米国アカデミー賞
アカデミー賞がキャスリン・ビグローの『ハート・ロッカー』に決まった。多くの部門を総なめしたから実質的にグランプリと言っていい。エンターテイメントとしても映画芸術としてもすぐれた作品を世に送り出してきたキャスリン・ビグロー監督の映画が、これを機には世に知られるようになるのは、よいことだと思う。
しかし、それはいいのだが、なにもこの作品でという思いは強い。いくら有能な監督で実績があるとはいえ『ディパーテッド』という、香港映画『インファナル・アフェアーズ』の貧弱なリメイクにすぎない作品でアカデミー賞を受賞したマーティン・スコセッシ監督ほどではないが、つまり『ハート・ロッカー』はすぐれた映画なので、受賞は当然かもしれないのだが、しかし、なにもこの映画でというのは偽らざる感想である。
なにしろこの映画(このブログでも先々週あたりから書いているのだが)、どうみても、これはオリエンタリズム映画でしょう。
不気味で何を考えているのかわからないイラク人。彼らは全員テロリストあるいはテロリスト要因であり、自分たち同胞をもテロにまきこんでいる狂気の犯罪者集団であり、それでいて自分たちではなにもできない。こうした愚かなイラク人の尻拭いを、アメリカ軍がしているという、そういう映画であって、イラク人がみたら怒る。なぜならイラクの惨状は、イラク現地人の怠慢でも犯罪でもなくて、アメリカ軍のプレゼンスが引き起こしているわけだし、そのアメリカ軍のプレゼンスを産んだのは、イラク戦争、あるいはブッシュとネオコン・ギャングのエネルギー資源獲得競争が原因だからだ。
結局、イラク人を理解しようとしないで、ただ、冷血なテロリスト集団として位置づけるだけの映画は、オリエンタリズムとして非難されても当然だろう。
皮肉なことに、アメリカ帝国主義の側に安住するのではなく、現地人の内側に入って、それを理解しようとしたのはキャメロン監督の『アバター』だった。そしてこれはアメリカの軍隊、あるいはアメリカの軍国主義と抵抗主義を強烈に批判した映画であり、アメリカの保守層を怒らせていたので、受賞でもしていたら、監督やアカデミー賞関係者は命を狙われかねなかった*1。
では、アメリカの右翼のオリエンタリズム作品である『ハート・ロッカー』にかわって、『アバター』が受賞すればよかったのかというと、そうでもない。『アバター』は半分がCGだし、見世物でもあるからだ。たしかに技術的にはすぐれている。映画館でみていたとき、突然、私の前の席の観客が立ち上がってスクリーンが見にくくなった。おいおい上映中、立ち上がるなよと思い、スクリーンが見やすいように体をずらそうとした瞬間、思わず、自分でも苦笑するしかなかった。上映中に立ち上がる人間がいるか!3D効果であった。それほどまでに迫真的であることはたしかだが、アニメ映画と実写版のハイブリッドの映画は、ハイブリッドによる化学反応が起こるよりも中途半端な感がいなめない。それにキャメロン監督、宮崎アニメをはじめとして、日本からもいろいろパクっているようだし、物語の筋立ても、寄せ集めである。そういう意味では、いくらお金をかけても、いくら技術を投入しても、思想的にリベラリズムであっても、そうしたことだけではすぐれた映画にははりえない。でも、アメリカ右翼オリエンタリズムも優れた映画とはいえない(その隠れ蓑として、アカデミー史上始めての女性監督受賞が使われた可能性がある)。
右翼オリエンタリズが反帝国主義リベラリズムを押さえたという図式ですら、まだじゅうぶんでないといわんばかりに、もうひとつのオリエンタリズム映画が受賞している。日本のイルカ漁を告発した米映画長編『ザ・コーヴ(入り江)』(ルイ・シホヨス監督)である。この映画も、『アバター』と同じく現地に潜入しようとしている。しかし『アバター』とちがって、現地の文化を理解しようというふりはまったくなく、ただ告発するために潜入しているのである。実際、異文化に潜入するのなら、異文化を理解しようとしなかったら、なにが面白いのだ。理解しないどころか、欠陥のある西洋の前提を押し付けて、それでこと足れりとし、あとは凶悪で不気味な現地人として告発・放置するというのではあれば、『ハート・ロッカー』よりもひどいが、『ハート・ロッカー』の延長線上あるいは、それと同一の前提を共有していることもまちがいない。
結局、今年度のアカデミー賞は、たんに私たちに日本人にとって不快であるだけでなく、まちがった日本人像を伝える安っぽいドキュメンタリーが受賞してことは、歴史にとどめておくべきだろうし、私たち日本人もイラク人と同様に、映画のオリエンタリズム(西洋的基準の押し付けと、西洋の免罪、非西洋の悪魔化)に抗議の声をあげるべきであろう。