面接な日々1


本日、朝から出版社にゲラを届けてから大学のすぐ近くのコンビにで朝食兼昼食を購入してふと時計を見たら午前10時。やばい。10時からの面接というか口頭試問が始まる。あわてて自分の研究室に駆け込み、面接会場に走る。幸い、大きく迷惑をかけることもなく始まったがそれでも7分遅れとなったので、迷惑をかけている。


本日の口頭試問は、午前と午後をはさんで最終的に終ったのは午後6時過ぎにとなって、消耗した。本日分の面接について、とくに語ることはない。とにかく無事に終った。私は応援部隊の一員なので、専任である研究室の面接ではない。そのためまあ、オブザーヴァー的性格の強い役割なのだが、ただ黙って見ているわけではなく、質問あるいはコメントするよう求められるので、けっこうたいへんではある。分野は文学関係のあらゆるところにおよび、予習することができないので、知らない分野なり作家なり作品が話題になると、かなりあせることになるが、しかしそれでも受験者について観察はできるし、受験者の評価をめぐって意見がわかれることもなかった。


ちなみに同じ研究室の過去の口頭試問においては印象的なことがいくつかあった。一応、提出された論文(卒論のかわりに提出された参考論文だが)を読んでいて、そのなかで印象的なコメントがあった。ある小説の主人公の女性が、ある出来事をきっかけにして男になったというコメントされているのである。もちろん性転換の話ではないので、象徴的あるいはアレゴリカルな次元での話しだが。興味深いコメントだったので、意味内容を質問しようとしたら、思いは同じで、私よりも先に別の試験官が同じ質問をした。そして出てきた答えが――


小説中のこの事件をきっかけに、主人公の女性が思い悩み、ものを考えるようになったからだという。それが、どうして男性とむすびつくのかと質問されてさらに、なぜなら、女性はものを考えることはしない、その女性がものを考え始めるのだから、男性化したとうことだと述べたのである。あぜん。あなはた表象のレヴェルでも、現実のレヴェルでも女性はものを考えたり悩んだりしないと思うのかと、聞こうと思ったが、その受験者の顔をみて、やめた。まあ危ない感じがしたのである(このこと以外にもその論文には、危険なことが書いてあった)。


もしこの男をパスさせるような相談になれば、断固反対するつもりでいたが、試験成績、論文内容その他、客観的材料からも成績がかんばしくないということで不合格となった。


以前、私の授業でシェイクスピアの『ハムレット』を扱った際、ハムレットは女優が演ずることも多く、ハムレット=女性説、あるいはハムレットの女性性はけっこうむかしから論じられてきた。たしかオフィーリアの狂気は、ハムレットが女性であることを知ったことの驚きが原因であるというような冗談めいたことをジョイスの『ユリシーズ』に書いてあったような(ちがっているかもしれないので責任はもたないが)。実際、Hamlet as Womanというパフォーマンス研究系統の本がオックスフォード大学出版局から21世紀になって出版されているくらいだ。


しかしそのときある学生が、ハムレットが女性であることはありえない。なぜなら、女性はあんなに悩んだりしないからというバカ回をした。大学院生の回答なのだが(中学生の授業ではないのだ)。その院生は、文学部出身ではなかったので、まあ、私がねちねち皮肉を言って終ったの(あきれかえってものも言えないというのが正直なところだったが)。人間に二種類の人間つまり悩む人と悩まない人がいるとすれば、それは男女で分割されるのではない。悩むことのない男女もいれば、悩むことが多い男女もいる。それだけの話である。


同じような例として、最近、大学院生が修士論文あるいは博士論文のプレッシャーのためにカウンセリングを受ける例が急増し、一般の患者を圧迫しているというようなことが教授会で語られ、カウンセリングを受ける院生の男女比の統計結果が報告されたことがある。正確には覚えていないのだが、年度別の統計で、年次によって男性が多いことがあり、それをみていたある教授は、まあ当然だろうとうそぶいていた。なぜかと聞くと、当然だろう、男性の院生のほうが思い悩むということだったが、しかし、全体的にみると女性の院生のほうが数が多くて、その教授は驚いているようだった。まあもちろん院生の男女比にもよるので、簡単に男女差を云々はできないが、女性は悩まないという信じているバカ男が、口頭試問もパスして院生なり研究者なり教育者になっていることは、どうも否定できないようだ。