ホモソーシャルの海、大洗の海

『大洗の海にも星は降るなり』は、私の好きな演劇的映画だが、たとえば不在の女性をめぐる男たちの狂騒と競争は、たとえば『キサラギ』が思い浮かぶが、後者のほうは、戯曲が原作と思いきや、実は映画がオリジナルであり、その後、舞台化された。『キサラギ』のほうは、舞台の面白さや迫力(実際にはその時は舞台版は存在していなかったわけだが)が、なんら損なわれることなく、スクリーンに展開している感動があったが、『大洗』のほうは、舞台をありありと彷彿させると同時に(実際に舞台版がある)、舞台でみたら、さぞや――もっと面白い――のではないかと思わせるところがあった。その意味で、映画としてはこの部分、まあまあだが、舞台だったら、この程度のことでどっと沸くかもしれないと思いながら見ていた。面白い、可笑しい映画で、満足はできるのだが、理想的具現化は舞台ではないかと思わせる点、残念である。


ちなみに映画と演劇、スクリーンとステージは、私は相いれないどころか、スクリーンこそ、ステージの最高の発現体ではないかと常々思っている。演劇的面白さは、映画になると消える、あるいは変質するどころか、むしろ倍加するのではないかと思っている。映画の面白さと演劇の面白さは協同できる。映画こそ、演劇の最終審級における発現であると思っている。


たとえばハリウッド映画によって失われた映画の面白さを取り戻そうと、1995年、20世紀の終わりころ、北欧のドグマ映画が登場するが、最初のドグマ映画はCelebration。地方の名家のところに、たしか家長だったかの結婚あるいは誕生日だかに一族の者が集まるのだが、お祝いの夜も、次の朝になると、家長の犯罪が暴かれていく。父親に反発して、外に追い出される息子がいる。その妹は浴室で水死したらしい。そう、ドグマ映画第1号は、シェイクスピアの『ハムレット』のアダプテーションだった。その後、ドグマ映画では、砂漠で道に迷った白人たちが、救助隊が来るまで、暇をつぶすためにシェイクスピアリア王』を演ずるという『キング・イズ・アライヴ』という映画もあった。映画が、映画らしさをとりもどそうとして行き着いたのは舞台的演劇的映画だったのだ。


『大洗』は、「江の島」という名前の海の家にアルバイトで働いていた男たちが、その年のクリスマス・イヴに、彼らの間で、マドンナ的(ちょっと古い言い方しか思い浮かばないが、アイドルではない。戸田恵理子が演じている)女性から、全員に、イヴに、アルバイトをしていた海の家で会いたいという誘いの手紙が来る。彼らは同じ手紙は全員に送られていることを、海の家ではちあわせになって初めて知る。そしてそのなかで、彼らと彼女との関係があかされてゆく――まあ、全員が妄想のなかでしか彼女とつきあっていないのだが。


主題はホモソーシャル。全員がひとりの女性をめぐってライヴァル関係になることは、度が過ぎなければ、男性同士の人間関係を壊してしまうどころか、ライヴァルとして連帯関係が強化されることになる。この関係が壊れるときは、1)誰かが、合意の上ではなく、不正な手段、卑怯なやりかたで、残り全員を出し抜いて、女性(異性愛モデルとするが)を獲得するとき、あるいは2)ホモソーシャル関係が、友情ではなく、愛情になるときである。つまりその時、どちらをとるかという強い三角関係が成立する。もちろん私たち人間は、動物ではないので、愛する者を求めてライヴァルどうしが殺しあうことはない。たいていは譲りあいが起きる。そして、譲りあうこと、誰かに譲渡するときこそ、ホモソーシャル関係が強化される第二の瞬間である。第一の瞬間は、ライヴァル関係。第二の瞬間が譲渡の場面である。


あるいはこうも言える。この映画では、みんながあこがれる女性、戸田恵理子は、回想と妄想の場面でしか出てこなくて、最後の最後に、女性の友人に誘われて、冬の海の家にやってくるのだが、いよいよ登場というときに、カメラは夜空の星のオリオン座を映してしまい彼女はあらわれない。回想と妄想の中の想念の女だが、この想念が、男性共同体の結束を強化する。彼らは所有の妄想を共有することで、まだに同一化の欲望の心地よさをしるということになろう。そしてこのことは、ある程度、ステレオタイプ化されるというか、常套的な展開であり、メカニズムだが、数多くのつっこみが飛び交うこの映画のなかで、唯一、ありがちなこととつっこまれることのない現象なのである。


ただ、それにしても、またこういうことを言うのは天に唾するようなものだが、滑舌の悪い役者がいる。まあ、滑舌が悪く、差別発言を受けたこともある私が、人の滑舌のことを批判するのはおかしいのだが、ただ、役者の滑舌の悪さは、その人物の個性として受け止めることもできるので、正直なところ、気にならないのだが、ただ、映画そのものの滑舌が悪い。言い間違いではなく、聞き間違いが大きなテーマである映画において、台詞が聞き取れないところがあった。何を聞き間違えたのか、わからないところがあって、これは映画の作りとしては、基本ができてないのではないか。日本語がわからない外国人監督が撮ったようなところがある。映像と演出はきちんとしているのだが、台詞が聞き取れないところがけっこうあった。


聞き間違いといえば、私は、「ジンジャーエール」が、「死んじゃえ」と聞こえる例をすぐに思い浮かべるのだが、比較的最近では、「ニューヨーク・マラソン」と聞こえるのだが、ほんとうは「農薬飲ませろ」と言っているという、どちらが聞き間違いかわからないような例もあった。今回は、「どうしよう」が「脳腫瘍」に聞こえるという空耳は、ちょっと無理があるのではと思ったが、それはともかく、何を聞き間違えたのか、もとがわからない台詞が、全部ではないが、いくつかあったことを記録しておく。


追記 大洗の海は、私も知っている。映画に出てくる砂浜は、ほんとうに大洗の海かどうかは知らないが、私が大洗の海を見たときは、男たちしかいなかった。そのホモソーシャルの関係のなかで、決めたことがいくつかあるが、実現したのは(つまり本になったのは)一企画だけ。すべて私の責任でいまなお頓挫している企画がある。ちなみに私の研究室には、あの大洗いの海をバックにして私が映っている写真がある。それは宿で飼っている犬が、海のなかに入って走り回り、ずぶぬれになったまま、私のほうに近づいてき、いままさにその犬が体を震わせて水を周囲に弾き飛ばそうとしているため、思わずのけぞっている私が、写真にとられたのである。


あ、そうか気づくのが遅すぎるが、映画における海の家という設定は、水辺設定であり、これは登場する男たちが、女性をめぐるライヴァル関係にありながら、実は、みんなゲイであることを暗示しているのである。


それにしても山田孝之、あれでは、最近は見なくなった長州小力と同じではないか。どうしちゃったのだろう。