面接な日々6 On difficulty


私の書く文章が難解だと被面接者に面接者でる私が逆に批判されたということを前に書いたのだが、実は、そうした非難は私の文章が空理空論をふりかざし具体性と生の経験から遊離している抽象論であるという非難なのだが、ここでの文章をみてもらえばわかるように、あいまいにぼかしているところはあるものの、生々しい悪口を書き連ねているこのばかブログの文章をみて書き方と内容ともに抽象論とはいえないだろう。つまり私の文章が抽象論だというのは、それこそが抽象論である。そもそも抽象論を非難する者にかぎって抽象的であり、また実態をみていない。そもそも前回の話では、たぶんパウンドを批評も分析もしていないエンプソンが、にもかかわらず、ケナーというべつの右翼批評家から非難されているということ自体、根も葉もない抽象的な言いがかりではないか。まあユダヤ人差別主義者・人種差別主義者であるパウンドに端を発した言いがかりと考えれば、実にわかりやすい。


また私は専門的論文をつぎつぎと発表しているわけではないし、また時々発表する専門的論文もわかりやすいといわれ、逆に議論が単純すぎたのかと頭をかかえることのほうが多いから、完全に言いがかりである。だから抽象的だと私を非難することのほうが、よほど、また二重、三重に抽象的であり、現実から遊離しているのだが、それが差別主義者には理解できない。わからないままどんどん抽象度がエスカレートする。ユダヤ人が世界を破滅させようとしているというパラノイアはそうした抽象論の最たるものだろう。アラブ人がみんなテロリストだというのもそうである。そしてさらにいえば、生々しいとか具体的というのも実は抽象論なのだが、こんなことを書くと、さらに抽象論に陥ってしまいそうで、やめるが。


とはいえ冤罪だともいえないところが私にもあって、べつに意図的ではないものの、難解な文章を書いていたこともあるし、書くこともある。さらにいうと大学教員で、この歳になれば、誰でも、自分の書いたもののひとつやふたつは、入試問題に採用されている。あるいは入門書を書いている大学教員ならといいなおすべきなのだが、私の文章も大学の入試問題の題材にされたし、それは過去問題集にも入り、また予備校などの教材にも使われている。


で、その問題をみたことがあるが、問題文も設問もむつかしい。設問の答えはなるほどと思う答えだったが、解答するのは時間がかかるだろう。また問題文のほうも、これは自分で書いた文章とはいえ、論理が七転八倒していて、いやあ、むつかしいわい。


ある問題集にも入っていて、そこでは難問の部類に入っていた。5段階評価で、5が難易度の頂点とすると、私の問題は、3か4で、かなりむつかしいほうに入る。受験生はみんな、苦労しているだろうなと思う。問題作成する側からみると、私の文章からの設問はすばらしいと思う。こういうへんな、そして論理がすぐにはみえてこない文章をみつけてくるのは偉いと思った。そしてそのぶん受験生の苦労は増す。だから本気で申しわけないと思っている。これは決して自慢話ではない。


どうせなら簡単明快な文章で、設問もやさしく、受験生の一定の満足感なり達成感を与えて、次のステップへと橋渡しするような、そんな問題の題材となっていたらよかったのにと悔やまれる。この問題と問題文の主は、受験生にとっては印象が悪すぎるだろう。この難問で討ち死にする者は多いと思う。討ち死にした者たちの怨念がうずまいていると思う。


私の文章が、高校の国語の副読本のようなものの収録されたとき、顔写真の掲載をことわった(ことわったのは私だけのようで、かえって目立ってしまったが)のは、なにも町のビデオショップで、AVDVDを借りるとき顔が知れていたらまずいとか、いつもデパ地下の魚屋で買い物をするのを見られるのが恥ずかしというようなことではなく、難解な文章を書いたことの恨みを受験生からかっていると思うからだ。もしその問題に挫折した受験生が、私のことを町でみかけたら、たとえその彼もしくは彼女が、先に話題にした被面接者のような無意識のファシストではなくても、私を刺すか蹴飛ばそうと思うにちがいない。恨みをかっているだろうな。あんなむつかしい、めんどうくさい文章を書いていて。まあ私は受験生にとって感じの悪い人間にちがいない。