人間の仕分け

『2012』

映画『2012』は、ローランド・エメリッヒ監督の一連のカタストロフ映画の集大成のようなところがあって、たとえば映画館ではD列(ほぼ最前列――AからC列までに座るひとはいないので)に座ったのだが、前過ぎたかという後悔の念は映画がはじまると消えた。見事なスペクタクルとなっていて、むしろ前列のほうが細部もよくみえて、崩壊にまきこまれる感覚が体験できる――その心地よさは、ディズニーランドのアトラクションの比ではない。


物語としてみると、こうした地球崩壊物では、全員が死ぬのでなければ、誰が生き残るのか、次の世代を引き継ぐのは誰かということになる。


今年見た映画『ノウウィング』は、『2012』ほど金をかけていないのだが、この点については、満足のゆく処理をしていた。つまり、滅んでしまう地球から、地球人を救うとき、宇宙人が地球人の仕分けをする。つまり超能力をもった子供だけを別の惑星に連れてゆくのである。主人公(ニコラス・ケイジ)の2人の子供は超能力をもっているので宇宙人に救われる。いっぽう父親である彼は超能力をもっていないし(ただし、その学者としての能力は、充分に超能力なのだが)、また歳を取っているので地球にとどめられる。子供たちとの別れはつらいのだが、しかしそのすぐあと、彼は、長らく帰らなかった自分の実家に帰り、父と母と妹とともに、太陽のフレアで瞬時にして焼かれて死ぬのである。ああいう死に方ができればどんなに幸せかと思った。家族で抱き合って苦痛もなく一瞬で死ねる。今の私には、抱き合って死ねる家族も愛する人もいないのだが、ああやって死ねるなら、つまり家族で抱き合って死ねるなら、この際、私の死んだ両親に蘇ってもらいたいと思ったくらだい。


こう考えると『ノウウィング』における宇宙人に救われ、どこかの楽園のような星につれていかれるという、ちゃちなおとぎ話のような展開も、公正な仕分けが行われて(宇宙人は利害に左右されない)、人類の後継者が正しく選ばれたことを暗示し、この仕分け部分に観客の疑念と不満が残らないようにして、最後に家族(あるいは愛する者)と死を迎えるという結末を、幸福なものにするのに貢献している。まさにあの宇宙人のおとぎ話こそ、エンディングをハッピーにする重要な仕掛けであったことがわかる。


これに対して『2012』における人類の仕分けは、公正なものではない。人間が人間を仕分けるからである。行政刷新会議事業仕分けがそうなのだが、仕分けは、いっぽうで、公正なものでありながら、、同時に、審議されない部分も残り、限りない無駄が温存されるのではないかという疑念が残る。一方で公正さ、いまいっぽうで不可視の不公正さ。その両者が拮抗するのが、人間の、どうしても公正さを維持できない仕分けの現実なのだ。


たとえば来年度の税収が減るからといって、国債を発行するとか、増税するとか、事業仕分けをするということよりも、税金を払っていない奴がいっぱいるはずで、それも億という単位で払っていない者も多いはず。確定申告し忘れたとかいう頭の悪すぎる(脱税しようとしてたとしても頭が悪すぎるし、節税を考えていなかったとしても頭が悪すぎる)脳科学者がいたが、あれなども氷山の一角かもしれないのだ。だとすれば、国がそうした連中から税金を徴収することなく、借金を重ね、国民生活に負担をかけるようになると不公平感が募るばかりだろう。事業仕分けも、仕分けの公正さは、逆に最初から仕分の対象とならない無駄を温存する口実ではないかと意識が高まるとすると、公正感と不公正感が拮抗しせめぎあい、蓄積した不満が爆発する可能性もある。


地球存亡の危機に際して、神様や宇宙人ではなく、人間が人間を仕分けするとなると、不公正間は高まるだろう。『2012』でも、いっぽうで遺伝子を調査してすぐれた能力の持ち主だけに、ノアの箱舟へのチケットを渡すという仕分けが行われながら、同時に、資産家が金でチケットを買うことにもなり、生き残るのは、選ばれた人間どころか、人間の屑ばかりではないかという思いが募る。エリザベス女王が屑とは思わないが、しかし、もう高齢だから、あんたは残って、水没しろといいたくなる。


売れない小説家の主人公がリムジン運転手として働いているロシアの富豪は、子供(孫?)ともども箱舟のチケットをもっているのだが、彼らは人間の屑である。途中、ロシアの輸送機(アントノフ!)で、チベットへと向かうときには、交流もあり、ただのがさつな富豪ではないこともわかるのだが、しかし、最終段階で、金でチケットを手に入れたことで、主人公たちとは一線を画すのである。


この不公正な仕分けは、最後の段階でも反復される。「ツナミ」が予想よりも早く訪れることがわかって、急遽、乗船ゲートを閉めたために、多くの乗客と作業員が取り残され、暴動が起きる。それを最後の段階で、良心的科学者の必死の懇願によってで、ゲートを開いて、全員を乗船させるのだが、しかし、それ以前に、地球の人類は、あらかたツナミにのまれて死んでいるのである。地球上の人類からみれば、ほんの一握りの人数だけを公平に扱っても、大多数の人類が不公正な仕分けにあって死んでいるのだから、基本的に子供だましである。


地球が滅びる話かと思ったら、地球は滅びない。ちょうど電子レンジで暖めた卵のようなもので、太陽の巨大フレアーの影響で、地球内部が沸騰して殻(地殻)が壊れるのだが、卵と違って中身が飛び散るわけではなく、ふたたび地殻が形成されて新しい地球に生まれかわる。残された人類も、その間の大洪水を耐えて、新天地で新たな世界を開拓するのだから、これは創世記あるいは国民の誕生を記す創世叙事詩といっていい。


そして叙事詩であるからには、最も重要なのは始まりは血塗られているということである。人類にとっての新たなゼロ年は、限りない死体のうえに築かれている。ちょうど今月、新国立劇場で見たシェイクスピアの『ヘンリー六世』三部作がそうであった(通してみると9時間。わたしは二日間にわたってみた)。第一部の冒頭、ヘンリー五世の死を悼む人々が登場する――そして第三部の最後、新国王エドワード四世の即位のために集まった人々は、第一部の冒頭に集まったのと同じ役者たちだ。だか彼ら役者たちは、エドワード四世の数人の関係者を除き、三部作の最後までに、いろいろな役をしながら、すべて死んだ人々なのだ。ヘンリー五世の葬式ではじまった三部作は、最後においてエドワード四世の即位を祝福するファントム(亡霊たち)で閉じられる。新国家体制、新体制は、旧体制に殉じた夥しい死骸の上に築かれる。


『2012』における2013年、新1年に生きている人類は、玉石混交である。遺伝子の観点から選ばれた優秀な人々がいるいっぽうで、不公正な仕分けをした政治家たち、そしてそれによって生き延びることができた人類の屑たちがいる。そのなかでこの現実を、必死で隠蔽しようとして、他人のために命をささげる自己犠牲の美談が席巻してゆくだろう。


この映画はハッピーエンドである。子供たちも活躍する。そのハッピーエンディングも含め、家族いっしょにスペクタクルを楽しめるよう工夫されている。しかし、その代償もある。地球が滅んでしまう悲劇的結末であれば、不公正感は残らない。しかし、この映画はハッピーエンディングであるがゆえに不公正感がどうしても残る。そしてそれは過去にも遡るだろう。諸国身の創生は、血塗られている。夥しい犠牲者を出した加害者だけが生き延び、世界を、国を、つくったのだという苦しい思いが沈殿する。これまでの地球というか、現在の地球は、犯罪者が作った世界である――住民がそれと知ることのない流刑地なのだ。いまのこの世界は――そして次の世界もまた流刑地なのである。


そしてだからこそ、自己犠牲をいとわぬ美談だけでは、この苦々しさは払拭できないとでもいわんばかりに、物語を夢オチにしている。主人公の売れない作家は、アトランティスがどうのこうのという、SF的、カタストロフ物語を本にして出版したらしい。ほとんど売れなかったその本の内容は最後まであかされないのだが、どうやら、内容は、この映画の物語とよく似たもののようだ。そうなると、この映画の物語そのものが、主人公が眠っている間に見た夢という可能性を残す。実際、この映画=主人公の夢物語は、主人公の願望充足が全開している――大洪水を前にして家族で力を合わせ、嫌われていた息子や娘とよりをもどすだけでなく、自己犠牲の精神を発揮して、多くの人々を救う、まさにヒーローに主人公はなるのだから。憎たらしい雇い主のロシア人富豪は死んでしまうし、妻の再婚相手も死んでしまう。この夢は、主人公の願望充足である。だから、おとぎ話ですよと、この映画は暗示しているとも受け取れるのだ。


付記
スペクタクル性全開の映画なのだが、同時に、きちんと作りこまれた人間ドラマの部分もあって、それはエドワード・ノートンをはじめとして、アマンダ・ピート、チューイッテル・エジオフォー(chew-it-tell edge-oh-forというのが正しい名前の発音のしかたのようだ)、サンディー・ニュートン、ダニー・クローヴァー、オリヴァー・プラット、ウッディ・ハレルソン、そしてジョージ・シーガルといった俳優たちが、予想通りの安定感のある演技をしてくれるからだ。アマンダ・ピートだけは最初、誰だかわからなかったが、彼女も、歳をとるにしたがって「いい女」になったとという、中高年のくそオヤジの感想を記しておく。『コヨーテ・アグリー』の頃の彼女からは、現在の彼女は想像できない。


あとCGに金をかけすぎたせいか、日本の住宅の描写があまりにもいい加減だ。さすがに、フジヤマ、ゲイシャ、障子の家というステレオタイプのイメージは出てこないが、日本のマンションを想像できなくて、東南アジアの集合住宅のようになっている。なんだあれは。リサーチくらいしろ。


そしてアントノフ。今月二度目のアントノフ。それにしても、アントノフ225(An225)、現在世界に一機しかないようだが、たとえCGの映像とはいえ、すごい輸送機だと、圧倒された。6発のエンジンというは、B36の例もあるので、史上初ではないかもしれながい、B36がターボプロップ6発だったのに対して、大きなターボファン・エンジン6発というのは、迫力がある。尾翼なんて一昔もふた昔も前のSFに出てくるロケットの翼のようなかっこうをしていて、かっこういいというより面白い。