面接な日々7 原色はいつも二次色


パウンドの話に戻ろう。話題にした学生の卒論はよくできている卒論なのだが、同時に、たとえばフェミニズムの成果については、意図的に無視した(嫌いだからというような理由で)とは思われず、基本的に情報がないためフェミニズムの洞察を利用できなかったせいだと思われるのだが、たとえばそのなかでパウンドが、創造行為を男性的行為ととらえていることが紹介されている。


とはいえそのパウンドの説は、恥ずかしくなるほど紋切り型で、要するに男性を種まく人、女性を種を受け止め育む土と考えている。しかしこれは実際の性行為とはかけはなれているし、またあまり攻撃性もないので、ファシストにふさわしく、そこからさらに、女性をお城、そして男性の精子を城攻めの包囲軍という比喩もつかっている。これだと肉体の生理的メカニズムにもとづく比喩なので、プライマリカラー的な比喩でもある。男性アクティヴ、女性パッシヴという関係はしっかりと維持されるし、いいことづくめである。


しかしプライマリーカラーは、いつも混色である。そこに解釈が入らないと、プライマリーカラーのプライマリーカラー性はない。包囲軍とお城というのも、性行為から受精にいたる肉体的プロセスに関する解釈であることは(まあ紋切り型のそれでもあるのだが)パウンドは認めるだろうが、ただ、解釈による変形がミニマムということも強調するだろう。


いや決してミニマムではない。つまりほかの解釈だってできるのだから。たとえば人間の性行為をお城と包囲軍にたとえてもいいのだが、しかし、男性の何億(何億どころではないかもしれないが)の精子は、膣の中に入ったら、酸でほとんどが死滅する。たまたま死ななかった最強の精子が受精すればいいのだが、しかし競争相手が億を超えると、競争とはいえなくて、生き残った精子は最強かもしれないが、同時に、よほどの変わり者もしくは幸運な者かもしれない。そして首尾よく、最後の精子が受精したとしても、そこにいたるまでの累々たる精子の屍をみれば、逆転ホームラン的勝利どころか、苦い勝利、あるいは酸っぱい勝利ではないだろうか。


また、受精すればいい。しかしほとんどの場合、受精しないとなると、これは完全な負け戦、全滅状態である。この膨大な数の包囲軍は、毎回、全滅を繰り返してるのである。もし包囲戦争・城攻めの比喩で語るなら、これは日露戦争での多くの犠牲をともなった203高地の戦闘の比ではない。男性は司令官として部下を全滅させているのである。何度腹を切っても責任をとれない負け戦を続けているのである。そして勝っても酸っぱい勝利。


で、これをパウンド的という必要もない紋切り型の≪包囲軍男性、その包囲軍のまえに開城降伏する女性≫という比喩と、この≪負け戦の包囲戦≫というイメージのどちらが正しいかとか実情に即しているかということではない。一義的に解釈できるプライマリカラーなど存在しないこと。どんな原色も、複合色、混色、二次色として存在するしかないこと。すべて解釈に染まっていること。そして解釈という二次的なものが、みずからの都合のよいように原色あるいは原色の近似値を決定するのである。