I Love You John Watson


えー、今回、復活映画会の第二回目も終わり、幹事の方、お世話になりました。ありがとうございます。


ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ』(2009)、楽しく見させていただきました。私が前にいた大学で、卒業論文にシャーロック・ホームズ物を扱った女子学生がいて、テーマは、べつに私がすすめたわけでもなんでもなく、彼女から自発的に決めてきたのですが、ホームズとワトソンがいかに「できている」かを検証するもので、その最たる証拠のひとつが、ふたりが危険な状況へ入ってく、あるいは危機のなかで協力して対処するというとき、相手の手を握っていることでした。


これは握手するとか、手を差し伸べて助けるとか、そういうことではなくて、二人で暗闇を手を握って駆け抜けたり、犯人が現れるのを身を潜めて待っているとき、二人で手を握っているのです。これって、ふつうなら、ありえない。女性どうし、夫婦や恋人どうしだったらありえるのですが、男どうしはありえない。ということは、二人は恋人ということでしょう。友情の枠を超えている。たとえばワトソンはほんとうはホームズの妻だったという説があるのですが、たしかにワトソンが世話女房的な役割をしているので、ワトソンはほんとうは女性だったと考えたくもなるのですが、しかし、この珍説は、イデオロギー的機能があって、ワトソンを妻/女性に変えることで、ホームズとワトソンの男性同性愛的関係の顕在化を回避したところがあるのです。異性愛体制の維持のためには、ホームズとワトソンの関係は問題があったのですね。


映画では、二人のホモソーシャルな友情関係−−たとえばホームズが、ワトソンのフィアンセに嫉妬して、いろいろ失礼なことを言ったりする場面に顕著な−−を、観客はどう考えるのでしょうか。異性愛イデオロギー的解決としては、ホームズとワトソンの精神年齢を下げて少年の友情として意味づけ、いつまでも少年でいたいホームズ(風の又三郎か?)が、結婚して自分のもとを離れていきかけるワトソンをなんとか引きとめようとするというように、少年の、成長とともに消滅する友愛として、過渡期的なものとして捉えることでしょうね(BL化現象)。しかしこの映画の観客は、そこに、友情と恋愛が、本来なら両立しうるのに、葛藤関係にあることをみて、面白がるか、不安になるかのどちらかでしょう。


原作では「ボヘミアの醜聞」以後、ホームズとは絡まないアイリーンに、『ルパン三世』の「峰不二子」的の役割を担わせ、ホームズと彼女との関係のなかに、異性愛的世界を展開させているのですが、しかし、最後までホームズはアイリーンにキスしない。やはり、リスペクトする憧れの女性には距離を置いて接するのか、あるいはモリアーティー教授の手先でもあった彼女を恋人とは思わないのか、いろいろ解釈はできそうですが、わたしたちの解釈は単純なものです。ゲイであるホームズは、アイリーンには最終的に性的興味はないのです。ふたりが結婚するかもしれないと思うのは、ヘテロ体制の囚人、因襲に染まった愚か者の考えることです。そもそもホームズがアイリーンに惹かれるのは、その明晰な頭脳であり、通常の女性には望めない果敢な行動力なのです――つまり、ワトソンが妻なら、アイリーンは男なのです。


そう考えれば原作には潜在的なゲイ的要素を、この映画は顕在化したともいえるでしょう。たとえば、今回の映画会の女性メンバーが指摘していたように、造船所での大立ち回りのあと、ホームズとワトソンは刑務所(その中庭)に収容されて、そこで一夜を過ごすのですが、そのときホームズはワトソンの背中に寄り添って眠っているのです。そのゲイ的癒し場面は、この映画のなかで最高のシーンのひとつにちがいありません。


またその直後、ワトソンのフィアンセの女性が、保釈金を払ってワトソンだけを刑務所から連れ出し、ホームズを後に残すのです。刑務所は、『ショーシャンクの空の下』を引き合いにだすまでもなく、オカマを掘られるところで、ひとり残されたホームズは囚人たちにオカマを掘られる危機に瀕するのです。実際、ホームズは、囚人たちに囲まれて、輪姦される/輪姦されているのではないかと思われる場面があるのです。まあホームズは牢名主的人物に、バカ話をきかせて笑わせて、かろうじて、犯されるのを先送りします(『千夜一夜物語』のシェヘラザードのように)。あとのきレストレード警部がホームズ釈放に訪れなかったら、ネタ切れになったホームズは、まちがいなくオカマを掘られていました*1


と同時に原作に潜在あるいはカムフラージュ化されて見えなくさせられているものを顕在化しているこの映画は、同時に、これまでの映画化よりも原作を忠実になぞっているところがあって、面白いことになっています。ホームズの風貌は原作とは違いますが、それ以外は原作に忠実です。映画のなかでワトソンが足をちょっとひきずっているようにみえます、これはアフガン戦争で負傷したせいか(アフガン戦争のことは台詞に出てきます)と思い、実は昔読んだ『緋色の研究』を読み返しているのですが、ワトソンは足ではなく、腕に怪我をしていました。また読むと、ブルドックが出てきます。ホームズが拳闘を趣味としていること。またヴァイオリンを奏でることも出てきます。当初の設定を忠実に守っています。またちなみにエンドクレジットにはアイルランドの音楽が流れるのですが、どうしてかと一瞬わからなかったものの、これは原作者のコナン・ドイルがアイルランド系であること、そのため原作者へのオマージュなのだとあとでわかった次第。


そしてホームズの変人ぶり。ロバート・ダウニー・ジュニアは映画出演にあたって、イギリスのテレビドラマ(たしかグラナダテレビ)で日本でも放送されたジェレミー・ブレット主演の『シャーロック・ホームズ』を見て研究したらしいのですが、ジェレミー・ブレットに限らず、これまでの映像表現における、端正な顔立ちながらいかつい英国紳士のホームズ像と、『緋色の研究』の当初から強調されていた変人ぶりと、どう両立するのか、いつも不思議に思っていたのですが、今回、奇人・変人であるホームズをしっかり見せてくれたこの映画は、今後のホームズ表象を変えてしまうかもしれないと思いました。ホームズの変人ぶりはゲイ的性格と両立しうるものでしょう。また、もちろんジュード・ロウ扮するワトソンも、これからの映画化では変わるにちがいない。そこのところは興味が尽きないのですが。


あと原作にも、地理にも忠実ではないところとして、国会議事堂からタワーブリッジまで、アイリーンとホームズ、それにブラックウッド卿が、一瞬のうちに移動することがあげられます。映画ではタワーブリッジが議事堂に隣接しているように思えるのですが、あれは無理があって、議事堂とタワーブリッジの間は、2・5マイル離れていて、瞬間移動は無理です。【ネタバレ注意*2


とはいえ全体に、CGであれ、1891年のロンドンの様子を、その汚さ、暗さに忠実に再現しているように思えます。昨年暮れにみた『ヴィクトリア女王』の再現力をこの映画は完全に凌駕している。そしてスローモーションの高感度撮影と通常の撮影とを組み合わせたスタイリッシュな映像。今後のホームズ映画((まあ、この映画の続編を除くと、今後、ホームズ映画が作られることはないとかもしれないのですが。))を確実に従来のそれとは異なるものにするこの映画は、良質なエンターテインメントを私たちの提供してくれるのではないでしょうか。

*1:だから、ゲイ的表象は随所にあって、それをただBL的であり、中学生の妄想だと一蹴し、アイリーンとホームズが結婚するだのという妄想をいだいている大槻ケンジ(プログラムの文章参照)、ちょっと教室に居残って補習だ。時間はいつでもいいから。

*2:たしかに隣接している印象は受けるものの、アイリーンは毒ガスの容器をかかえて、タワーブリッジまで、3キロから4キロを走ったとも考えられる。彼女の目的は、その毒ガス機械からホームズたちを引き離すことであったから、タワーブリッジまで引き離せたら、彼女は目的を遂げたことになる。でも、やはり不自然すぎるか。