Man on Wire


午前4時起床:本日予定している講演の原稿をPCで書く。正確にいうと、講演原稿ではなくて、講演の際に配るレジュメと資料をPCで作成する。これまで時間がなくて、はじめて作ることになる。まあ昼ごろまでに完成すればいい。またゼロからとはいえ、話す内容は、だいたい頭のなかに入っているから、レジュメを作りながら、まとめる。あとは資料を一緒に作成して、その資料を見ながら話をしていけばまとまるはずである。


正午:なんとか完成して、プリントアウトする。午前4時におきて、これまで8時間。ふつうなら、これで一日の労働が終ってもいいのだが、これから本番である。しかし8時間。とはいえ、途中で朝食をとり(前の晩に作っておいたおにぎり)、またゴミを出しにいったりしていたから、実働8時間ではない。それでも7時間は作業をしたはずである。疲れた。


午後1時20分すぎ:待ち合わせの駅に、待ち合わせ時間1時20分に到着するには、午後1時13分の電車に乗れば、余裕をもって20分に到着するはず。しかし、電車が遅れて1時16分くらいに乗車、1時25分くらいに到着する。遅刻。とはいえまだ時間的に余裕があって、スクールバスで大学まで。


会場校へ行く途中のバスの車窓からみる景色はなじみがある。伯母が入所していた老人ホームに行く途中の景色でもあった。ホームには地下鉄で行くのがふつうだったが、事情があってタクシーや車で行くときは、この経路を通ったことを思い出す。この路線は、伯母が危篤になったとき、タクシーで駆けつけたときに通った道でもある。昔のこと、伯母の死を思い出すと、胸がいたい。


この経路の途中には、りっぱなきれいな大学があって、中はどうなっているのだろうと伯母がまだ生きていた頃は、ぼんやりと思っていたが、いま、その大学の中に入る。


午後2時:これから1時間30分話すことになるが、すこし早目に切り上げて、質問を受けることにする。お話をいただいた先生は、昔、大学院時代に、津田塾大学と合同でおこなっていたシェイクスピア関連の読書会の津田塾側のメンバーだった方で、メールでのやりとりで、実のところ、私のほうは、顔と名前が一致しなかったのだが、待ち合わせた駅でお会いしたとき、顔と名前が一致した。講演会のはじめに、私のことを、「偉い先生というよりも、昔、研究会でいっしょだったので、懐かしい感じがする」というかたちで紹介していただいたが、思いは同じで、私もなつかしい気がしていた。


講演の内容はカット。


午後3時30分:相変わらず、下手な講演で、自分でも、恥ずかしくて早く立ち去りたいのだが、2,3質問を受け、そして講演会終了後、ただちにその部屋で懇親会(といっていいのだろうか)が、始まった。個人的に質問したい学生の質問を受ける。つぎつぎと質問にやってくるということはなかったが、質問をしにきた学生・院生たちは、みんな感じのいい若者たちで、熱心さもよくうかがえた。あいにくその大学には修士課程しかないのだが、もし博士課程があれば、そのまま進学する学生も多いのではないかとも思われた。


結局、修士を修了して、さらに勉学を続けたいと思ったら、留学するか、べつの大学の大学院に行くしかなくて、修士課程から博士課程との間にハードルがあることになる。修士論文を書いたという、熱心で優秀そうな院生に、進路を聞くと、中高の教員になるという。研究者になるか、教員になるか、どちらが、本人のためか、あるいは社会のためかは、わからないところがある。ただ、どちらに進んでも、よい結果は残せそうな学生ではあった。


圧迫面接:講演後、ある女性の教員(紹介していただいた方とは別の女性)が、講演内容とは関係ないが、別の件で抗議というか不満を述べたいといわれたので、一瞬、緊張した。話をうかがうと、その大学の大学院修了の院生が、私の大学の大学院を受験した。そして口頭試問のとき、一人の受験生に対して、ずらっと20名くらいの教員が出席して、きわめて失礼な質問をしたという。口頭試問そのものに問題はないとしても、コメントがきわめて失礼であったということだった。大学院の口頭試問で、私の所属する英文科でそんなことがあったかどうか、記憶を辿っても思い出せない。


え、20名。すぐに安心した。それは、私の所属する学科の面接ではありませんね。うちの学科は教員が6名か7名くらいしかいないので、それは、べつの学部です。うちではありません。また、私たちの口頭試問では、失礼なことをコメントしたりしません。それは、別の学部の、圧迫面接ではないですかと答えておいた。それは嘘偽りのないところだが、べつの学部の面接だから、こちらは責任を免れるといえば、免れるのだが、同時に、同じ大学だから責任は免れないともいえるので、困ったものだ。いまは、学生がいない時代になので、圧迫面接している場合じゃないし、そのとばっちりがこちらにもくるのは、いい迷惑である。


なおその大学の修士を出て、留学していた院生から、サセックス大学の様子を、とりわけアラン・シンフィールドの様子を聞くことができて、興味深かった。


午後4時すぎ:懇親会に延々といてもよかったのだが、夕方、行くところがあるので、4時すぎに失礼することにした。幸い、帰りの地下鉄(こちらに来る時に降りた私鉄沿線の駅とは反対の方角にある)が同じだったので、その駅に案内していただき、いっしょに乗車することにした。


午後5時まえ:その地下鉄は、私の大学の近くを通っているのだが、大学の最寄り駅よりも一つ手前の駅でおりた。その駅の改札口近くで、出版社に携帯で電話。出版社へ出向く。


午後5時すぎ:見て返さなければいけない校正刷りが、まだ返せていない。実のところ、本日の準備のため、なにも見ることができないため、とにかく、出版社でみさせてもらい、そこで確認をして返却することにした。本日は午前中に一仕事終ったようなところがあったが、本番は午後だった。そして午後の講演が終って、すぐに帰れるかと思ったら(その大学の私鉄の最寄り駅は、私が住んでいる市の駅から3駅目なのだ)、まだ夕刻から夜にかけての仕事があった。


ゲラのとりわけ文献表の確認は、何度見ても、統一がむつかしく、また何度見ても不備がみつかったりして、相当、時間かかる。編集者に、もうじゅうぶんに迷惑をかけているので、これ以上、迷惑をかけられない。途中で睡魔に襲われた瞬間もあったが、なんとか見直して時計をみると午後8時。


午後8時:予想外に時間がかかってしまい、編集者の方を待たせてしまったと思いきや、他の仕事を平行してされているので、することがいっぱいあって、手持ち無沙汰で、ただ待っていたということはなかったようだ。午後8時以降も、ずっと作業というか仕事はつづくようだった。私は一段落ついて、ゲラも返したので、これで帰ることになった。


帰りがけ、遅くまでごくろうさまと、声をかけたが、編集者から、「いま、ほかの仕事もあって、私自身、綱渡り状態なのだが、先生をみていると、ほんとうに綱渡りで、逆になんだか安心します」と、皮肉でもなんでもなく言われてしまった。Man on Wire.


付記:過労がたたって、翌日は綱から落ちて、2日間、寝込むことになった。