Wind Chill or a Pale Driver

「人類の歴史とは、地下に秘め隠された犯罪の目録ではありませんか」
アンジェイ・ムラリチク『カティンの森


エミリー・ブラント主演の映画『ヴィクトリア女王』が今週末から公開されるのだが、彼女が主演の映画それもヴィクトリア女王を演ずると聞いて、ずいぶん出世したものだという感想をもった。いうまでもなく彼女の最近作は、たとえば『ジェイン・オースティンの読書会』にしても『プラダを着た悪魔』にしても、脇役なのだが、うっとうしい女、いやな女、意地悪女というイメージが強烈で、ヴィクトリア女王とは結びつかないというか、ヴィクトリア女王もそういう嫌な女だったのだろうか。


たとえば『ジェイン・オースティンの読書会』は、あまり知っている俳優がいなくて――認知できたのはキャシー・ベイカーとマリア・ベッロとヒュー・ダーシーくらい――、なんとなく、テレビ・ドラマ的で、テレビ俳優といえば、アメリカでは二線級の俳優のことで、脇役の彼女も、そういう俳優の一人にみえた(この映画で、彼女は、なんとなくウィノナ・ライダーに似ているところがあって、私的には彼女はウィノナ・ライダーのバッタモンという認識だった。もちろん役どころは、お約束のうっとうしい女だった)。あるいは『プラダを着た悪魔』の意地悪女ぶりを憶えている方も多いだろう。


しかし、彼女が主演した映画もあって、ひとつはレズビアン映画『マイ・サマー・オブ・ラブ』そして、もうひとつが、そう23日夜の恐怖の出来事を扱ったホラー映画Wind Chill(2007)である。


もちろんこの映画でも、彼女は嫌な女子学生という役どころで、彼女の全体的イメージを損なうことがない。クリスマス休暇で実家に帰る女子学生が、初対面の男子学生とともに、23日の夜、自動車事故にあい、車内で一夜を極寒の天候のなかですごすはめになるというもの。23日の夕方から、翌日24日の朝までの恐怖の一夜を扱う。


最初、私はこれを女子学生が暴力事件に巻き込まれる話かと思ったのだが、壊れて動けなくなった車のなかで、やむなく一夜を過ごすはめになったあと、彼女が雪のなかで不思議な人影をみる頃から、予想に反してこの映画は幽霊物語映画へと変貌をとげる。この意外性も、怖かったのだが、全体に充分恐ろしかった――怖がりでびびりの私には。まあ、すべてがわかってしまうと、恐怖よりも興味が先にたち、DVD(日本では劇場未公開)を何度もみなおし、この映画が、すぐれたゴーストストーリー/ホラー映画であるとことを再認識した。


監督はグレゴリー・ジェイコブズGregory Jacobs。これまでに撮った映画は本作をふくめて2作(もう一作はアルゼンチン映画『Nine Queens 華麗なる詐欺師たち』(2000)のリメイク作品『クリミナル』Criminal(2004)−−アルゼンチン版、このアメリカ版、どちらも評価の高い映画)だが、スティーヴン・ソダーバーグジョージ・クルーニー組のひとりで、この映画のDVDはソダーバーグ/クルーニーの製作指揮を売り物にしているが、グレゴリー・ジェイコブズのほうが、ソダーバーグ監督の映画の多くで、プロデューサーや助監督をしている。ソダーバーグの最近作でも、たとえば現在公開中の『インフォーマント』、あるいは『チェ・ゲバラ』2部作では、プロデューサーと助監督を兼任している。したがって新人監督ではない。堅実かつ知的なつくりのホラー映画を作ることができる有能な監督であり、残虐性と二転三転する意外性といった最近のホラー映画(『ソウ』シリーズに代表されるような)とは一線を画す、記憶とトラウマにかかわる緊迫性を有する心理的知的ホラー映画を目指している。


映画はクリスマス休暇で実家に帰る女子大生が、同じ方向に帰る男子大学生の車に乗せてもらい、故郷を目指すロードムーヴィーかと思いきや、その男子大学は実は彼女のストーカーであったことわかり、にわかに緊張感が増すのだが、しかし、それまでの移動中という動的状況から、正面衝突を避けて道路から転落して雪のなかに埋まり動かなくなった車のなかで、このペアが極寒の一夜を過ごさねばならなくなった停滞状況へと変化するにつれ、緊迫感は、劇場的なものとなり、彼らがその場でつぎつぎといろいろな人物と出会うことになるため、その場は、まさに舞台となる。つくりかたによっては、これは舞台にも出来る(フラッシュバックの処理をどうするかが問題だが)。ちなみに男女(ちなみに、ちなみにこのペアの名前は最後まで明かされない)がその一夜に出会う人物は、一人を除いてい全員幽霊である(その一人も、最初は、幽霊ではないかと思えるくらいなのだ)。


ネタバレ注意(荒筋は意図的にぼかして書いたが、ネタバレを書いてしまっては、なんのこっちゃということになるが)


じゅうぶんに説明し尽くされていないところもあり、なぜという部分も多いのだが、設定をまとめるとこんなところになるだろう。主要幹線道路からはずれたB級幹線道路ルート606、ならびに雪のなかに突っ込んで車が動けなくなったこの一帯は、悪徳ハイウェイ・パトロールマンが、旅行者たちを脅して金品を巻き上げ、貧しい移民や黒人たちの不法行為に対して拷問をもって接し死に至らしめ、女性をレイプして殺しつづけたという場所であった。また引退した神父たちが共同生活を送る家が道から外れたところに存在し、彼らは、悪徳警官の悪行を、なすすべもなく目撃していたのである。


ある夜、何十年か前の12月23日、悪徳警官が、神父たちの家の近くで、事故を起こす。転覆した警察車両から抜け出せなくなったその警官を、神父たちは、日頃の悪行の罰とばかりに見殺しにするが、爆発炎上した警察車両の火は、神父たちの家にも燃え広がり、極寒の天候のなか瓦礫となった家のなかで、神父たちは全員凍死してしまう。以後、この一帯は、呪われた一帯となる。


悪徳保安官の霊が、この地帯を支配し、それも12月23日の夜、主要幹線から抜けてルート606を走行する車両は、突如、正面に現れた車両(ヘッドライトだけしかみえないのだが)を避けようして道路から転落する。乗っていた人間は、即死するか、寒さのため凍死する。この事件が過去に何件もおこる。それは悪徳保安官の霊が引き起こしているらしく、生きていた頃の悪徳保安によって殺害された者たち、あるいは保安官の霊によって死へと至らしめられた者たちが、浮かばれぬ幽霊として夜な夜なこの地を徘徊している――ということのようだ。


これはホーンティッド・ハウス物ホラーと同工異曲である。呪われた屋敷こそ、存在しないが(近くの引退神父たちの屋敷の残骸が、呪われた屋敷を髣髴とはさせる)、場所全体が、地下に多くの死者を埋め、その死者たちの亡霊の徘徊空間ともなっている。場所が、呪われた屋敷なのだ。事実、これはカナダのバンクーヴァーでの屋外ロケなのだが、漆黒の冬空と雪明かりだけの世界は、空間の広がりよりも、むしろ閉塞性を際立たせ、場所全体が、大きなすスタジオであるかのような閉じられた空間となる。


だが、なぜ、そんなことを。何も知らない男女が、そんな恐怖の空間に紛れ込んだというのなら、それはそれで怖いのだが(墓場の上に建てられた住宅に何も知らずに住んでしまい、怪異現象に悩まされるというのは、確かに怖い)、どうもそうでもないようだ。


ここで考えてみてもいいのは、呪われた屋敷のジェンダー化である。多くの場合(規則ではないが)、そうした空間は女性化されている。この映画では、悪徳ハイウェイ・パトロールマンが、生前も死後もその空間の恐怖の原因となり、空間は男性化されている(女性のいない男性の聖職者たちの住まいがあったということも空間の男性ジェンダー化に貢献している)。犠牲者たちは、それも女性の主人公が直接接触する亡霊は、レイプされて殺された女性と、リンチを受けて殺された黒人である。ここで非業の死をとげて浮かばれぬまま彷徨う亡霊たちは、マイノリティーが多いのだ。となると、この空間は、呪われた屋敷のようでもあるが、同時に、空間的には広がらないが歴史的にひろがりをもつようだ。認知されず、闇から闇へと葬られた、暗部の歴史。それがこの空間を貫いている(ドゥルーズ風の用語を使うと、この映画は〈運動イメージ〉から〈時間イメージ〉へと移行するのである)。


たとえていえば、その地中深くに、ソ連軍によって大量虐殺されたポーランド軍人や関係者たちをかかえたカティンの森のような場所と、この場所は、さほど遠からぬところにある。カティンの森は、特殊な事件かもしれないが、しかし、同様な場所と虐殺の記憶は、どの社会にも例内なく存在する。そうした歴史の暗部をたたえた場所、それがこの場所であって、亡霊たちが徘徊すること自体、暗部であることの証左となる。亡霊が存在する理由は、古今東西、だいたい同じようなもので、それはつまり埋葬されていないということだ。いや埋められているが埋葬されていないがゆえに、彼ら亡霊たちは、抑圧的保存されているわけであり、たとえていうなら、消化できないチューインガムのようなもので、いつまでも共同体に取り付いて離れない。真実を暴くこと、隠された暗部に光をあてるということは、最終的に、埋葬すること、ただしく消化すること、その死を共同体の記憶として未来に生かすことであろう。


映画はこの点に自覚的である。この呪われた場所には天使と悪魔が存在する。悪魔は悪徳警官とするなら、天使は引退した神父たちである。そして男子大学生が、廃墟となった屋敷を探検したときもってくる新聞だか雑誌だかに、引退した神父たちがしたことが美談記事として書かれている。「神父たちが、悪天候をものともせず、事故現場で死んだ若者二人の最後の秘蹟を行なった」として。彼らは葬儀をとりおこなったのであり、この呪われた場所は、正しく埋葬されることのなかった亡霊たちが、埋葬される日を待って永遠に徘徊する場所であり、彼らを救う方法も暗示されている――ただし葬儀と埋葬が求められているのである。


そう、映画のなかでニーチェの「永遠回帰」の話が出てくる。eternal recurrenceという英語を使っていたが、亡霊たちは、埋葬されるまで、彼らが殺された場面を何度も永遠に反復し続けることだろう(これはニーチェの説とは基本的に無関係なのだが、しかし、もし宇宙が有限個の物質からできていて、時間が永遠ならば、寸分たがわぬ世界が永遠に反復されるというニーチェの説は、この宇宙が呪われているということなのか、あるいはそういう呪われる呪われないという問題圏から自由になって思考せよということなのか)。この永遠の反復を停止させるのは、真実を暴くこと、死者を正しく埋葬することである。そうでないかぎり抑圧的保存されている死者は、永遠に、生者を悩ますのをやめないだろう。


今年の後半は、授業で、アブラハムとトロック関連の本を読んでいたので、どうしても、喪の仕事とか、トラウマとか、クリプトとか、ファントム問題に関心が言ってしまい、見る映画もどういうわけかそういう観点でしかみれなくなってしまった。『ゼロの焦点』も、そういう映画であったし、『カティン』はいうまでもなく、『戦場でワルツを』もそうだった。いや、先週見たばかりの『スノープリンス』でもそうであったのだから、いま私の頭は、アブラハムとトロックに憑依されているといってもいい。彼らの功績は、「抑圧的保存repressive preservation」という言葉を作ったことにある。生きている亡霊のことである。無視され闇から闇へと葬られても、決して消え去ることなく保存され、それゆえ回帰し反復する恐怖の存在のことである。


映画のなかでエミリー・ブラントの相手役となるアシュトン・ホームズ演ずる男子学生は、なんだか負け犬的もてない大学生なのだが、すぐに、ストーカーだとわかり、悪の面が垣間見えるのだが、最終的には、自動車事故で強打したことが原因で死んでしまう。しかし、最後の段階で、朝、彼女を生の世界へ導き、近くのガソリンスタンドに案内するのは、死んだはずの彼である。彼女が見ているのは彼の亡霊なのか。映像は彼が生きているとも死んでいるとも伝えない。無言の彼女もすべてを理解しているようにみえる。あれほど、この世界から隔絶されたかみえた人気のない山中も、丘のようなところを登ると、すぐに民家の裏庭に出て、そこから眼と鼻の先にガソリンスタンドがみえる――意外に近かったのだ。そして人影こそまばらというよりも、ほとんどみえない朝のガソリンスタンドが、明るい陽光のもと、心地よさを通り過ぎてて救済的日常性のオーラを発しているのには、けっこう感動できることを伝えておきたい。


彼は、結局、なんだったのか。実は、その台詞をもう一度検証して、ヒントめいたものを探るべきなのだが、それをしていないので、まあ無責任な思いつきだが、彼は、雪に閉じ込められた場所の近くの、廃屋(引退した神父たちが暮らしていた屋敷)を見に行って、そこで幽霊と出会うのだが、彼女にはそのことを報告しない。彼にとって、その屋敷(の廃墟)は、なじみの場所のようでもある。明確な説明はないのだが、彼もまた幽霊だが、おそらく成仏できない幽霊ではなく、雪のなかで事故死して神父たちに秘蹟をおこなってもらった若者の一人なのかもしれない。彼がストーカーだとわかってからは、その語る言葉はすべてが胡散臭く信憑性を失うのだが、それにしても、このルート606を、前に一度車で通ったことがあると語っていた。たぶんそこで事故を起こした。そして死んだ若者の一人なのだ。しかし、神父たちに葬儀を行ってもらったために、呪縛からは免れた。そしてこの呪われた場所の真実を生者に伝えるべく、神父たちによって、この世に呼び戻されたのかもしれない。彼は、生きているが死んでいる存在として、死の世界と生の世界を橋渡しするのである。


そして最大の問題。この日本未公開の映画のDVD化されたときのタイトル――『デスロード 染血』。なんちゅうタイトルやねん。これは製作者たちが聞いたら怒るぞ。つまり台本が、血が飛び出るようなスプラッター・ムーヴィーとは一線を画すようなものであったので、製作に踏み切ったという製作者側の意図をまるっきり裏切っている(DVD に収録されたメイキングをみればよくわかる)。しかも「鮮血」ではなく「染血」。雪景色だし、雪の上を真っ赤な鮮血が染めてゆくというイメージを、このタイトルからもつのは当然だろう。AMAZONのDVDのレヴューのなかに、ひとり、鮮血/染血マニア(まあ変態でしょうね)がいて、「ホラー好きの私には、物足りないですね。最初の40分は、高慢な女の子に半分ムカつきながらも退屈な時間を過ごしました。後半は盛り上がるのですが、中途半端ですね。。。純粋に映画を見られる方は、きっと別の意見があるのでしょうが、ホラー好きからみると軽めの間食にもならないな」というように、このタイトルでは、こうした変態のバカを呼び寄せるから良くないのだ。誤解のないように言っておけば、アマゾンのほかのレヴューアーたちは、この映画を、当然のことながら、きわめて高く評価している。そしてこの映画は、頭を打った傷からのすこしの出血と、鼻血以外に、血は流れない。鮮血/染血マニアが望んでいるような、雪を血が染めるシーンなどひとつもないのである。