戦争中毒 ハートロッカー 2

 
『ハートロッカー』から少し離れ、最後に戻るのだが−−


今回のアカデミー騒動というか、キャスリン・ビグローとジェイムズ・キャメロンという元夫婦の監督の作品が受賞を争いを繰り広げていて、すでにイギリスでは『ハートロッカー』が最優秀作品賞に輝いたというようなことから、これを機に、キャスリン・ビグローの作品が見直され、DVDなどでも、簡単に手に入るようになるといいと思う。とはいえビグロー監督の作品はテレビでは何度も放映されていて、見たことがある人は意外に多いとは思う歴代代大統領のお面というか被りもので銀行強盗を働くギャングと潜入捜査官の映画は見たことがあるのでは?(『ハーと・ブルー』原題Point Break)。あるいは女性警官とそれにつきまとうストーカー的な男の映画(『ブルースティール』)など。ただ、これを機にテレビでの放映もふえるといいと思う。


『ハート・ロッカー』を考える上で、参考になるのは前作『K19』であろう。これはすごい映画なのだが、内容に関する情報からは、多くの人が見たいと思うような映画ではない。ソ連原子力潜水艦が、事故を起こして沈みそうになる話である。時代は冷戦期。出演者は全員英米の俳優で、男優のみ。しかも全員ロシア語ではなく英語を話す。どの要素をとっても、多くの人を映画館に運ばせる、あるいはDVDを見る時間を割かせるような映画ではない。しかし、たとえば、私はロシアの潜水艦についての知識は皆無だが、出てくる潜水艦というか舞台となる潜水艦は、第二次世界大戦の生き残りのような潜水艦で、いくら過去の冷戦期初期の話とはいえ、とても北極海から戦略核ミサイルを発射できるような潜水艦にみえないので、いっそのことCGを使うか、さもなければもっともっとらしい潜水艦(つまり現在のロシア海軍の潜水艦に似た潜水艦)をはりぼてでいいから作ったらどうかと思ったのはたしかだ。潜水艦のかっこうがちょっとへんなのだ。


しかしあとで知ったのだが、たしかに金をかけたハリウッド映画である。もっとらしい潜水艦をつくることなどピース・オヴ・ケイク――あえてそうしなかったというのはリアリズムの追求であった。つまり、私には貧弱な旧式の潜水艦としか思えなかったその潜水艦は、事故を起こした潜水艦と同型艦である。映画では、まさに同型艦を使って撮影したのであり、さらにいえば潜水艦内部も、セットではなく、実際のその同型艦の内部を使っている(内部に撮影用の機材をセットしたことを除けばまったく実物どおり)。完全に実物主義なのだ。実際、副長役のニーアム・リーソンは背が高いので撮影中何度も天井に頭をぶつけたとういことだった。このことを後で知ると、慄然とする。こんな第二次世界大戦の生き残りのような潜水艦に、原子炉を積み、北極海にもぐって、氷原に浮上し、ミサイルを試射するとは。安全性は限りなく低い。大戦争の引き金になるような事故を起こさなかったのが不思議なくらいである。


映画は、最新鋭だが、旧式の潜水艦を酷使したため原子炉が事故を起こす。そこで原子炉を修理して沈まないようにするのだが、困難をきわめる修理のなか乗組員が次々と被爆していゆく。なんとか沈まないように手を打つのだが、そこからがたいへんで、冷戦期のパワーバランスのなか、近くで監視しているアメリカの軍艦に助けを求めることも、また近くの港に入ることもできないまま、放射能が充満しはじめる艦内でひたすら、味方の救援艦が到着するの待つ。この地獄のような状況に耐え抜いて、国際問題あるいは戦争に発展しないようなかたちで内部処理をした艦長以下乗組員の命がけの努力というのが、実話にもとづいたこの映画の主題だった。


放射能漏れを起こしている原子炉は人間が修理しなければないなくなる。そこで乗組員が修理作業をするのだが、放射のから身を守る防護服はない。そこで艦長は、ビニールのレインコートを放射能除けの防御服と偽って着せ、時間を区切った作業に赴かせる。ビニールのレインコートという役にたたないものを身にまとって一度作業したら致死的な放射能を浴びるので、作業させるのは死の宣告に等しい。短時間(数分)の作業でも交代のためにエンジンルームから出てくる乗組員は、全身に被爆し、嘔吐して倒れ込む。それでも短時間の作業では修理が終るはずもなく、つぎつぎと乗組員を投入せねばならず、原子機関の班長までも作業に入り、全員、致死的な被爆をする。放射能漏れを起こした原子炉のあるエンジンルームは青い光につつまれ(これは実際に青くなるらしい)、そこに宗教的な音楽がかかり、そのなかで死の作業を続ける乗組員という悲惨と栄光(犠牲的行為)。この戦慄的映像は、それだけで映画史に記憶されていい強度を誇っている。


映画は、この事故から何十年を経たあと、かつての乗組員と艦長とが、再会し、この事故で犠牲となった乗組員たちの死を悼み、また生き残った者たちが互いの勇気を称えあうというところで終るのだが、それはまさに戦争に行って帰ってきた者たちが、苦しかった過去を振り返り、共通の記憶による共同体をあらためて形成するような、帰還兵の身振りそのものである。ちょうどシェイクスピアの『ヘンリー五世』のなかで、アジンコートの戦いの前に兵士たちのまえでヘンリー五世がする演説(第二次大戦のヨーロッパでの戦いの末期を扱ったテレビ映画シリーズ『バンド・オブ・ブラザーズ』のタイトルは、この演説から取られた)で述べられているように、戦いが終わり、何十年後、ふたたび邂逅し、酒をのみながら、苦しかった戦いの昔話をしながら、この戦いに加わらず、本国でぬくぬくと暮らしていた者たちにうらやましい思いをさせてやろう、「自分たちは幸福な少数者We happy few」なのだ、「兄弟仲間Band of Brothers」なのだというあの演説、そこに横溢するエートスを、この映画『K19』もまた共有していた。


つまり戦争の悲惨とともに栄光を描く映画なのだが、それが戦争賛歌=参加にならないのは、冷戦期、戦争を起こさないために、必死に行動した、あるいは命を捨てることもいとわなかったということで、平和のための自己犠牲となっているからである。しかし、それが実際の戦闘であり、比喩的な戦闘であれ、戦闘であることにかわりはなく、たとえば原子炉を修理するという危険極まりない作業は、まさに死地に赴く危険な任務で命を落とすこととかわりはない。たとえばといってここで思い出すのは、爆薬筒(バンガロール爆薬筒)を使った鉄条網の爆破処理である。Wikipediaによれば「バンガロール爆薬筒」とは「1-2m程度の細長い筒状の爆薬筒で、これを連結することで長く伸ばして使用される。敵の砲火に曝されるために容易に近づけない障害物を、爆薬による強力な爆発力によって破砕・無力化して味方兵力の進行路を啓開するために使用される」とあるが、爆薬筒を連結するために、つぎつぎと犠牲になる兵士の姿は、たとえば同じWikipediaの最後に「映画『史上最大の作戦』や『プライベート・ライアン』、『最前線物語』などのフィクション作品にも、バンガロールシーンが登場する」とあるように、けっこう記憶されている。ちなにみこれら三作品の映画のなかでの爆薬筒のシーンは、私の記憶がまちがっていなければ、どれもノルマンディー上陸作戦のときのものであって、味方の勝利のために犠牲になる兵士たちの映像は、ノルマンディー上陸の爆薬筒とともに常套的表現となっているふしがある。また日本でも爆弾筒は「肉弾/爆弾三勇士」のエピソードによって自己犠牲精神と連結していた。ただし爆弾筒にこだわる必要はない。不可能な任務と犠牲者の屍の上に勝利をおさめる/敗北するという物語は、ともに悲惨と栄光をたずさえつつ、戦争物語あるいは戦争映画の典型的表象ともなっている。たとえそれが戦争抑止の努力のなかでの自己犠牲を描くものであっても、この映画が戦争映画的であることにちがいはない。


戦争を抑止するための戦争映画としての『K19』は、勝利した場合はノルマンディー上陸作戦や二○三高地の戦い、また敗北した場合はクリミア戦争軽騎兵旅団の突撃(映画『遥かなる戦場』)あるいは第一次世界大戦ガリポリの戦い(映画『誓い』)など、枚挙にいとまもないが(というかもっとリストを充実させるべきかもしれないが)、しかし、いずれにせよ戦争映画の典型的なエートスを集約した感がある。それは一昔の前の戦争と戦争映画を、舞台設定をかえてアダプテーションしたともいえ、戦争を抑止する行為を描く映画が、戦争映画の典型的なエートスを喚起するのである。


そしてこの映画、常套手段とはいえ、全員、台詞は英語であって、ソ連の軍人を描きながら言葉は英語ということで、冷戦時代には敵側であったソ連軍人の行動が、敵を内部から描くというよりも、敵をアメリカ化することで、外部の敵は、ずっと不気味な敵でありつづけるのだが、自己犠牲をいとわぬ、ある意味、良心的かつ正義の側に属するソ連軍人がアメリカ人化されるといえるだろう。この映画は、ソ連軍人もこんなに苦労したのだというよりも、むしろこんなに苦労したソ連軍人は、もうアメリカ人だいわんとしているようだ。同じ潜水艦映画で、『レッド・オクトーバーを追え』は、最初、誰もがロシア語を話しているが、いつのまにか全員英語でしゃべっている。これはもちろん観客のために吹き替え操作と同じことをおこなったともいえるのだが、そこには、ソ連を裏切り、アメリカに亡命しようとする軍人たちは、それだけでもう有徳で正義の士であるアメリカ人化している、なにしろ英語を話すのだからという潜在せるロジックがかいまみえるのである。


こうみているくると『ハート・ロッカー』もまた、爆弾処理をするということで、テロなりテロの犠牲者をすこしでもすくなくするような、平和の戦いに従事している兵士たちの映画だということになる。爆弾処理という危険きわまりない作業は、敵と戦闘行為ではないとしても、それに劣らず、あるいはそれ以上に、戦闘そのものなのである。


だが『K19』と『ハートロッカー』の決定的な違いというのがある。それはソ連軍人とアメリカ軍人の違いではなく、戦闘行為の質の違いであった。つまり『K19』における「戦闘」は密室におけるそれであった。深海、潜水艦の、それも隔離された一区画、その一区画の故障した原子炉――密室の、密室の、さらに密室。たんに空間の問題だけではない。原子力潜水艦の事故は、絶対に知られてはならいない、秘密中の秘密であった。これに対し、ただのインコートを防護服と思い込んで原子炉の修理に行く乗組員たちにとって逃れることのできない死の危機は、『ハートロッカー』においても反復されているとはいえ、役に立たない防御服(ただのレインコート)は姿を消し、宇宙服のような防御服が登場するのだが、ふたつの映画の決定的な違いというのは、『ハートロッカー』には、観客がいることだ。爆弾処理班の活動は、白日のもとにさらされている。誰もがその活動を見守っている。秘密でもなんでもない。秘密がないどころか、これは劇場型のパフォーマンスそのものなのである。だから爆弾処理のスリルは快感となる。それは死を前にしてアドレナリンが放出され意識がハイになるからではなく、あるいはそれもふくまれるかもしれないが、なんといっても、爆弾処理は、観客が見守るパフォーマンスであるから。この点は、何度強調しても強調したりないだろう。(つづく)