注番号


日本人が書いたある本に、アメリカから短い序文が寄せられた。以前、もう20世紀のことになるが、その翻訳を頼まれて、訳出したことがある。短いものだったし、断る理由もみつからなかったから。


そしてその本が、今度は文庫になるということで、訳文をあらためて確認してほしいといわれて文庫本のゲラに目を通した。十年以上も前の自分の翻訳で、しかも、あまり上手いともいえないのだが、まあ、意味はとおっているので、仮名遣いの不統一を一箇所か二箇所直した程度のことはした。


いや、自分では下手だと思うのなら、訳しなおすくらいの気概がないと翻訳者とはいえないのではないかと非難されそうだが、実は、もとの原文は、タイプ原稿(のコピー)で、それはもうどこにいったかわからない。だから改訳あるいは新訳というのは不可能だし、またたとえ原文がみつかっても、こちらがあまり頑張りすぎて改訳しても出版社に負担がかかってしまうだろうと思い、そこそこにした。


それで終わりと思ったら、注番号がひとつ抜けているので、確認して、付けてくれといわれた。私がゲラで見落としたので、こちらの責任だが、文庫本になる前の本で確かめてくれれればいいのに、そんなこともしない編集者かとあきれたが、もとの単行本をとりだして、今回の文庫本のゲラで抜けている注番号を探した……。ない……。もとの本でも注番号がないのだ。ということはもとの本を出版するとき、編集者も校正係も私も、注番号がひとつ抜けていることに気づかずに、本にしてしまったのだ。


著名な出版社である。こんなこともあるのか……。いや、あきれてばかりでは。注番号をつけなくてならない。もとのタイプ原稿を探すことはほぼ絶望的である。出版社に残っているのかもしれないが、編集者がかわってしまっているので、すぐにみつかりそうもない。困った。原注はあるのだが、本文の前後関係から注の入りそうな場所はわからない。


結局、どうしたのか。その原注で触れられている原書の該当ページをみるしかなかった。図書館で調べればいいと思うかもしれないが、事情があって、うまくいかず、結局、その本を購入した。そして該当ページを調べた。で、どの段落に入る原注かは理解できた。ただし原著者がどの場所につけたのかはわからなかったので適当につけておいた。適当とはいえ、その段落に入る注であることは、まちがいないので問題ないだろう。


正月そうそう、たいへんだったと思われるかもしれないが、該当ページ探しは、昨年11月の終わりから12月にかけておこなったこと。いま本ができかあがったが、私の名前は表紙には記載されていなので、どの本のことを言っているのかは、わからないはずだ。