Love will tear us apart.

サリンジャーが死んだ日に、この映画をみるというのも、なにかの因縁かもしれない。一度見ておこうと考えていて、結局、見るのが本日まで、延び延びになった。それも偶然に。たまたま時間があいたからというのも、因縁めいている。『(500)日のサマー』(500) Days of Summer(2009)。私の目当ては、2人の俳優、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットJoseph Gordo-Levitt(1981-)とズーイ・デシャメルZooey Deshamel(1980-)を見ることだった。そう、彼女の名前ズーイZooeyは、今日始めて知ったのが、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』のゾーイ(つづりは同じZooey)にちなんで名づけられたのだった。


繰り返すと、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットとズーイ・デシャメルは私の好きな役者たちで、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットは、昨年映画館では『G.I.ジョー』と『セント・アンナの奇跡』で会っている。また日本では公開されなかったがDVD化された『ストップ・ロス』でも重要な役を演じていた。しかし彼は、なんといっても、日本でも公開されずDVDにもなっていないグレッグ・アラキ監督のMysterious Skin(2004)でのMale Prostituteの演技が最高で、このブログでも書いたが、いまも気持ちは変わっていない――あの映画の彼をみて、ほんとうに抱いて欲しいと思った(Mysterious Skinは日本ではDVDも出ていないが、その時のゴードン=レヴィットは、日本で公開されDVD化もされた『ルックアウト』(2007)で主役を演じていて、あんな感じといえばわかってもらえるだろうか)。


ジョゼフ・ゴードン=レヴィットとの出会いは、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を高校の学園物にアダプトした『恋のからさわぎ』Ten Things I Hate about Her(1998)で、この映画にはいまは亡きヒース・レジャーも出演していたことを思い出す(そのせいもあってかこの2月にはDVDが再版される。ヒースとジョゼフを見てね)。ヒース・レジャーと彼とは映画のなかではライヴァルではない。ヒース・レジャーがペトルーチオ役で、ゴードン=レヴィットは、いわゆるビアンカへの求婚者。原作でも映画でも彼のほうが主役なのだが、まだ十代の頃のゴードン=レヴィットは、線がほそすぎて、映画評でも、主役の彼がミスキャストであるとういような書かれた方をしていた(まあ、物語上ライヴァルではないにせよ、ヒース・レジャーが共演者だとすれば比べられてしまう)。


しかし、その後あるいはそれ以前のゴードン=レヴィットは、そうしたラブコメにふさわしい優男あるいは草食系男子ではなく、どちらかというと癖のある男、ときには異常者ともいえる役を演じていたので、今回の『サマー』は、『恋のからさわぎ』から十年後の、草食系でも男ぶりも増したジョゼフ・ゴードン=レヴィットのラブコメとして期待がたかまった。


いっぽうズーイ・デシャメルも、歳のわりに若くみえるキュートな女性でTVドラマシリーズ『ボーン』に主演している姉エミリー・デシャメルと似ていない(二人並べば似ているのかもしれないが)のもよい。オズの魔法使いアダプテーションである3回連続のTVミニシリーズTin Man(2007)(日本でもDVDが販売されていて、タイトルは『アウターゾーン』)では、20代後半の彼女が20歳の主役として出ているが違和感はない。彼女はラブコメに出演することが多いのだが、『銀河ヒッチハイクガイド』を除くと、映画館でみる彼女は『ジェシー・ジェイムズを殺した男』といい『ハプニング』といい、およそラブコメが似合う女優のする役どころではなかった。その意味で、また『イエスマン』を見ていない私としては、ラブコメにおいて、彼女とゴードン=レヴィットの共演をぜひともみたかった。


もちろん、それと同じく見たかったのは「鷹の爪団」「紙兎ロペ」で、これをみるためにも、映画が複数の映画館にかかっている場合、そこにTOHOシネマズの映画館も入っていれば、私は迷わずTOHOシネマズでみることにしている。日比谷のTOHOシネマズ・シャンテ。ここには先月『ヴィクトリア 世紀の恋』を見に行ったところだ。予告編が始まる前に鷹の爪団の総統と吉田君のアニメが、観客にマナー遵守をうったえる。これば馬鹿馬鹿しくて面白い。そしてさらにマナーとも予告編とも本編とも関係のない紙兎ロペのアニメがはじまるのだが、この脱力系のぬるいアニメがとても面白い。現在ネットでも初期の3編をみることができるが、最近のものは劇場でしかみられない。先月12月には闘牛の話が、ものすごく面白かったのだが、今回もゆるゆるな会話と行動が、めちゃくちゃ面白い。

え〜と、タイトルはなんだったかな。

まじっすか、先輩。それってやばくないですか。

やばいよな。最近年取ってさ、物覚えが悪くなった。

やばっすよね。超速攻で忘れてないすか。それに最近って。昔は年をとらなったんすか。

そういうことはないさ。ばかゆーなよ。まあ、なんかこう、記憶力の減退ってやつ。それって、俺的にはやばいよな。体力的には問題ないけどな。ははは。

で、タイトルは?

思い出せない。

まじっすか、まじっすか。

キリンが出てきた。首が長すぎて顔がみえない。これが高校の先生らしいんで、後輩をいじめるなって注意するんだが、これがめちゃおもしろい。

どこがおもしろんすか。

だからさ〜、後輩をいじめるなとか、君は視野がせまいって、先生が注意して、いわれたほうも神妙に聞いているがとてもおもしいよな。

そもそも、きりんが高校の先生っていうのが、おもしろというかへんじゃないですか〜。団長!

なに、君は吉田君か。

閑話休題


映画ではジョゼフ・ゴードン=レヴィットとズーイ・デシャメルの演技を堪能できた。ふたりとも、たんに見栄えがいいというだけではなくて、演技もすぐれていて、とりわけゴードン=レヴィットの演技というか演技の幅が圧巻で、その盛りだくさんな演技をみると、彼がこの映画でゴールデングローブ主演男優賞にノミネートされているのもうなづける。残念ながら1月17日発表のゴールデン・グローブ賞での受賞はなかったが。


そう、もりだくさん感というのが、ふたりの演技に支えられて、突出することなく、有効に機能する。とはいえ知識のないものにはなにもわからないのだが、プログラムでは主人公が着ているジョイ・ディヴィジョンのTシャツによってその性格もわかるというのが、わたしにわかるのはジョイ・ディヴィジョンどまりで、Tシャツまではわからない。コアなインディーズ系バンドの名前が出てきて、私にはわからない。ザ・スミスといわれても、なんのことかわからない(とはいえそれが主人公の好きなバンドの名前くらいは、誰にでもわかるので、問題はない)。


そう、私のように音楽にうとい者でも、映画はじゅうぶんに楽しめるから問題ないのだし、ジョイ・ディヴィジョンのTシャツを指摘する文章をプログラムに書いている者も、コアなサブカル文化に詳しくても、メジャーな映画文化にはまったくうとくて、映画のなかで言及され、実際にパロディ的に再現されるいくつかの映画について(落ち込んでいる主人公がひとり映画館で映画をみていると、彼は妄想世界で、映画の主人公にかわるのだ)、まったく沈黙している。そこにはベルイマンの映画のパスティーシュもあるというのに触れられていない――まあ、無知なのだ。パロディあるいはパスティーシュ的に引用され再現されている映画について、もとネタがわからなくても、十分に楽しめるとしても。プログラムに書くぐらいなら、そのくらいおさえていろといいたいが、


あ、それに、字幕。大学でイングリッシュを専攻しているというのだったら、英語専攻ではなく英文学専攻でしょう。ばか字幕作成者と、怒りモードがつづきそうなので、ここでやめる。


ともかく、アニメあり、ミュージカル的歌や踊り、ドキュメンタリー的インタヴューありと、意図的にジャンルの混淆を達成していて、それと俳優の、それもジョセフ・ゴードン=レヴィットの多彩な演技が共鳴して、楽しい映画になっていたはずだが、いや映画の出来が悪いということではなくて、物語が、けっこう苦く、たしかに冒頭で語られるように、ハッピーエンドのラブストーリーでもラブコメでもない。いや、映画の最後は、失恋した主人公に対しては、またいい女性と出会えるさとなぐさめるようなもので、なぐされめられ希望を吹き込まれたからといって、失恋物語であることにかわりないのだから、映画のストーリーが幸福の建築になっているわけではない。サマーという女性と別れたあとに、オータムという女性との出会いがあるという結末は、観客に「お気に召すまま」と言っているようなものである。


脚本家は、この物語で起っている70パーセントは、自分に起ったことだと語っているらしいが、そう聞くと珍しい個人的な経験と思われるかもしれないが、こういうことはつねにおこっていて、特殊個人的などころか、多くの(異性愛モデルでいえば)男性によって共有されている、ありきたりな経験でもある。


実は比較的最近、授業で、漱石三四郎は、熊本出身で、色が黒いのでオルノーコのようだと語られているが、これは17世紀後半のイギリスの女性作家アフラ・ベーンの書いた中編『オルノーコ』から来ていて(岩波文庫に定番商品ではないが翻訳あり、時折再版される)、いまでこそポストコロニアルフェミニズムが合体したようなこの小説は、授業でもよく扱われ、英米圏では卒論などでも好んで取り上げられる作品なのだが、明治時代に漱石の言及があるのは、ある意味で不思議で、当時、オセローといえばわかった人もいたかもしれないが、オルノーコといってわかる人が少数でもいたということは、けっこう驚きであるというようなことを話したばかりなので、『三四郎』を思い出したのだが、この映画でおこったことは、100パーセント、三四郎にも起っている。


相手の女性は、かわったところもあるのだが、なかなか魅力的で、最初は片想いだったのだが、女性のほうから積極的にアプローチしてくるようになって急速に親密さが深まり、もはや妄想でも片想いでない関係になって、女性との結婚すら夢に見るようになるのだが、しかし、その女性には婚約者がいて、結婚までしてしまい、ふられてしまうのである。しかし、この場合、男性のほうは、片想いがこうじて、たんに妄想をふくらませるだけではいし、彼はストーカーでもなんでもない。また一回キスしたからといって、あるいは一回セックスしたからといって、結婚を夢見る愚かな妄想家でもない。ここまできてふられるとは夢にも思わなかったので、ショックも大きい。


女性が、二股をかけていて、手玉にとっていたというのなら、ひどい話だが許せる。あるいは女性に、その気がないのに、男のほうが舞い上がってしまったというのなら、悲しい話だが、よくあることである。しかし、そうでなはないのだ。男は、たとえば入院して看護師の女性がやさしくしてくれたから、その看護師に恋をしてしまうというようなうぶな人間でも、勘違い人間でもない。あるいは女性は、婚約していても、明らかにその婚約に不満で、逃げ出したいと思っていたが、それができずに、婚約者と結婚せざるをえなかったという悲劇的なことでもない。女性は、明らかに男のことを愛していたが、同時に、すでにいた婚約者のほうも愛していた。ふたりの男性を対等に、分け隔てなく愛していたとすれば、ふられたほうの男性にとってみれば、誤解を生じさせる、そんな振る舞いだけはやめて欲しいということになる。


映画のなかで傷心の男性は、かつて、よくデートした場所にというか、ふたりでよく座ったベンチに行ってみる。するとそこに彼女も来ている。どうしてなのかと問う男性に対して、彼女は、婚約者との出会いが、運命の出会いであったというようなことを語るのだが、その言い訳には説得力がない。ただ、わかるのは、彼女が、結局、ふってしまうことになるその男性のことを心配して、様子をみにきて、励ましにきたということである――かつての恋人としてではなく、まるで優しい慈愛に満ちた、そう母親のように。


女性をめぐる神話のひとつは、女性のほうが男性と別れてもあとくされがないということと、もうひとつ、女性は複数の男性を対等に分け隔てなく愛せるという神話。神話だとしても後者のそれは、決して勘違いしたわけでもないのにふられて悲しむ、ときに怒り狂う男性をつぎつぎと生むことになる。もちろん男性側の視点からみればの話で、女性の側には、いろいろな理由はあり、そこに謎はないのかもしれず、女性は、スフィンクスではなく、ただの蛾かもしれないが(Sphinxの二つの意味をかけています)、事情がわからない男性にとっては、永遠の謎であり、この映画の先例はそれこそ、ごまんとなあって、『三四郎』は、その一例であることはまちがいないが、古典的な映画の例としては、たとえば『カサブランカ』がある。


しかし、ここでは映画のなかのゾーイ/ズーイ・デシャメルが、最後に母親のように登場してきたという私の個人的な印象から考えると、女の謎には、あるいは女性をめぐる男性側の神話には、エディプス的なものが深く関与しているといわざるをえない。ツルゲーネフの『初恋』という小説(中編だが)をご存知だろうか。貴族の家の若者というか少年が、近所に引っ越してきた貧乏貴族だが美しく女王様的な年上の女性に恋をする。その女性と仲よくなるのだが、しかしその女性がほんとうに愛していたのは、少年の父親だったということになる。これは少年にとってはつらい話で、彼にはどうあがいても動かせない、既存の恋愛関係のまえに身をひくしかないのだから。そして最終的に恋敵になるのが父親であるというのもエディプス関係を暗示する。


つまり2人の男性を対等に愛せる女性というのは、夫と息子を対等に愛せる母親でしかない。そしてあらゆる失恋物語――女性が自分だけを愛してくれると思っていたのに、その実、女性には別の男がいてふられてしまう男性の悲哀――の背後には、母親に失恋する息子の悲哀がある。息子にとって恋敵は父親であり、母親は、自分だけを愛してくれると思っていたのに、またその愛に嘘偽りはなかったのに、母親は別の男も対等に愛していたし、その男(つまり父親だが)のほうが、息子よりも先に母親と強い愛でむすばれていたということになるのだ。


女の謎というのは、最終的に母親の謎である。(つづく)