蒼ざめた騎士

本日、夜7時からの宴会の約束が渋谷であって、その前に、映画をと思って、ユーロスペースの建物まで行って、気がついた。私の見ようと思っていた映画は、イメージフォーラムで上映されていた。駅の反対側じゃん。いまから渋谷のラブホテル街を突っ切って(ユーロスペースはラブホ街の入り口にあるのだが)、イメージフォーラムに行っても時間は間に合うのだが、終わったら、また駅の反対側の宴会の場所まであがってこなければいけない。雨も降っている。そこで、こちらでみることにした。とはいえ時間の都合で、同じビルに入っているシアターTSUTAYAで『ホースメン』をみることにした。


いや、これが予想外にすばらしい映画で、これにくらべたら、『ホワイトアウト』は残念ながら**だとしかいえない。アメリカでは、宗教がらみのグロい映画ということもあり、評判はよくない。なにしろHoresmenというタイトルのHorsemenというのは、黙示録の四騎士のことなのだ。最後の蒼い騎士は、破壊者、疫病神でもあるが、同時にイエス・キリストでもあるという解釈が映画で示された。そして実際、映画で最後に明かされるこの第四の蒼い騎士は、すべての犯罪を統括していた悪魔的人物であると同時に、イエスでもあったという二重性を帯びる。実際彼だけは十字架にかけられたようにつるされるのだ。


デニス・クエイド主演で、チャン・ツィーも重要な役で出演しているという映画は、正直いって、観る前からわくわくするような映画ではない。私自身、見ないで過ごそうとしていた映画なのだから。あと知っている俳優としては、たまたま上映していた予告編でも悪役を演じているペーター・ストレマーレ(映画会社はいまだに彼の名前を英語読みして、ピーター・ストーメアーと表記しているが)くらいだ。しかし見始めると、グロさに圧倒されることなく、むしろ映像に圧倒される。『ホワイトアウト』と同じ、冬景色だが、こちらの映画の撮り方のほうが、断然、優れていて、シーンひとつひとつ、いやショットひとつひとつが、映像として完成度が高く、どこを切り取っても「絵になる」撮りかたをしている。映画のどこを静止画像としきりとっても、そのままグラフィック・ノヴェルになる(それも絵が売り物の良質なグラフィック・ノヴェルに)。そう、まさに、これこそ「グラフィック・ノヴェル」としての映画あるいは、映画がグラフィック・ノヴェルになれば、こうなるという優れた見本なのである。グラフィック・ノヴェルの原作にしながら、気の抜けたような映画である『ホワイトアウト』とは雲泥の差である。


もちろんグロテスクな場面も多い。しかし、たとえばそれは『ラストキング・オブ・スコットランド』のそれと同じようなものなのだが、こちらのほうが、グロさは弱い。まあ、ああやって吊るされることに快感を覚えるというMの変態がいることがわかって、私としてはかなり驚いた。変態をバカにしてはいけないのだ。変態おそるべし。


そういう変態がアメリカにいることがわかったのだが、おそらく日本にもいるのだろう。吊るされマニアが。と同時に、吊るされてなにが嬉しいのかということになるのだが、それは、最終的にイエス・キリストのまねびなのだろう。十字架なき磔刑あるいは磔刑からの昇天。それが変態つるされマニアにとって快感になる。十字架なき磔刑は、劫罰のなかでも最高の苦痛をともなうものだろうし、また被害者(変態マニアではない)は、吊るされて空中に漂いながら、胸に血液が満ちるかたちで殺されるので、窒息というよりも血液で溺死するといひねりが加わる。ただし、こんな変態趣味を書いていて、お前はただの変態かと言われそうだが、変態を馬鹿にしてはいけない。私は、残念ながら通常の変態ほど想像力もないことを自覚している。


いや、そうではなくて、この映画の主題としては考えさせられるものがある。イエス・キリストの物語は、父親に見捨てられた息子の物語であり、父親に対する告発と復讐でありながら、最後に死をもってして父親と和解する物語でもあった。黙示録の蒼ざめた騎士は、死神・悪魔でもあると同時に救世主でもある。そしてこれは、家族物語に還元すれば、親に復讐をするような不気味な子供の物語(たとえば、まだアップしていないが映画『ジョシュア』のような物語)が、結局、父親とイエスの関係の世俗悪魔版であるとわかるのだ。親にとって子供は、悪魔であり天使、破壊者であり救済者である。その両義性の儀式を映画は最後に出現させ、十字架から下ろされたピエタの像で締めくくられる。キリストの復活は、観客ひとりひとりの判断にまかせたままにして。