イスラエルのワルツ

戦場でワルツを』 

――私は記憶の問題に焦点を絞っていたのであって、何かを主張したかったわけではないのです。
アリ・フォルマン(『戦場でワルツを』プログラムより)


イスラエルにも良心派はいることを、私は想定できるし、イスラエルのしていることがすべて悪いわけではない。逆にイスラエルに良心派はいなくて、極右シオニストしかいないと考えるのは真正の反イスラエル・テロリストだけであろうし、私はそうしたテロリストにはくみしない。


と同時に、良心派を口実にして、不正が隠蔽されることもある。良心派がいないと断定するのはテロリストだが、同時に、良心派はいるからといって、それですべてが許されるというのは国家テロリスト(反体制テロリストではなく、体制側のテロリスト)の主張にすぎない。ここでは、この映画について、良心派の映画であるかもしれないが、良心派を口実にした不正隠蔽に無意識のうちに加担しているのではないかと検証してみたい。そして最終的には、この二面を超える、第三の次元があることを解き明かしたい。



スラヴォイ・ジジェクがスピルヴァーグ監督の映画『ミュンヘン』についてどこかで語っていたことを思い出す――味方をいくら精緻に描いても(暗殺チームは、決して人殺しを楽しんでいるわけではなく、苦悩しつつ任務を遂行しているという描き方のこと)、しかし敵を顔のない集団として描いている限り、なんら認識の変容を迫るものではない。必要なのは敵を対象化するのではなく敵を主体化することである、と。


同じことは、この映画にもあてはまる。レバノン侵攻を一兵士の目から見るという点において、国際社会からみれば、たんなる顔のない虐殺者にすぎないイスラエル国防軍兵士が、苦悩する顔をもつこと、無表情な殺人鬼であるどころか、死の恐怖におびえ、トラウマをかかえ記憶喪失にもなることを、つまりイスラエル軍兵士を主体化しているのである。彼らは、戦地においては冷酷な虐殺者どころか虐殺される側になるのだが、いっぽう敵対勢力は、名前と顔をもたない集団にすぎず、主体化されるイスラエル兵に対して敵は、ただ対象化され外部から眺められるばかりである。戦争に参加した一兵士の個人的私的次元に密着した描写というのだから、捕虜にでもならないかぎり敵を描くことはできないのだから、これは当然の描き方にすぎないとはいえる。しかし同時に、そうした描き方と物語を選択する限りにおいて、この映画は、戦争(それもイスラエルにとっては正義の戦い)を、別の手段(表象レヴェル)によって継承しようとしたにすぎない。


兵士の個人的苦悩(ならびに、そのトラウマと真実に向き合うことから得られる救済)を中心化することによって、背後の政治的社会的背景は消え去ってしまう。たとえていえば、これは、なにかの自然災害に巻き込まれ、知人から肉親までも失い、そのトラウマから抜け出せなくなった人物の物語であっても同じような話になる可能性はある。つまり、戦争が自然災害化されていて、政治的問題(まさにそれがパレスチナ問題の本質だが)として捉えられていない――そもそも捉える回路なり手段を模索すらしていないのだ。


そこで思い出すのが今年見た土井敏邦監督のドキュメンタリー映画『沈黙を破る』である。イスラエル軍の残虐行為を内部告発する元兵士たちの証言が中心をなす映画のなかで、彼らがテレビ番組(だったと思うが)に出演して証言した際、まさにお約束というか、イスラエル軍関係者が、占領地区において残虐行為はありえないと証言して、元兵士たちの発言を冷静に否定する一方、彼らの証言を嘘と決めつけられなくなると、今度は逆に、相手はテロリストなんだから、そのくらいの残虐行為は当然のことで、さもなければ彼らテロリストは、身内や知人たちを無差別に殺しかねないと激昂する女性の右翼的主張が示される。もちろん、その番組では、元兵士たちの証言を冷静に聞こうとする人たちもいるわけで、政治的主張はひとまず脇において、彼らの個人的体験に耳をかたむけていいのではないかと提言する。するとまた右翼女性ががなりたてる。そこでまた「政治的な話」は今日はしない約束じゃないかと制止される。出演した元兵士たちは、諦念とも嘲笑ともえいような表情を浮かべている……。


もしこれがイスラエルにおける状況だとしたら、個人的体験を語るだけでも批判されるのだから、個人的体験を離れて政治的見解を述べようものなら、もっと多くの反発をくらい、暴論、空理空論として否定されかねないと予想できる。個人的体験というのは、政治的発言を封じられる者たちの最後のよりどころなのである。あるいは、個人的体験なら話してよいが、それをはなれた特定の政治的立場にたつ発言(とはいえ、それはおおむね反体制的・反政府的発言なのだが)は、たとえ制度的に禁じられなくても、反発をくらうとしたら、言論の自由は保証されていない。そうした状況においては、声高な政治的正義の主張よりも、個人の体験と実感に基づく見解こそが、多くの人の心をうち、人を動かす力にもなってゆくのである。


したがって、みずからの残虐行為を赤裸々に告白しているような、こうした映画がつくられるということは、駐日イスラエル大使がいうような、イスラエルでは、政府に不利な作品でも作られるという、言論の自由があるということではなく、その逆、言論の自由が暗黙のうちに禁じられているからこそ、こうした個人的体験を語れ作品があらわれるということなのだ。全編99パーセントがアニメだということ自体、つまり実写版ではないということ自体、抑圧の力を思い起こさせるに十分なものがあろう。


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しかし、それにしても、パレスチナ人虐殺を描くことになったこのアニメが、イスラエルで絶賛されたというのは、どういうことなのだろう。大きな理由のひとつは、サブラ・シャティーラの虐殺が、イスラエル軍の支援のもとで行われたとしても、基本はキリスト教徒の民兵組織ファランヘ党員が、アラブ人=パレスチナ人に対して行った残虐行為だから、直接的責任はないからである。傍観者もまた共犯者なのだという議論は、この映画で主張されている。だから、イスラエル人は、自分が免罪されようとは思っていないのだが、しかし、虐殺の張本人は、キリスト教狂信者軍団のファランヘ党員であって、ユダヤ人たちではないことは重要(とイスラエル側は考える)だろう。反省、悔やまれるべきは、狂犬のような、マロン教徒たちであって、彼らの行為を拱手傍観するしかなかった自分たちのふがいなさであってるが、しかし、繰り返すと、イスラエル兵は直接手を下していないということになる。


これは重要なことで、たとえばコンラッドの『闇の奥』が、アフリカにおける植民地主義の暴虐を描いていながら、イギリスで筆禍事件にもならず批判もされなかったのは、それがイギリスの植民地主義ではなく、コンゴにおけるベルギーの植民地主義の暴力を描いていたからで、イギリスにとっては痛くもかゆくもなかったどころか、コンラッドの思惑とは別に、イギリスの植民地主義を正当化する面も生じたからだ。おそらくこれと同じで、直接手を下していなかったサブラ・シャティーラの虐殺は、イスラエル軍によるものではないから、真相を暴いても平気なのである。そもそも昔の事件だし。しかもそのジェノサイドに言及することによって、良心派であるという美名を得ることもできる。


このブログのべつのところでも述べたように、公正さの主張は、べつの大きな不正の隠蔽に利用されることもある。良心派の存在自体は、悪ではないが、良心派は往々にして、悪しき目的に利用されることもある。公正さの主張の背後に、大きな不正が隠されることもある。


サブラ・シャティーラの虐殺事件については、恥ずかしながら、私はあとで知っただけで、リアルタイムでは何も気づいていなかった。しかしすでにネット時代になって久しい2002年のパレスチナ自治区ジェニン難民キャンプへのイスラエル軍侵入については、ネット上で、リアルタイムで、その様子が刻々と伝えられてきたことを覚え居ている。先ほど触れた土井敏邦監督の『沈黙を破る』では、侵攻直後のジェニン難民キャンプの様子もとらえられているのだが、狂犬のファランヘ党員ですら死体を残したのだが、イスラエル軍は、死体をミンチにして、瓦礫とまぜてしまい、遺体確認すら困難にし、虐殺の事実を隠蔽しようとしている。イスラエル軍のこの残虐性と政治的狡猾さは、ファランヘ党員を凌ぐ。ジェニン難民キャンプでイスラエル軍がしたことは、狂犬ファランヘ党員のそれと、勝るとも劣らない。


この映画の自己告発と自己批判は真正かつ公正なものだが、同時に、その公正さが、たとえばジェニン難民キャンプをはじめとするイスラエルの残虐行為の隠れ蓑になっているのではないか。作り手の思惑を離れて隠れ蓑として利用されているのではないかという疑念は残るのだ。悪いのは狂信的キリスト教徒だ、まあ傍観者でなにもできなかったわれわれも悪かったが――という映画つくられ、イスラエルで上映され、イスラエルの良心として拍手喝さいされた、まさにそのとき、ガザ地区への、良心のひとかけらもない侵攻が続いていたのである。



しかしそれだけだろうか。イスラエルの残虐行為を隠蔽するだけの目的でこの映画がつくられたのだろうか。この映画はアニメである。そしてその場面は、どこかアメリカの戦争映画でみたことがあるものなのだ。ベイルートの戦場近くの海でサーフィンに興ずるイスラエル兵の姿をみて、コッポラの『地獄の黙示録』を連想しない者がいるだろうか。ささいなことだが、戦車兵が狙撃され、瀕死の重傷を負ったとき、仲間が心臓マッサージをすると、それにあわせて口から血が吹き出るというシーンは、スピルヴァーグの『プライベート・ライアン』を思い出した。そう、このアニメは、アメリカの戦争映画を彷彿とさせる。そしてそれは意図的にそうしているのである。イスラエル兵たちは、戦争映画の主人公とまではいわなくとも、登場人物であるかのようにみずからを見立てているのである。


これはアニメの性質にもよる。これは実写ビデオをもとにしてアニメにしている。たとえていうのなら、写真に加工し、輪郭をつけ、色を塗り、写真を絵に改変するようなもの(正確にいうと、実写ビデオに加工するのではなく、それをもとに、もう一度、描きなおしてアニメにするという手の込んだことをしているのだが)。もともとがビデオの実写映像だから、人物の動きなど実にスムーズである。アニメなのに、人物の動きは、不自然なほど自然なのだ。ここでは、実写フィルムをいったんフィルターにかけてアニメ化するというプロセスが、元兵士たちが生きる現実と呼応していて、事態を、戦争映画をみるようにしかみていないこと、またさらにトラウマなどによって抑圧がかかると、ますます現実は、アニメのように、加工されててしまうことだろう。その加工された現実と記憶をたずさえていきながら、みずからの記憶に欠落があったことを知った主人公が、その欠落を埋めるべく、真相に迫ろうとし、加工された記憶ではなく、生の現実そのものに直面するさまがこの映画なのである。


映画の途中で、心理カウンセラーが、メタ媒体的なコメントするところがある。たとえばある素人カメラマンは、記録映像を作ろうとしながら戦争に同行したが、すべての出来事が映画の一場面のように感じられて、どんなに残酷な情景にも、戦争映画の一場面ではないかとわくわくするだけで、心を痛めることはなかった。しかしある時、カメラが故障した。そのためカメラのファインダーを通してではなく、肉眼で周囲の光景に接することになったとき、戦闘のあおりをくらって無惨にも殺されたり死にかかっている馬たちの姿に驚愕し恐れおののいたという体験が語られる。これは興味深い、またこの映画全体に通じるメタメッセージではないかと考えた。ただし、このとき、その死んだ馬たちの姿も含め、全体がアニメになっていたので、アニメというフィルターははずされることがなく、そのメタメッセージも、アニメのなかの一挿話にすぎないといことになって、やや落胆したことも事実だが。


しかし映画を最後まで見た人ならわかるように、最後にアニメが停止して、実写になる。まさに映画の中盤に語られてメタメッセージが、最後において実現する。虐殺現場をみて、恐れおののく主人公は、まさにその恐怖ゆえに記憶喪失になったわけだが、最後に、記憶を取り戻し、その恐怖に蒼白になった顔の目に、残虐行為の帰結を焼き付ける。そこに焼き付けられた姿とは、殺されたパレスチナ女性たちの死骸の実写なのである。もはやアニメというフィルターは存在しない。フィルターにかけられた現実も記憶も存在しない。実写なアニメ的改変なき、生の現実をつきつけて終わるのである――サブラ=シャティーラの虐殺という現実を。


だが、私は納得できない。むしろ疑問が深まるばかりだ。なぜ、これがイスラエルで受けたのか。昔の話である。当時のシャロン防相は辞任に追い込まれるのだが、それは傍観していたことの責任を問われただけで、虐殺に積極的に加担したからではなかった。良心的な辞任ともいえる。主人公も、傍観者であったことで責任を免れようとは思っていない。ならば、なぜ、それがいまになってイスラエルで受けることになったのか。



村上春樹エルサレム賞を受賞したときのスピーチを覚えておいでだろうか。卵と壁。壁は、イスラエルパレスチナ自治区に作っている壁をすぐに連想するし、また卵は、イスラエル軍に蹴散らされるパレスチナ人の抵抗運動をも連想させるものだった。村上スピーチでは、攻撃されるパレスチナ人のことがにおわされているだけで、はっきりそれはとは語られていないし、すぐに、卵と壁については、ほかにもいろいろな解釈があるとつづけるのだから、強烈なイスラエル批判になっていない。スピーチを聞いたイスラエルの列席者たちのなかには不快感をあらわにする者もいたというが、ほんとうにそうなのだろうか。


私はこの映画をみながら、卵と壁の比喩を思い出していた。この映画をみると、卵は、PLOの戦闘員ではなく、本来は残虐非道な壁であるはずの、イスラエル国防軍の兵士たちのほうであった。彼らが、つぎつぎと殺されていくところが繰り返し描かれる。彼らは、まるで砕けて壊れる卵のように、もろくて弱い。本来、壁であった彼らが、まるで卵のように描かれている(トラウマによって、記憶喪失になるくらいだから、精神も卵のように壊れやすい)。そう、村上スピーチを聞きながら、多くのイスラエル人は、自分たちこそ、卵なのだと感じたのではないか。そして文学者たる者、卵の側につねにあるべきだと村上が語ったとき、彼らは、村上は自分たちの味方だと思ったのではないか。


こう考えると、この映画で、最後に実写になってパレスチナ難民の死骸が映し出されて終わることの意味がみえてきた。そう主人公は、ファランヘ党員によって虐殺されたパレスチナ難民の姿に、自分の姿を、自分たちの運命を、ホロコーストを見たのである。最後に、アニメのフィルター抜きで示された現実こそ、彼らユダヤ人の運命だったのである。


記憶喪失となった恐怖体験が、主人公の、ホロコーストの生き残りである両親の経験とも、つまりホロコーストとも、結びついているのではないかというカウンセラーの意見が映画のなかで示されるのだが、この映画のなかで主人公が対峙することになった恐怖は、パレスチナ人難民の虐殺を超えた、ユダヤ強制収容所での死をめぐる恐怖であり、この死、この恐怖こそ、イスラエル人のアイデンティティの根幹を支え、建国の神話の基盤となったものであった。したがってキリスト教民兵組織に虐殺されたパレスチナ人難民の姿のなかに、イスラエル人は自分たちの姿をみた。あるいは彼らのアイデンティティを支えるホロコーストを見た。こうしてホロコーストへと帰還したことによって、この映画はイスラエル人の琴線に触れ、イスラエル人の無意識を占拠できたのである。


思えば、映画の冒頭、主人公は、26匹の野犬というか狂犬に包囲される悪夢をみる。あの凶暴な野犬たちを、わたしたちは、パレスチナ人を迫害するイスラエル国防軍、あるいは、もうすこし特定してファランヘ党員とみたのだが(たぶん、そう見た人は多いと思う)、しかし実際は、あれこそ、イスラエル人の恐怖の運命――つまり野犬のような狂犬のような近隣諸国(26という数字も、国の数に関係するのかもしれない)に包囲され、風前のともし火という、建国以来の神話のストレートな形象であったのだとわかる。


ただそれにしても、これはなんたる狂気か。加害者が、みずからを被害者とみなしている。犯人が、自分こそは犠牲者だと思い込んでいる。難民を作りだした側が、自らを難民としてみている。More sinned than sinning! この狂気ゆえに、近隣諸国との友好関係以外に、生き延びる道はないというような平和政策を思い浮かぶことはなく、ただ攻撃あるのみ、さもなくば絶滅、ホロコーストあるのみという狂犬行動が生まれるのだ。


だが、忘れてはなるまい。アフリカにおけるベルギーの植民地政策を批判したはずのコンラッドの『闇の奥』も、いまや大英帝国の植民地政策を批判する書として読まれ、それ以外の読まれ方はしなくなった。私たちもこの映画を、イスラエルこそ、無辜の民であったパレスチナ人難民の非戦闘員を襲う、狂信者、狂犬集団であることを描いた映画として読むべきであろう。人を殺しておいて、自分のほうが死にしそうだというこの狂人の目をさまさせるには、そのくらいの誤読も必要だろう−−いやむしろ、それこそが正しい読解だと信じているのだが。


付記:タイトルについて
バシールとのワルツ」(原題)、あるいは「戦場でワルツを」(日本語題)については、なぜそれが選ばれたかは定かではないが、原題の「バシールとのワルツ」は、ファランヘ党バシールパレスチナ人排除政策にのっかって、パレスチナ人虐殺に加わったイスラエル軍を告発し皮肉っているともとれる。あるいは映画のなかで「バシールとのワルツ」として語られる場面を思い出してもいい。それは主人公の戦友でもあるシェムエル・フランケルが、ベイルートの路上で、部隊が銃撃にくぎ付けになっていたとき、仲間の兵士の機関銃をとって、路上で、ワルツを踊るように、乱射して、その場を制圧したという英雄的(あるいはむこうみずな)行為を指している。道路や建物の壁にはバシールの大きなポスターが掲げられていた。包囲をものともせず、優雅にワルツを踊るようにして機関銃を乱射して、相手を蹴散らす、その姿こそ、イスラエルが求めてやまない、包囲のなかの果敢な攻撃行動と一致する。そう考えれば、これは、どこまでもイスラエルの凶悪なイデオロギーに貫かれた映画なのである。