Bright Star, would I were steadfast as thou art.


2月には『ハート・ロッカー』が、日本で公開されることを映画館で知って驚いたのだが、どうも日本の映画公開情報に疎くて、いつも驚かされているのだが、The Moon(邦題『月に囚われた男』)も近日公開であることを新聞の広告で知って驚いたが、今週は、映画館でもらったチラシでBright Starが5月に公開されることを知って驚いた。いずれも日本では公開されないものと思ってDVDで見ている。困ったことに。


なぜ困ったかというと、映画館で見た映画に感激したから、もう一度DVDで見たいと思うことはよくある。あるいはDVDを買いたいとも思う。ところが先にDVDで見てしまった映画は、映画館に足を運んで見たいとは思わない(よほどの傑作でもないかぎり、また、お金もかかるので)。結局、『ハート・ロッカー』は、まだ映画館ではみていない――みれば迫力のある映画だとは思うのだが、内容に問題があるし。


とはいえこのブログでは映画については上映が終わりかかっている映画について語ることが多いので(前日4月2日では今頃になって『パレード』について語っている)、公開前の映画について語るのもいいかもしれない。


Bright Star(2009)というのはあまり芸のないタイトルだと思ったのだが、キーツの詩(ソネット)のタイトル(正確には、このソネットにはタイトルがないので、第1行を、タイトルとして扱っている。本日のタイトルがそれ)。25歳で死んだ詩人キーツと、彼と婚約をしたファニー・ブローンとの恋を描くこの映画は、Andrew Motionの伝記などを参考にして脚本を作ったようだが、なにが起こったのか、よくわからないところもあり、また私自身、キーツの生涯については、よく知らないのだが、たとえよくわかっていても、詳細を知っていても、二人の恋愛は、それほどドラマティックなものではなかっただろうと想像できる。


キーツはファニーに捧げた詩をいくつも書いているし、結核という病によって、キーツが結婚を思いとどまったり、婚約を解消しようとしたりと、障害はあり、紆余曲折をへた部分も多かったかもしれないが、ただ、結核は当時は不治の病であったため*1、もう助からないという周囲の認識から、婚約を許し、結婚も許可した可能性がある。


キーツとファニーは、ロミオとジュリエットではない。ロミオとジュリエットには、それぞれ未来があった。だから障碍も大きくたちはだかった。だがキーツに未来はなかったので、障碍などない。死刑囚は、自由度も大きく優遇されている。余命いくばくもない人間に食餌療法などしない。キーツとファニー――最初は周囲もふたりの恋愛に反対していたが、もう反対しなくなっている。


だから二人の恋愛は、ドラマティックなものではない。いや、三角関係の要素はある。キーツは先輩の詩人チャールズ・ブラウンCharles Armitage Brownと共同生活し共同作業しているのだが、そこにファニー・ブローンFrances ‘Fanny ’ Browneが割り込んでくるかたちになる。キーツを取り合う男と女ということで、スリーサム関係を構成し、クィア的要素が顕著になってもおかしくないのだが、そのへんは、深く追求されることはない。


もちろんファニーの存在は、キーツにとってインスピレーションの源になったのだから重要、いや、かけがえのない存在だったのだが、それは静謐な感覚性と精神性を帯びるだけであって、ドラマティックではない。となるとこの映画のどこが面白いのかというと、それはいうまでもなく、ジェイン・キャンピオン(Wikipediaでは「カンピオン」と表記)の久しぶりの新作であるからだ。キャンピン映画が、『ある貴婦人の肖像』(ヘンリー・ジェイムズ原作の)の世界に再び戻ったからである――ある意味誰もが望んでいたことでもあるのだが。


『ある貴婦人の肖像』(1996)のキャンピオンの映画には、『ホーリー・スモーク』(1999)があるが、これはへんな映画だったし(まあケイト・ウィンスレットが素っ裸で歩きながらおしっこをして、台詞をいうシーンが印象的だったが((最初彼女は、ほんとうに小便しながら台詞を言おうとしたのだが、タイミングが合わず、結局、最終的には、管から水を流して小便にみせたらしいのだが。))。あとハーヴェイ・カイテルが出演していた)、『イン・ザ・カット』(2003)は、女性映画として傑出していたと思うのだが、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』(1990)、『ピアノレッスン』(1993)、そして『ある貴婦人の肖像』と続いてきた映画の系譜を復活させてほしいと望むファンは多かったにちがいない。


そしてその希望は成就された。この『Bright Star』(邦題は未定ようだが)は、さすがにジェイン・カンピオン、映像の強度がすごい。物語をあまり説明することなく(実際、キーツを取り巻く詩人、文学者仲間はたくさんいるのだが、リー・ハントくらいしかわからなかった)、映像による説明と情感にすべてを委ねているところがあり、映像のみごとさに驚く。一見の価値はある。


キーツを演じているのはベン・ウィショウBen Wishaw。私が持っているDVDでは出演作品としてThe Internationalがあがっているが、この映画(邦題『ザ・バンク』)は、私が映画館で風邪をうつされたことでも記憶に残っているのだが、彼がどの役で出ていたのか記憶はない(クライヴ・オーエンスとナオミ・ワッツ主演なので)。むしろ日本の観客には、『パヒューム』の主役として記憶にとどめられているだろう。映画『パフューム』(2006)の時は、始めてみる俳優で、とくに美男子でもないし、いや、それどころかへんな顔をしていて、ハムレットなどを演ずるイギリスの舞台俳優なので、見た目よりも演技力ということなのだろうと納得したが、しかしそれでも『パフューム』(2006)のときは、不気味なあるいは不可思議なオーラがあったのだが、今回のキーツは、意図的にオーラを消しているところがある。キーツの、おそらく美化されているであろう、現存する肖像画とは、まったく似ていない。医学研修生にも見えず、むろんのこと天才詩人にもみえず、ただの馬丁の子供で、虚弱体質の貧乏な病人にしかみえない。まさに、そういう役どころなのだが。


いっぽうファニー役のアビー・コーニッシュのほうが、むしろ主演というべきだろう。アビー・コーニッシュの映画は6本くらい見ているのだが、最近は主演もしくはヒロイン役というのがなくて(『エリザベス、ゴールデン・エイジ』とか『ストップ・ロス』)、すこし寂しいところだったのだが、彼女の存在なくしてこの映画は成立しなかったであろう。彼女も今年で28歳になるし、すこし太った(衣装のせいでそうみえるのかもしれないが)ような気がするが、円熟度を増しているように思われる。と、感ずるのは、ほんとうはよくなくて、むしろ彼女の気の強そうな小娘という風貌によって、ファニーの恋は少女の恋でもあることを、この映画は、ファニーとキーツの恋愛物語の解釈として示そうとしている。


実際、映画のなかでファニーは、弟と幼い妹といつもいっしょにいて、この弟と妹と三人でキーツに会うシーンが多い。これは彼女が弟や妹に対して母親的な存在となるということではなくて、むしろその逆で、弟や妹と同じくまだ若い少女だということを印象付ける。実際ファニーは、聡明な女性とか知的に優れ、感性も豊かだというより、どこにでもいる隣の女の子the Girl next doorというイメージなのだ(実際、キーツの住居の隣に住んでいる)。だから一途なところもあれば軽薄なところもある。いや軽薄さと一途さが合体している。それゆえ恋人が死んだら、きれいさっぱり消えてなくなってもよいようなものだった。にもかかわらず、キーツとの恋は、一生消えない記憶となって、彼女に刷り込まれた。


小さな女の子が、幼く、またあっというまに終った短い恋を、一生忘れることがなかったとしたら、その奇跡に感動もするが、なぜそれが可能だったのかも考えてみてもいいかもしれない。映画はそれに回答を出しているのだから。キーツの詩が、手紙が、そして映像が、物質的記憶媒体が、それを可能にしたのだ、と。

*1:とはいえ結核が医学によって克服されたなどという進歩の神話をいまでも信じているいる人がいたら、それはやめたほうがいい。結核はいまでも重い病気だし、結核で死ぬ人は多い。私の父親も、若い頃結核だったが、それが治ったはずなのに、再発して結核で死んだ。