面接な日々4 公開面接


前回、圧迫面接はよくないという話をした。実際それはそうで、もし圧迫面接を公開したらたいへんなことになるだろう。面接は公開にすべきかどうかはべつにして、公開してもいいようにはすべきだ。面接を公開しても問題のないようにすべきということである。


圧迫面接をしている大学や企業について、実態は知らないが、そういう圧迫面接という言葉がある以上、存在しているということであろう。やめるべきだと思う。前回も繰り返したが、圧迫すれば本心がみえるというのは、おかしい。相手を尋問、取り調べ、あるいは拷問しているのではないのだ。相手は犯罪者でもなければ憎むべき敵方のスパイでもない。警察の取り調べでも、行き過ぎると結局自白を強要することになり、冤罪事件を引き起こすことになり、取調べの可視化が言われている。こうした事態が圧迫面接をする者にはみえていない。


圧迫面接によって学問的厳正さなり高水準が保たれると本気で考えているとしたら、そいつらの頭が圧迫されているとしか思えない。たぶんもしいまもなお圧迫面接をしている大学があれば、それは受験生が多かった時代の伝統を引き継いでいるのではないだろうか。圧迫して、とにかく落とすのである。圧迫面接は、高級ホテルのドア・ボーイと同じで、歓迎するのではなく追い払うのに適している。心を鬼にしてお引き取り願うということだろう。しかし、いまやそういう時代は終わった。むしろ数少ない受験生を複数の大学で取り合う時代になったら、追い返すなんてのはもってのほかという時代に入りつつある。というかもう入っているか。それはともかく、合格するにせよ、不合格になるにせよ、気持ちよく面接をうけてもらうことがたいせつで、落ちても、いやな思い出が残らないようにするのが理想だろう。実際には合格しても、面接を嫌な思い出としてもっている人は多いのだから、気持ちよく落ちるなり合格してもらうのがいいだろう。圧迫面接の場合、合格、不合格にかかわらず、嫌な思い出しか残らない。


博士論文の公開審査というのがあって、それも、博士論文作成者が、面接者たちから、まるで犯罪者のように扱われている公開審査があったということを聞いたことがある。幸い私はそうした犯罪者扱いする公開口頭試問を目撃したことはないのだが、それにしても犯罪者扱いはおかしい。博士論文の公開審査は、論文内容を広く知らしめ、その価値を、いろいろな角度から検証し開示するのが目的であるべきで、審査者が根ほり葉ほり、ときには圧迫面接まがいに食い下がってもしょうがないと思う。そして重要なことは、病人がカウンセリングを受けているのではないのだから、博士論文審査は公開して問題ないのである。むしろこれからは、修士論文あるいは博士論文審査は公開していいのである。卒論審査も公開(すくなくとも同じ専門学生に対して)公開している研究室も多い。私は卒論、修士論文、博士論文審査について、すべて公開することを提案するつもりである。


博士論文の公開審査というか面接は、口頭試問というものが、カウンセリングでもなければ医師との患者との面談でもなく、また警察官の取調べでもないから問題ないのである。カウンセリングなら秘密を守るべきである。取り調べもまた、基本的には公開しないほうがいいだろう(問題があったときはべつだが)。しかし面接試験は、公開されてもいいようにすべきである。実際には、落とされた人間が公開に反対するであろうから、実現はできないとしても。そしてまた面接を受けた側にしても、あまりに失礼な質問、あるいは意地悪な質問であれば、その内容を公開して告発してもいいように思っている。


結論:卒業論文修士論文、博士論文審査というか面接は、全面公開か部分的公開(同じ専門の学生や院生に公開する)というのを原則としていいのではないだろうか。また合格・不合格が出る、修士課程とか博士課程の口頭試問は、さすがに不合格者にとっては、きつい話なので、それはできないかもしれないが、合格者の場合、その内容を公開できるような録音、録画があり、要望があれば公開する、あるいは閲覧させてもいいのではないかと思う。