新年あけまして

新年明けましておめでとうございます。


こう書くと、明けるのは旧年だから、新年が明けてしまっては来年2011年になってしまうと、したり顔にいう、大バカ野郎がいると思うと、新年早々、むかついてくる。いったいいつから日本人は日本語を忘れるように、洗脳されてしまったのか。こんなに簡単に洗脳されるようでは、もっと本格的な洗脳の前には、ひとたまりもないぞ。


過去には確かに年賀状には「新年あけましておめでごうございます」と書いていた。私ははっきりと記憶している。それがいつの頃からか「夜があける」とはいうが「朝があける」とか「日があける」とはいわないのでおかしいといういうバカがでてきた。バカはバカでほうっておけばいいが、いつのまにかそのバカの主張が通ってしまって、いまでは年賀状の文例からも、「新年あけましておめでとうございます」というのが消えてしまった。


結論からいうと「新年あけまして」というのは日本語として全然おかしくない。『明鏡国語辞典』から引くと――

「明ける」
1夜が終わって朝になる。2古い年・月が終わって、新しい年・月になる。
語法 1と2は「夜が―/朝が−」「旧年が−/新年が−」のように、古いものと新しいものの両方を主語にとる。前者は現象の変化に、後者は新しく生じた変化の結果に着目していう。同種の言い方に「水が沸く/湯が沸く」などがある。

とあって、繰り返すが「新年あけまして」という表現は日本語としておかしくない。私が子供の頃、あるいは若い頃にはふつうにつかわれてきた。その頃の日本人が、まちがった用法の日本語を使って、それに気づかなかったとは考えられない。それをおかしいといいはじめたバカは誰か。それを容認した国語学者言語学者の罪も重いかもしれないが、言語学研究者は、言語表現の規範を示し指導するというよりも、言語現象を観察し変化などを記述し説明することに重きを置くだろうから、責任を問うことはできない。「お湯が沸く」をおかしいとはいわず、「新年があける」をおかしいと思い始めた国民がバカもしくはあまりにも洗脳されやすいとしかいいようがない。


なさけないことに、いまでは「新年あけましておめでとうございます」という年賀状に書けなくなった。それこそ、いま引用した辞書の解説でも付けないかぎり、使いにくくなった。おそらく「新年あけまして」という表現は日本語から消えたといっていい。「お湯が沸く」という表現はまだ残っているにもかかわらず。


だから、あきらめるしかない。時流にさからってもむだであろう。だが、しかし、日本人をここまで洗脳した奴らを許してはいけない。いったい誰が、どういう集団が、こんなくだらないことをいいはじめて、日本人を洗脳したのか。バカな奴(奴ら)をなんとしても見つけて公開処刑するか、公開懺悔させるべきである。これから簡単に洗脳はさせない、また洗脳されないために。