「ホモ」「ゲイ」

ネット上の「平井堅って「ホモ」か「ゲイ」? 「それは全くありません」と事務所が完全否定」というニュースをみて、我が目を疑った。驚いた。本文を読んでみると

シンガーソングライター平井堅さん(37)が大阪の女子校で行われたFM放送の公開収録に登場した際、生徒から「どうやって彼氏ができるの?」と質問され、「逆に聞きたい」と質問した。このやり取りがネットで曲解されて、「やはり、ホモかゲイでは」と話題になっているのだ。


平井さんが「ホモ」「ゲイ」であるという噂は、ネットでは根強い。

とある(記事は大幅に省略している)。


私に驚きだったのは、平井堅がどうのこうのというのではく、「ホモ」か「ゲイ」というように区別されていたことだ。え〜、このふたつの語は、ニュアンスの差(蔑視的かどうかというようなこと)はあっても、同じ事を意味する語じゃないの?


「ホモ」と「ゲイ」という二つの語は、Orの関係ではない。つまり相互に排除する二項対立ではない。それは平井堅は「男」か「人間」かといっているようなもの。たとえて言うなら、「平井堅は男じゃないけれど人間だ」とか、「平井堅は人間じゃないけれど男だ」と言っているようなもので、全く意味がない。


ということは「ホモ」と「ゲイ」と間に、排他的な関係があるということか。なにかそのような誤解が生じているのだろうか。ちなみにWikipedia日本版の「ゲイ」の項目を調べてみた。その項目はよく書けていて、誰もが参照すべきものなのだが(もちろん問題箇所もあるが、そもそもどんな説明なり定義にもあるものであり、またそれは致命的なものでは全くない)、とにかく「ホモ」と「ゲイ」で区別されるなにかがあるわけではない。これははっきりした。


となると、嫌な感じがするのだが、馬鹿ネットか、馬鹿メディアで、何か誤解しているか、無責任に勝手にイメージを作っているのかもしれない。真相はわからないが、この用法は一刻も早く根絶したほうがいい。


平井堅が同性愛者かどうかは問題ではない(それを問題にすること自体が、メディアの差別的報道であって責められるべきはメディアである。同性愛はメディアがいまなお罪の意識を抱くことなく、堂々とやってのける最低の差別行為だが)、とにかく「ホモ」と「ゲイ」という語を、差別的か否かとニュアンスとはべつのニュアンスなり定義をつけるのはやめたほうがいいといいたい。繰り返すが絶対に根絶すべきである。


付記:ネットで調べたところ、差別的ニュアンスはひとまず無視すると、「ゲイ」というのは男性が男性に対して恋愛感情ならびにそれに近いものを抱くこと、「ホモ」というのは肉体的接触がある、つまり男性が男性を性的欲望の対象とすること、いいかえれば精神的同性愛vs肉体的同性愛という関係にあるのではと思えてきたが、どちらにせよ、こんなくだらない用法は、忘れたほうがいいのだが、ひと言−−


たとえば異性愛者について、異性に恋愛感情めいたものを抱く人と、実際に異性と性的行為を経験した人を区別するのだろうか。異性に対して恋愛感情に近いものを抱けば、性的経験がなくても、その人は異性愛者だといえるのだが、だとすれば同性に対して強く性的精神的に惹かれれば、その人は、同性との性的体験がなくても同性愛者だといえる。となると同性愛者あるいは両性愛者の数は格段に増える。それを阻止するためにも、許容できる精神的同性愛と、変態的肉体的同性愛に分けるというようなことがされているのだろうか。いずれにしもて、そんな無用かつ無意味な区別は、ホモフォビア、同性愛差別であることはまちがない。