医師の判断


藤井財務大臣が辞意をもらし、今後、職に留まるかどうかは医師の判断を待つということになったが、しかし、医師の判断は待つまでもないだろう。藤井大臣は高齢だし、高齢であれば誰もが持病のひとつやふたつある。たとえ持病がなくても、健康診断すれば、高齢であれば、病気のひとつやふたつすぐにみつかる。だから病気(持病も含む)を理由に、医師が、激務に耐えられないという判断を下すのは最初からわかった話なので、判断を待つまでない。時間かせぎということか。


かりにもし全く病気がなくて健康体であっても、医師は、この人が一年間の激務に耐えられると保証するだろうか。かりにその人が交通事故で死んでも、医師の生命保証が嘘にきこえてしまいかねないので、医師は、責任を持ってこの人は一年間生きると保証できないだろう。逆に、医師は、激務だったらこの人の健康と生命を保証しませんという判断ならよろこで、自信を持って、責任をもって示すだろう。これは予測が外れても責められることがないから、ほんとうは無責任な判断だが。


となると医師の判断とは治療計画を立てるとか、病名を判断するか、余命を計算するとかそういう場合には意味があっても、その人が仕事に耐えられるか、仕事を達成できるかというようなことは、逆のことは言えても、肯定的なことはいえないはずで、その場合、どんな判断でも無意味である。


ちなみに、ある大学では、ある教授が要職に選出されたとき、医師の診断あるいは判断書を提示して、自分は医師の判断では、この職に耐えられないということなので辞退すると言い放ったという。しかし、それでその教授は翌日から入院するとか、あるいは退院したばかりかというと、そんなことは全くなく、いまでもぴんぴんしている。放送大学で、私はよく見かける。だから、医師の判断は、責任のがれの手段にすぎない。医師もいい迷惑だろう。そういうときに医師の判断は必要ないのである。