戦争中毒 ハートロッカー1

本日、仕事のあと映画館に座ったら、『ハート・ロッカー』の予告編に出会い驚いた。え、上映するのか。しかもこの映画館でも3月6日から。2009年にはいろいろな賞を受賞し、アカデミー賞にもノミネートされているのだから、いつか日本でも上映すると思っていたが、情報にうとかった。3月6日から上映か。でも2008年(正確には2007年完成)の映画である。もうすでにキャスリン・ビグローの久しぶりの新作だし、すでにアメリカではDVD化されている(日本のアマゾンでもいま、輸入盤を販売している)。私は、アメリカからDVDを購入してすでにみた。


DVDで小さな画面でみるのと違い、映画館の大スクリーンで予告篇を見ただけでも同じ映画かと思えるくらいに映像の強度が異なっている。たぶん映画館でもまたみるだろう。そして急いでネット上の公式ページを探した。『ハート・ロッカー』Hurt Lockerの意味を知るためである。普通の英和辞典には載っていないフレーズで、公式ページにも(見落としているかもしれないが)、その意味の説明はない。ネット上にはいろいろな説明がされているが、どれが確実なものか判定できないでいる。アメリカの軍隊の俗語で「ひどい場所」を意味するという説明もあるのだが、さらなる具体例がないので、多義的な用法のひとつだとしても、後付けの意味かそうでないか私には判定できない。


とりあえず最初の感想:ちなみに私はキャスリン・ビグローの映画は、ほとんどすべて見ているので(はっきりいってファン)、女性監督なのに男っぽい映画をつくっていて驚くというようなコメントがネット上でもあちこちで書かれているのだが、そんなことには驚きはしない。むしろ相変わらず男くさい映画をつくるものだと思っただけでそこに驚きはしない。実は長編前作『K17』の延長線上にもある映画で、前作では潜水艦ということもあるが、女性は台詞のない人物としては登場するだけである。今回は、主人公の妻が出てくるし、その妻には台詞もあって、あれっと思ったが、すぐに消えて、また戦場にもどった。


アメリカ側からの視点で描かれているので、テロ・爆弾攻撃は、ただただ不条理で残酷な攻撃としてしか描かれていない。イラクの住民も(ヨルダンでロケをしたようだが)不気味な存在としてしか登場しない。アメリカの戦争擁護派にも文句が出ないようなアメリカ側の存在根拠を疑わせることのない視点であって、被占領者の内側には入らないがゆえに、植民者的オリエンタリズム的視点で貫かれていて、被植民者の側の視点を観客に共有させアメリカの保守派を怒らせたらしい元夫のジェイムズ・キャメロンの『アバター』の対極にある。


また同じことになるが姿なきテロリストたちは、良心のかけらも、人間的感情もひとかけらもないような悪魔としてしか描かれていない。これは20世紀のいつ頃かはわからないが、アクション映画のなかで凶悪化の一途をたどる犯人像と重なる。戦争映画では宇宙人と戦うという設定ではないかぎり、戦争の相手つまり敵は、人間なのだが、アクション系犯罪映画では敵は人間的感情のない冷酷な殺人鬼でしかなくなる。それは、たまたまこの映画の予告編をみた映画館でみていた『ラブリー・ボーン』にもいえる。犯罪者の側に反省の余地もなければ、逮捕される恐怖以外のいかなる恐怖も存在していない。したがってこの戦争映画は通常のアクション映画と同じ問題圏にある。


戦争映画として見た場合、唯一の欠点は戦闘シーンがあることである。ひとつには戦闘シーンの中身。爆弾処理班が、戦闘に加わることはないだろう。むしろ特殊技能をもった彼らを軍は限りなく戦闘から遠ざけて温存するはずで、よほどの偶然が重ならなければ、戦闘に巻き込まれることはない。また市内での爆弾テロとはべつに砂漠であんな銃撃戦が行われたという記録はあるのだろうか。この映画をみてイラク戦争の実態がよくわかったというコメントが、公式サイトのなかで紹介されているが、いくら手持ちカメラでドキュメンタリー風に撮影されているとはいえ、実態からはかけはなれているだろう。細部を見てもいい。脱着式の弾倉についた血糊で、狙撃銃がジャムを起こしたということになっていて、血糊を唾をつけて大急ぎでふき取るという緊迫感にみちた場面があって、そのリアルさを評価するコメントもあるが、嘘だろう。あんなでかくてごつい銃弾を発射する狙撃銃が血糊ごときで動かなくなるはずはない。血糊のついた銃弾を装填して発射できるはずで、発射時の燃焼で血糊も燃えてなくなるはずである。一番リアルに見える場面がもっともアンリアルという皮肉。さらにいうと、これは知らなかったのだが、同じ場面でエルドリッジが遠くの線路に家畜の群れにまぎれて潜む狙撃手を、もっているM4自動小銃のスコープで確認して銃撃するシーンがあるが、あのスコープはドットサイトといって赤い点を対象に照射して銃撃する装置でサイトは無倍であるはず。つまり狙撃兵の通常の照準器とはちがい望遠機能はない。


しかし爆弾処理という、戦闘の一ヴァージョンを描くこの戦争映画のなかで、戦闘シーンそのものが最終的に余分になるのではないか。戦争のイメージは変わりつつある。過去の戦争についても捉えなおしが必要になっている。最近の戦争映画を考えてもいい。『イングロリアス・バスターズ』も、あるいは『カティン』も、殺戮シーンはあっても、戦闘シーンはない。ここには、第二次大戦から以後、戦争が占領戦にシフトしたという認識が色濃く反映しているからだ。この現実がみえてきたのは、最近のことで、アフガニスタン、あるいはイラク占領によって逆に戦争の実態がみえてきた。戦争とは戦闘よりも占領下での現実のほうがはるかに残酷で不条理である。これまでの戦争映画は、戦争とは戦闘であるという誤った知見を植え付けてきたため、このことがわからなかった。第一次世界大戦帝国主義戦争だったとすれば、第二次世界大戦は植民地戦争であり占領戦であって、この認識はいやましに高まるばかりである。これまでの戦争映画は、戦闘という戦争の一局面を描いているだけで、戦争それも第二次世界大戦以後の戦争の圧倒的現実である占領を描いてこなかった。『史上最大の作戦』は戦闘映画であり、『海の沈黙』は真の戦争映画である。映画はいまこうした認識へとシフトしている。『イングロリアス・バスターズ』で戦闘シーンは、プロパガンダ映画のなかの一場面に追いやられているではないか。


ハート・ロッカー』でも描かれるのは戦闘が終わって占領へとシフトしたイラクの、爆弾テロに悩まされる現実である。爆弾処理というのは、占領下での、戦闘という点で、きわめて興味深い題材だが、通常の戦闘シーンもつくることで、占領戦の強度をそいでいるところがある。


この最初の感想は、もう少しつづける。つづく。