女嫌い

というタイトル(原題)を見てきた*1。この映画、予告編を見たときから気になっていた映画で、どういうことかといえば、過去に起きた謎の失踪事件を調査するなかで徐々に真実があぶりだされるというミステリーといえる内容の映画で、その重厚な映像とあいまって、濃いシリアス・ドラマを予感させるのだが、そのいっぽうで、刺青をして、顔面リングだらけ(鼻輪までしている)の小柄な女が格闘シーンを繰り広げている。まあ捜査の過程で、怪しい富豪一族のなかにそんなぶっとんだ娘がいるという設定なのかとも思ったが、彼女は格闘能力だけでなくハッカーとしてもすぐれていて探偵役でもあるようだ。最近、衛星放送の深夜番組でアニメの『エクシード』を放映していたが(みたことがあるので、テレビであらためて見ることはなかったが)、同時期のモーションピクチャー・アニメ『ベクシル』とならんで、最近流行の格闘(美)(少)女が主役の映画という風情でもある)、これはつまりアニメかB級映画に特有の設定なのだ。だとすると、重厚なミステリーの部分と、どうつながるのか、謎は深まるばかりだった。


すでに公開されているこの映画『ミレニアム――ドラゴン・タトゥーの女は、スウェーデンのベストセラー・ミステリーの映画化で、ミステリーにうとい私は、映画館の近くの書店で、この『ミレニアム』シリーズが山積みになっているのをみて驚いた。全部で6冊出ているこのシリーズが山積みされるとかなり圧巻で、読んでみようという気がうせた。ひとつの映画の原作が6冊。う〜んと、うなったが、実は映画は第一部、本にして上下二冊を扱っている。全部で第三部まで出ていて、各部二冊構成で、計6冊。映画の最後に第二部の予告編があった。調べてみたら、第三部までもう映画化されている。今日の夕刊にはこの映画評が載っていて「極上のミステリー」とあった。極上かどうか、私にはわからないし、というかミステリーの評価はいい加減なことが多いので(これについては明日書く)、正直いって、極上とは思わない。けれども評判はよいし、面白い作品だと思う。充分に楽しめた。続編が公開されたら見に行くことはまちがいない。


40年前に起こった失踪事件を解いてゆく物語だが、その過程でスウェーデン社会の暗部が明るみに出されてゆく(スウェーデンの現在はいうまでもないが、過去にもナチスに共鳴した人間が多くいたことには、さもありなんというべきだとしても、やはり驚いた)。優れた直感と地道な調査によって真相に近づいてゆくのはミステリーの王道。問題は探偵役なのだが、ひとりは『ミレニアム』という雑誌の編集長で、大企業の経営者を告発したが、罠とわかり、裁判で負けて懲役を言い渡された中年男(離婚歴あり)と、子供の頃、母親を虐待する父親を殺した、その後、不良行為、犯罪行為に走ったらしく、日本風にいうと保護監察状態にあるが、探偵社で働き、有能なハッカーでもある、刺青、リング女。このどうみても接点のない2人が、どのようにして出会い、協力して事件を解決してゆくかががまさに映画の見所となるだろう。


彼女――名前はリスベット――は、単純な格闘・不良女ではない。後見人による保護監察下にあるというほど、複雑な過去をかかえているし、また、そのたくましい筋肉をみせつける肉体は、ある種の頼もしささえ感じてしまうのだが、しかし、彼女は、みかけほど、強くはない。最初のほうで、町のチンピラグループと激しい格闘を繰り広げて、腕っ節の強さをみせつけるのだが、その後、悪徳後見人の前では、弱みを握られているとはいえ、抵抗できなくなり、フェラからレイプまで、なすがままである。これでは普通の女以下の弱さだとあきれると、当然、その反動で、彼女は復讐をする。しかしスウェーデンの警察も馬鹿ではないだろうから、後見人に性的関係を迫られたといえば、なんとかしてくれそうなものだが、彼女の復讐行為は愚かで、ああいうかたちの復讐の方法(『イングロリアス・バスターズ』を思い出した)は、不合理だし、もちろん違法。見ている側も、そんなにすっきりしない。無用な暴力が行使されているとしか思えないのだが……。続編の予告編をみて、なるほどとわかった。この無用な暴力も、続編へのネタフリなのだ。続編では、後見人との関係が、ものすごく悪化して、彼女は再び窮地に陥るようなので。


事件そのものは、女性を性の道具としてしてしか扱わない、連続殺人鬼をあつかうことになるが(映画のタイトルも、そこからきている。つまり「女を嫌う男」というタイトルは、映画の犯罪の性質をずばりといいあてているメタファー的タイトルであるのに対して、「ミレニアム」とか「ドラゴン・タトゥーの女」というタイトル(どちらも国際的英語タイトル)は、作品の一部から印象的な部分をとったメトニミー的タイトル)、女性を嫌悪しレイプしては殺してゆく変態殺人鬼は、ある意味で、男性のミソジニー体質の極限形を示しているし、それはまた、彼女リスベットの父親もそうした屑男(「くずおとこ」あるいは「くずお」と読んで欲しい)であって、子供の頃から始まった彼女の戦いは、この女を憎む男を告発し社会的にも肉体的にも葬ることだった。そういう意味で、中年男と彼女とは、同じ敵を相手に戦ってきたことになる。


いっぽう中年男ミカエルトと彼女リスベットとの関係は、その対極にあって、深い信頼関係と相手への尊敬によって結びついている。彼は、彼女の身体能力と知的能力に驚嘆する。彼もすぐれた知力をもつのだが、彼女は、それ以上の洞察力をもち、さらには彼にはないコンピューター・ハッキング能力によって、彼のために、難問をつぎつぎと解決してくれ、またそれ以外の面でも援助してくれ、最後には命まで助けてくれる。彼女は、無愛想だが、彼には絶大な信頼を寄せてくれ、時に情にあついところもみせ、甘えてもくれる。彼女は、男性にとって、まさに理想的なパートナーといえる。そしてその女性ボディービルダーのような少年のような肉体。もう、惚れてまうやろー。


とびきり有能で、信頼のおける、頼もしい理想的な、またクィアな、女性パートナーというファンタジー(そんな人間は、男性であれ女性であれ、いないからファンタジーなのだ!)は、女性を人間扱いしない殺人鬼のミソジニックなファンタジーの裏返しというところもある。つまり、女性を蔑視する裏には、男性優位幻想にもとづく男性同盟的な面(この映画では、ナチスは、実際には同性愛者を迫害したにもかかわらず、同性愛的な男性同盟の基盤として表象されているようなのだが)があるとすれば、有能な女性、女性を超えた男性に近いクィアな女性へのリスペクトのなかにある異性愛を超えた同性愛的ファンタジーは、ミソジニックなファンタジーの対極でもあるし、またどこかで繋がっているともいえる。女性蔑視の旧来の同性愛と、女性との連帯を通して異性愛を超える同性愛は、同性愛という点で延長線上にあるかもしれないし、対極にある新たな同性愛のかたち、つまりクィアとしても考えることができるか、その実際の現れ方については、この映画を基盤にしてすすめることができる今後の課題であろう。


最後に、結局、この中年男は、たとえ事件を解決しても、判決どおり、6ヶ月後に収監される。気の毒に。監獄ではさぞやつらい思いをするのではと思ったのだが、いやスウェーデンの監獄、ショーシャンクの空の下とはわけがちがって、わからなかった――そこが監獄とは。まるでホテル。鉄格子はない。窓はなかったようだが、それしても独房というよりホテルの快適な一室のよう。そこでは、コンピュータをネットに接続することもできるし、本も読める。だったら、私のような人間は、仕事し放題ではないか。半年くらい収監してほしいものだ。スウェーデンだったら。そうすれば、かかえている仕事が全部片付く。そして面会は、各フロアのロビー。ガラスの扉を隔てて、話をするなんてことはなく、ほんとうにただのロビー。スウェーデン、すごい。


あとやっぱりドラゴン・タトゥーの彼女。映画の終わりのほうで、金髪美人に扮装するところがあるが、ブロンドの髪はまったく似あわないし、そもそも美人でもなくなってしまう。彼女には、女性的な魅力はない。だがクィアな魅力は、惚れて…惚れてまう…やろ。でも彼女、実生活では2児の母親なのだが。

*1:Män som hatar kvinnor(2009) たぶんMen Who Hate Womenという意味だと思う。