面接な日々3 圧迫面接


圧迫面接というのがあって、面接官が、被面接者をいろいろ質問攻めして追い詰める、まあ意図的に意地悪な質問をして、困った被面接者の反応をみて、その人物を判定しようという方法である。ひとつは、面接されるほうは、よほど図太い人間でないかぎり、誰もがあがってしまうから、単純な質問でも、たとえば名前を確認するだけでも圧迫面接ではある。しかし狭義の圧迫面接というか、圧迫面接の極限型が拷問だろう。拷問すれば本心が出る。拷問すれば隠していることを白状する。だから圧迫・拷問となれば、真の姿が開示されるというものだろう。しかし、同時に、拷問されれば、あることないこと、全部話してしまうので、そういう意味では、拷問のすえ出てきたものは真実どころか、大嘘かもしれないのである。だから圧迫面接というのは、あまり意味がないのではと思っている。圧迫面接信者は、自白を強要された冤罪事件を全く教訓としていない。


くりかえすが、そもそも圧迫されて出てくる答えは、口からでまかせということもある。嘘の自白ということもある。そして圧迫面接は拷問だから、拷問される側に劣らず、拷問する側も気持ちのいいものではない。拷問して喜ぶというのは、たとえ、それが意図的にいじわるな質問で、本心とか憎しみから出たものではないにしても、逆にそれゆえに、サディズムである。だから圧迫面接をする人間の気が知れないない。繰り返すが、面接の場では名前を確認するだけでも、圧迫になるかもしれないので、広い意味での圧迫面接は避けられないかもしれないのだが、狭い意味での圧迫面接は、私にとっては感じ悪いし、気味が悪い。一生後悔すると思う。まあ、憎んでいる相手になら圧迫面接=拷問もしてみたいが、そんな憎んでいる相手が面接などにくるはずはない。


また企業などでは、圧迫面接に耐えることができる強い人間を求めているのかもしれないが、それはそれで勝手だが、学問の場、あるいは教育の場で、圧迫面接は、アカハラあるいはパワハラ紙一重か、そのものである。


で、今回は圧迫面接があった。私はなにもしてないのだが、私が圧迫された。予想もしなかったことなのだが、なんで、私が圧迫されなくてはいけないのだ。


面接官とのやりとを私は、最初、聞いていた。もちろんやりとりについてはここで書くわけにはいかないが、どうしたのか、ときどき、関係のない私が話題にのることになった。面接の大筋というか評価にもかかわるような本筋の部分ではなく、どうでもよい脇の部分で、私のことが話題になってくる。べつに面接官が話題にしているのではない。非面接者が話題にしているのである。


で、それはほうっておけばいいのだが、まあ私が罠にはまってしまったようなものだが、「先ほど、私のことが話題になっていたようだけれども、いったいそれはどういうことですか」と、本筋とは異なる、雑談めいた部分で、私が話題にしてしまった。これが悔やまれるのだが。


たとえば、もちろんこれはニュアンスをつけた間接話法なので、実際に、その言葉どおりのことが話されたのではないのだが、要するに、おまえの書いていることは、なんだかよくわからない。だいたい、おまえが書いているようなものを、誰が読むのか。そもそも、おまえの書いているようなものは、誰も読まないし、読んでもわからない。ということだった。そこで、要する、私のどういう文章がわからないのだ、具体的に教えてほしい。そもそも、わたしはあちこちに書きまくっているような人間ではないから、私が書いたものを読まない人間は多いし、またそんなに読んでわからないようなものはないはずだがと、こうなったら面接とは関係のない完全に脱線の世界に入った。


雑談のなかで、こんな答えが返ってきた。たとえばこの本のなかに、おまえが書いた文章があったのだが、気付かなかった。そもそも誰も気づかない。気づいて読んでもわからない。そもそも誰もわからない。ということになった。私の文章について。


しかし、なんでこんなことになるのかよくわからなかったのだが、ふとこのとき私の頭によぎったのは、ナチスの将校が、尋問室で、ユダヤ人の学校の先生とか学者を座らせて、おまえが書いている文章なんか、わけがわからない。こんなもの誰が読んでもわからないし、そもそも誰も読まないものを書いてなにが面白いのだ。おまえがやっていることなんてかすだ、くずだ、まったく意味がないと、そう攻撃されたような気がした。ユダヤ人の気持ちがよくわかるような気がした。


これは間接話法なので、また、やりとりは丁寧で、終始、にこやかにすすんだので、まわりで聞いている人は、私とその非面接者との漫才のかけあいみたいの思ったみたいで、はては、そこまでいわれれば、私は、その非面接者から好かれているのではという印象をもった同僚もいたらしい。しかし、その被面接者の名誉のためにいっておけば、私は好かれていない。端的に非難されているのである。しかも面接者について話題にする場合、ふつうは、お世辞をいったりして印象をよくしようとする、ある意味、姑息な手段に訴えるわけだが、今回は、その逆であって、あえて印象を悪くするよう話題にずれこんでいるのだが、どちらにせよ、個人的な言及によって印象を良くしても無視、悪くしても無視するしかないので、この部分は評価とは関係なくなってしまう。


で、私は端的にいって傷ついた。ふつうなら、これはだめだと否定的な意見もいえるのだが、本筋とは関係のない部分の話なので、評価に影響しないのがくやしい。ただ、それにても、どうして、こういうことになったのか、面接が終ったあと、あれこれ考えてみて、その被面接者の卒論に思い立った。


その卒論はよく書けている。エズラ・パウンドの詩を扱ったものだが、指導教員の指導がゆきとどいているのと、本人の洞察力もすばらしくて、優秀な卒論である。それはまちがいなのだが、先ほど、ユダヤ人を尋問するナチスの将校というイメージをもったのも、パウンドからファシストという連想が生まれたからではなかったか。


問題は、その面接対象が、指導教員の優秀な指導学生であるだけでなく、パウンドの優秀な弟子でもあることだ。つまりファシストになりきっている。もちろん誤解のないようにいうが、その人物は自分のことをファシストとは夢にも思っていないだろうし、またファシズムを支持しているとか、ファシスト的言動が目立つということはまったくない。にもかかわらず、パウンドの詩を理解し、その詩論なり芸術観を丁寧に読み解くうちに、パウンドのファシスト的部分に無意識のうちに洗脳されてしまったところがある。そういう意味で優秀な学生であるがゆえに、パウンド的ファシズムに染まってしまったのだ。逆に優秀じゃなかったら染まったりはしない。


あともうひとつ、パウンドとファシズムとについていえば。パウンドが第二次世界大戦中、ムッソリーニ支援のラジオ放送をしたことで、戦後反逆罪に問われて、投獄された(のちに精神病院に入れられた)のだが、このことはまちがっているし、思想信条がなんであれ、その人物の行動を拘束するのはまちがっていると言っておきたい。またパウンドの研究者がみんなファシストだとは思っていないし、またパウンドを授業で扱ったり研究することはまったく問題ないことも、確認しておきたい。そしてそのうえで、その卒論で紹介されているかぎりのパウンドのイマジズムの考え方は、みかたによってはファシズム美学そのものであるといいたいのだ。


パウンドの芸術観は、ひとつにはプライマリー・カラー(原色)主義であろうか。外界の事物は混色でしかないが、それを打破する原色の力が世界を変革する。それはまた言葉でもなくイメージの生々しい喚起力を信頼することでもある。言葉は、事物を記述するなかで事物から離れ、抽象化し、その抽象化の極限において思想と化し、イメージとは完全に遊離したものとなる。思想、理論、哲学――すべてが生の力を抑圧し、生のプライマリー・カラーから遊離した醜い混色なのである。言葉を排除せよ。思想家をぶっとばせ。理論家など芸術家の敵だ、ユダヤ人だ、ユダヤ人のねずみだ、おかまだ、ということになる。


この卒論を書いた人間が、こんな悪辣かつ単純なことを考えているとは思わないが、ファシスト的思考にそまっていることは確かだ。しかし、だからといって本人がものすごく邪悪な人間ということではない。ファシズムは、かつて多くの人間から共感をえた。それは、ただの人殺しの思想ではないのであって、ちょうどホルクハイマーとアドルノが『啓蒙の弁証法』の反ユダヤ主義の章で述べたように、反ユダヤ主義は史上もっとも悪辣なイデオロギーにもかかわらず、ユートピア志向もみられるのであり(このあたりもうすこし丁寧に語るべきだが、とりあえずこんなことろでお茶を濁すと)、そこから考えるとファシズムにも人間の善意とユートピア志向に訴える部分はあるのであって、ファシズムに共感する人びとは、人間の悲惨への透徹したまなざしを有していてもおかしくない。その卒論執筆者が、理由はわからないが、ファシズム的なものに共感しても、本人が欠陥のある人間ということには全くならない。それどころか人一倍正義感が強かったり、傷つきやすかったり、慈愛に満ちていてもなんらおかしくはないのである。だからパウンドの考え方に染まったとしても、それがその人の人間性の大きさゆと深さゆえということもじゅうぶん可能性としてはあるのだ。


で、そんなことをいうのも、卒論ではヒュー・ケナーの論文がひかれていて、そこではエンプソンの科学的分析方法(と実際に、そういう表現がつかわれているのだが)で、パウンドの詩を科学的に分析するなんて愚の骨頂だし、エンプソンはバカだというようなことが書かれている。それにしてもエンプソンがパウンドの詩を分析したりしたのか?その論文執筆者に素朴な疑問をぶつけてみた。するとエンプソンがパウンドを分析しているのかどうか定かではないという。ならばなぜ引用したのか。


それはひとつには誰かをぼろくそにいっているケナーの文章が面白かったのだろう。しかしそうだとしてもなぜエンプソンか。それはエンプソンという人物が科学的・理論的知(ファシスト・イマジストにとっては抽象的言語の最たるもの)を代表しているからだろう。そしてエンプソンは日本にいるころからゲイであることはよく知られていたし、ケンブリッジでもよく知られていた。抽象的知をもてあそぶ理論派のゲイでユダヤ人(エンプソンはユダヤ系ではないと思うが)は、ヒュー・ケナーとパウンドの馬鹿ファシストコンビにとっては、格好の標的だったのだろう。


そう考えるとこの卒論の執筆者が、エンプソンの代替物として標的にしたのは、ほかでもない理論派で左翼でゲイでユダヤ人の豚でネズミの私だったということは、まさに、さもありなんということになる。この卒論執筆者は、まぎれもなくパウンドの弟子である。パウンドの敵であるユダヤ人で左翼でゲイでオカマに等しい存在としてうれしいことに私を選んだのである。その選択はまちがっていない。こうまで正確に標的を撃つというのは、珍しい。優秀すぎる学生だ。