アル中な日々2 酒を飲んでアホになる

筒井康隆著『アホの壁』(新潮新書)を読んでいたら、アホについての概念がよくわからない。述べられている実例を検討するしかないのだが、最初に出てくるのが、あらたまった場所でスピーチを求められた人間が、空気を読まないということではないのだが、自分では面白いと思いつつも、他人にとっては面白くもなんともない話を、得々としてしゃべってしまう例。パーティの席上で、そうした話に耳を傾けている周囲の者たちは、「アホや、アホや」と思うと書いてある。


まあ、もしこれが「アホ」の定義を構成する実例なら、このブログを書いている私などは、自分では面白いと思っていても、あるいは時折、自分では面白いと思いつつ自伝的なことを書くのだが、それって他人には面白くもなんともないはずで、それなら私もアホである。しかし、これは記事で、日記ではないのだが、ブログで日記を書いている人は、みんな自分も他人も面白いと思って書いているのだが、実は、面白がっているのは自分だけということもあり、私もふくめみんな「アホの壁」を乗り越えられないでいる。アホばっかりじゃい。


しかしそれはともかく、『アホの壁』という本での最初の実例が、なぜ宴会とかパーティでの座がしらける発言なのだろうか。さらにべつの例は、大企業の慰労会の席上で、下請け会社の社長が、スピーチで、まちがってその大企業のライヴァル企業の名前を連呼してしまったという過ちがあり、その間違いを詫びたその下請けの社長が、気を取り直して、再度スピーチをしたら、またしても間違ってライヴァル企業の名前を連呼してしまい、最後には会場から連れ出されたという、コントめいた話が出てくる。ここでも宴会である。そしてこの場合、宴会はだいなしになる。


山田洋次監督の『おとうと』を見たら、「おとうと」の笑福亭鶴瓶が姉の娘の結婚式の席で酒を飲んで暴走して、式をだいなしにするという場面が出てきた。酒を飲むと暴走するという過去がある「おとうと」(鶴瓶)は、酒をひかえていたのだが、結婚式でついつい飲んでしまい暴走する。その前は、「酒を飲むとアホになるから」といって酒を断っていたのに。


そう、そういう台詞がたしかにあった(関西特有の言い回しであるような気もするが……)。「アホ」とは「酒を飲んだりして前後不覚になったりして暴走すること」を指す言葉でもあるのだ。しかもそのような場は、往々にして、あらたまった宴会の場であるらしい。映画のその場面をみながら、私はひとりで冷や汗流してした。しかしそのことを語る前に、アホの定義をもう一度確認したい。


アホとは、生得的な属性を言う場合もあるのだろうが、どちらかというと、突発的に生ずるもの、制御不可能な暴走、事件、出来事であって、つねに進行形の存在なのである。どういうことかといえば、英語ではbe動詞+形容詞のほかに、be動詞+being+形容詞という変なかたちがあって、こんな区別をする

You are kind. 
     親切であるという属性あるいは存在。
You are being kind.
     いま現在、親切なことを、たとえばお年寄りの手伝いをしている
     という行為を示す。

つまりアホとは「be アホ」ではなくて、「being アホ」であるということだ。ある意味、これは当然であって、仮に生得的にアホであることを属性としている人は、アホになること、アホなことができない。だからアホとは、普通の人間が、なにかのきっかけ(たとえばアルコールによって)、制御不能な不条理な言動を示すことなのである。そしてそうしたこと(アホになること)は、誰も免れ得ないから、「アホの壁」ということになるのだろう。ということは「アホの壁」を乗り越えられない人間は生得的にアホということになるが、みんながアホなら、アホという必要はないので、やはりアホとは事件性のほうが強いのである。


そしてそうしたアホな言動には宴会の場でよくお目にかかるということ。2月15日のアル中な日々で書いたように、私は酒は弱いので、泥酔することも、記憶がとぶことも、暴走することも、また病院にかつぎこまれたこともないのだが、しかし、一度だけ、宴会の席ではめをはずしたらしくて、それが伝説のように残ってしまっているようでだ。私が基本的に人前に出ない人間なので、伝説も覆ることなく永続化している。ただ、映画のなかの鶴瓶とは異なり、あんなふうに、はめをはずして暴走し宴会を台無しにしたわけではないが、しかし、私のしたことも、たとえあれほどひどくはないにせよ、同じようなものかもしれなくて、考えると冷や汗がでてくる。


以前、渋谷で『ホースメン』(いまDVDが出ている。お勧めです)を見た夜、飲み会があり、そこで、深酔いして、隣りの女性をぽかぽか叩いて絡むメンバーがいたことを思い出す。彼と渋谷の駅までタクシーで帰り、さて、この前後不覚の男をどうやって家まで送るのかめんどうくさいと思っていたら、彼はタクシーから降りず、そのまま自宅までタクシーで帰るようだったので、安心したのだが、その彼は、もよりの駅までタクシーで帰ったあと、翌朝まで意識がとんで、路傍で寝ていたとか、メガネが壊れていたとか、そんな伝説を残してしまっている。私はそこまでひどく酔ったことはないが(また体質上、アルコールをたくさん受け付けないので酔えない)、彼のようにひとり芝居をしてしまった可能性はある。そう思うと、冷や汗が出てくる。映画のなかの鶴瓶といい、そのめがね壊し男といい、やはり宴席での暴走はよくない。


日曜日、『行列のできる法律相談所』をみていたら、山瀬まみが、15年くらい前のこと、バラエティー番組の本番で、ある男性お笑いタレントに暴言をはかれ、挙句のはては、本番中、スタジオのフロアをそのタレントにひきずりまわされ、さらにその男はスタジオのセットを壊して大暴走したという恐怖の思い出を語っていた。その男とは大竹まことなのだが、彼は、その大暴走のおかげで、一時、日本テレビに出入り禁止になっていたとのこと。番組では当時の映像を流していたが、たしかに、いまみると大竹まことの暴走ぶりはすごい。ただ、私は、それを15年前テレビでリアルタイムというべきかどうかわからないが、見ていた。しかし、当時は、そんなに怖くはなかった。というのも、バラエティー番組である。山瀬まみは、なにも知らされていなくて驚いているように思えたが、大竹まことの暴走は、打ち合わせ済みのことと思っていたので、けっこう面白かった記憶がある。それがほんとうの暴走だったとは。それを知らされて当時の映像をみると、これはけっこう怖いとしかいいようがないものとなる。


ただし、「アル中な日々」で触れた私の先輩、あるいはめがね壊れ男、あるいは映画のなかの鶴瓶、そして大竹まこと、そして私。まあ、若い頃は、誰でも一度か二度、暴走はするものだと思う。筒井康隆は『アホの壁』のなかで、そうした暴走をする、アホになる人間の原因をというものを、正しく精神分析的に考えているのだが、上記の人物たち(私も含むのだが)は、やはりなんらかの悩みや怒りやルサンチマンをかかえているのだと思う。それがある以上、人生は苦しいものなのだが、同時に、それがなければ人生は面白くない。まあ、そう考えるしかないのとも思う。そして筒井康隆精神分析的に結論づけているように、そうした暴走は、その人が周囲に真の姿をさらした、真のコミュニケーションを達成した稀有の瞬間である。それを理想的コミュニケーションといったらハーバーマスは仰天するだろうが、誰もが一生に一度くらい真のコミュニケーション行為に身を投じてもいいのではないか。まあ、周りの人はたいへん迷惑だろうから、しょっちゅあってはたまらないが。


だが、べつの意味でも、私は冷や汗を流していた。『おとうと』は吉永小百合笑福亭鶴瓶との姉と弟の関係ではない。長男(小林念侍)と長女(吉永小百合)と末っ子の弟という三人きょうだいの話である。私には、妹がいて、二人きょうだいなのだが、実は三人きょうだいでもあった。もうひとりいたのである。(つづく)