちょうどモト冬樹扮するオカマの女性の本心は、おかまという演技者であったのと同じように。そしてデフォルトが演技である人間にとって、デフォルトが演技ではない人間は、リアルを招来する疎ましい存在である。だからデフォルトが演技ではない人間は抹殺されるのである。犯人が、もともとリアルを拒む、引きこもりであったことを忘れてはならない。


結局、この映画の真の対立葛藤は、男性とそれを手玉にとる女性たちという対立から、さらに踏み込んで、演技と非演技、演技する者と演技を辞めた者との対立へと移行するのであり、女性が男性を血祭りにあげるのは、演技者が非演技者をつぎつぎと血祭りにあげることと重なるのである。あるいは非リアルが、リアルを血祭りにあげる。


映画の最後は、やや物足らないかもしれない。結末を明示していないからである。しかし、同時に最後こそ、この映画がいよいよ最後の一戦に突入したことを暗示して、映画の冒頭とつながる。映画の冒頭には野球のメタファーが出てくる。優勝決定戦というか優勝戦線と消化試合。誰も見ていない、そして優勝が決定したあとの消化試合。人生が消化試合になっていると嘆く主人公、内野は、最後に、消化試合でも、それに全力をかけるべく画面の向こうに走り去るのである。彼にとっては、消化試合が優勝決定戦である。そして映画は、優勝決定戦の結果を宙づりにする。


ちなみに最後の殺人行為は、犯人とってはつまらぬ消化試合である。なすべきことはすべてした。復讐は終わった。だから、忘れ物を取りに行くという犯人は、すべてが終わったあとの、忘れていたものを後始末するというかたちで殺人に走るのだ。仕事が終わったあとに、ちょっと片付けねばならない忘れ物なのであり、犯人にとっては消化試合なのである。


そしてこの時、殺されるのは演技をやめて素に戻って、リアルに直面する女性だ。彼女が殺されなければならない理由はない。犯人のうらみをかう直接的理由はない。しかし、犯人が彼女を憎むのは、彼女が演技者であるからとも、演技を辞めたからとも、どちらともとれる。一方、犯人側からすれば消化試合でも、内野のとっては女性の命を救うか救えないか、まさに生死を分かつ、優勝決定戦にも等しい大試合である。彼にとってそれに勝つことができるか、というところで映画は終わる。消化試合が優勝決定戦となる。その結果はわからぬままに。


原作は26万部も売れたそうだが、強いていうと賞味期限が切れかかっている。エレベーターが大きすぎる。いま、よほどの大きなビルではないかぎり、通常の10階建かそれくらいのマンションに、あんな大きなエレベータはない。また私が住んでいる建物のエレベーターもそうだが、ドアが閉まると密室になるエレベーターは危険な場所なので、ドアにはガラス窓があり、外から中の様子がはっきりわかるようになる。またドアにはめ込まれたガラスは、鏡の役割もして、内部から内部の様子をみることもできる。というわけで、いまやエレベーターは、密室にならない工夫が施されているため、こういう型のエレベーターは、管理人がみているエロビデオともども、なくなりつつあるのだが。

*1:監督堀部圭亮、2009年。以前、堀部が勝俣州和と組んで漫才というかコントをやっていたといっても、いまの若者にはぴんとこないかもしれないが。K2時代の二人をテレビで見ていた記憶は鮮明に残っている。