戦争中毒 ハートロッカー 3

イラク戦域という場合、英語ではtheatreを使う。世界地図も英語ではtheatre of the worldあるいはworld theatreと表記することもあるから、theatreの意味範囲は広い。そして語源的意味とは関係ないかもしれないが、いつしか英語話者のなかでは、戦争と劇場が結びついてるのではないか。空間的意味のほかにパフォーマンスの場として。民衆=観衆注視のなかでのパフォーマンス。おそらくこれが戦争中毒の意味となる。すくなくとも『ハート・ロッカー』においては。


ハート・ロッカー』の冒頭では、戦闘状態の興奮は、中毒になるというようなエピグラフが登場する。しかし、これはすでに述べたように、通常の戦闘員の話ではない。またイラク戦争というよりも、戦後の、もうすぐ終ろうとしているイラク占領下での爆弾処理班の話である。どこに戦闘状態の興奮があるのかということになるが、それは爆弾処理という死と隣り合わせの危険な作業のなかに、戦闘状態にも似たアドレナリンでまくりの興奮状態があるということだろう。しかし、それだけだろうか。兵役を終えて帰国した主人公が、故国での平穏な日常に飽き足らなくなって再びイラクに戻り(だが、これは映画『ストップロス』(日本未公開。DVD化はされた)で描かれた、本人の意志を無視して、軍の意向で再度派遣されるという問題を回避しているわけだが)、また宇宙服あるいは潜水服のような防護服を着てイラクの町の街頭で爆弾処理に出かけるところでこの映画は終る(ネタバレだが、映画の魅力は、物語の流れというのではないのでこの結末を知ってもダメージは少ないだろう)。爆弾処理のところでは終らない。歩いているのが快感なのだ。イラクの太陽のもと、防護服のなかで汗だくになることのどこが快感なのか。いや困難な作業をやり終えたあとの充実感か。平和に貢献したことの道義的充足感か。そうではないだろう。住民も兵隊も避難して人がいなくなった街路をひとり、爆弾が仕掛けられた場所にむかってゆく主人公。どこが快感なのか。それは映画をここまでみてればわかる。皆が見ている。皆から、住民たちから、仲間の兵士たちから見られている。この劇場、この舞台には、彼しかいない。まさに彼の行動に熱いまなざしが送られる。まさに主人公=英雄である。戦争あるいは占領下のイラクは、劇場であり舞台であり、そこでの劇団一人は、拍手喝采を浴びる対象なのだ*1。おそらくそこで死んでも、英雄の死である。もとテキサス・レンジャーのこの男は、もはやジャーヘッドではない、真正のヒーローなのである。故国では巨大スーパーマーケットでの待ちあわせ(シリアル売り場)に、妻にすっぽかされるなさけない男も、イラク劇場では、人間の生死をつかさどる神なのだ。神と人間の子供であるギリシア神話的ヒーローなのである。これは中毒になる。もう一度、戦場=劇場に行きたくなるのはしかたがないではないか。だが、これこそ植民地問題なのである。


【植民地問題に行く前に、主人公問題をひとつ。この映画には、有名な俳優は登場していない。というか登場するのだが、すぐに消える。冒頭、爆弾処理班の前任者をガイ・ピアースが演じている。一瞬、彼が主人公なのかと思う、そうではない。すぐに死ぬ。途中で、レイフ・ファインズが出てくる。彼が、これからどんなふうに絡んでくるのかと思うと(ちなみにレイフ・ファインズはビグローの映画『ストレンジ・デイズ』で主人公(ちなみにこの映画、ビデオ映像と記憶の問題、そしてレイフ・ファインズ(当時は、ダメ男を演じて新鮮だったが)にからむアンジェラ・バセットがかっこよすぎて、彼女に惚れた))、しかし、あってはならないことがおこる。すぐに戦死するのだ。そしてデイヴィッド・モース。司令官か将軍役で出てくるのだが、主人公の爆弾処理をPRして、すぐに消える。いったい彼ら三人はなんなのだ。登場時間がそれぞれ10分以内。なんのために出てくるのだ。彼ら三人は主役あるいは準主役ができる著名な俳優である。その彼らが主人公ではないことよって、主役のジェレミー・レナーにとって、この映画=劇場は、みずから主役になれる稀有な契機あるいは時空間であることが強調されているように思われる。本来なら主役になれない彼にとって、あるいは他の主役クラスの俳優をさしおいて主役になった彼にとって、この映画の時空間は、まさに主役=英雄になれる稀有な契機であり、中毒になってもおかしくないのである。】


ジョージ・オーウェルの短篇「象を撃つ」は、ビルマ(現ミャンマー)で植民地警察官としてのオーウェル自身の経験をもとに書かれた自伝的短篇で、実際に、オーウェルが象を撃ったのか、それともフィクションなのか、専門家でないの知らないのだ】が、とにかくこの短篇は『ハートロッカー』の植民地問題を考えるうえで参考になる。


ビルマの地で植民地警官をしている主人公は、ビルマの原住民たちから、家畜の象が暴れまわっているのでなんとかしてくれと頼まれる。そこで彼は銃を持って現場に行くと、この象は手が付けられず、射殺するしかないと判断する。しかし象を撃ったことなどない。村人たちは彼が象を射殺することを期待している。もしここでしくじれば、植民地警官としての彼の威信のみならず、大英帝国の威信も傷つけられることになる。期待は二重、三重となる。原住民たちの期待のみならず、帝国側の期待もある。あるいはこのとき、読者は、主人公に肩入れするだろうが、失敗して恥をかけと望む非ヨーロッパ系読者がいてもおかしくない。そんな期待の板ばさみのなかで、主人公は、引き金をひくが、それによって象を射殺することができた。ラッキーだったにすぎず、こんなことはもうこりごりだというかたちで物語は閉じられるが、『ハートロッカー』をみると、このオーウェルの有名な短篇を思い出す。


もちろん違いもある。オーウェルの描くところの植民地警官は、象撃ちの名人でもなんでもない。その彼が、象を撃たなければならないところに、サスペンスも生まれ、また苦悩も生まれる。決して楽しい仕事ではない。素人が訓練も受けず準備もしていないまま、舞台に登場するようなものである。心の余裕などない。ビルマの住民たちが観客として自分のパフォーマンスを注視していることは意識しても、そこに、自分が主人公となっていると感ずる余裕など微塵もないのである。


ところがもし彼が象撃ちの名人だったらどうだろう。もちろんどんな名人でも失敗する不安からは逃れられないだろうが、それよりもむしろ、成功したときの快感の予感のほうが強いだろう。オーウェルの短篇と同様、この『ハートロッカー』でも、主人公の行動には観衆がいる。ビルマの原住民。イラクの原住民である。ものいわぬ彼らは、主人公の成功ではなく失敗の望んでいるようにも思える。彼らは、ある種の不気味さと凶悪さを漂わせている。そうした彼らの前で、任務に成功することが、西洋人の優位を有無をいわさぬかたちでみせつける行為となる。それだけではない。ここは植民地=占領地であり、故国ではない。故国での爆弾処理は、彼を共同体の英雄とするだろう。アメリカにおける、9.11以後の消防士人気を思い出してもいい。故国ならば、仲間を救った英雄として、共同体のなかの英雄として称賛されるが、ここ植民地=占領地では、主人公は孤高の存在となる。正確にいえば、英雄ではなく、社会や共同体を超越した個人になれる。この点は、オーウェルの作品にもかいまみられた。そこでの主人公の苦悩は、板ばさみ苦悩なのだが、逆にいえば、帝国にも現地にも属していない超越的個人としての苦悩と、かくれた充足感がかいまみれる。いっぽう『ハートロッカー』では、ふうつに考えられるような凡人が戦場=植民地=占領地では、英雄になれるという設定ではなく、凡人ではなく変人が、社会とも家庭にも居場所がない変人が、真の変人になれる、変人とは個人ということであって、それが英雄になっているようにみえるのである。エキセントリックな主人公が、そのエキセントリック性を思う存分発揮しても咎められるどころか称賛される場、それがイラクという劇場であるというのが、この映画の仕掛けなのだろう。(つづく)

*1:典型的場面として最初の爆弾処理の際に、ひとり現場に進む彼が、途中で発炎筒を路上に投げるとこがあげられる。この発炎筒に目的はない。それゆえに援護する仲間の兵士の怒りをかうのだが、現実的な目的はなくても、発炎筒での白煙によって、その場の緊迫感を盛り上げるというな目的は達せされる。これは彼がみずからを主人公とする演出上の工夫そのものなのである。