隠れゲイ映画


卒業式の謝恩会で知り合いの卒業生から、隠れゲイ映画が好きなのだが、よい映画はないかと聞かれて、『フィリップ、君を愛している』は、これは、隠れどころか、エクスプリシットなゲイ映画だから、ちがう。とそこで、そうだということで、いま上映しているガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』は隠れゲイ映画だと話したら、たしかに予告編でもそんな感じでしたという答えが返ってきた。しかし、そのとき思い出さなかったのだが、もうひとつあった。原作は読んでいないので、原作がどうかはべつにして、映画は、隠れゲイ映画であった。行定薫監督の『パレード』である(現時点では終わりかかっているが、まだ深夜でなくても上映してる映画館はあるし、地方で見る機会は増えるだろう。DVDになっても是非見て欲しい映画である)。


面倒だからネット上の感想をそのまま引用する

連続女性暴行事件は何の意味があるのだ。不可解。 (投稿日:3/13)
●若い男女2人ずつ計4人が一つのマンションの一室をルームシェアしながらで共同生活をしている。どういう経過でそうなったかは分からない。それぞれの関係性は希薄だが、共同生活の限りにおいて、問題なく暮らしている。
正規に働いている健康オタク(藤原竜也)。
学業もアルバイトもいい加減な大学生(小出恵介)。
仕事はしているがほぼアル中的女性(香里奈)。
仕事もせず新人男優を追いかけている女(貫地谷しほり)。
●ある日、香里奈が十代の男娼(林遣都)をマンションに引っ張り込み、計5人で暮らし始めることとなる。
●その前後から、近所の公園で連続女性暴行事件が始まる。
●いずれにせよ、その事件とは当面何かかわりもなく、彼らのグータラな生活は続いてゆく。
●本作のキャッチコピーは「歪みはじめる、僕らの日常」とあるが、どうせ最初から歪んでいるのであって、暴行事件が歪みを表す訳ではなかろう。
●彼らは、結局、モラトリアムであり、現実逃避で、臆病で、甘えている連中だ。そんな連中に人間的魅力はない。ゆえに、彼らの生態を描くだけの本作にも魅力はない。
  が、彼らのこの「ゆるーい」関係やその発想、ものの言い方などがいかにも現代の若者の鬱屈を炙り出していて興味深かった。
  監督の行定勲は手慣れた風に、自然体の演出。いつもは舞台のようなオーバー・アクションの藤原竜也も等身大的な演技で好感。
●しかし、ラストは気に入らない。
 いまどきの若者たちは、あんな終わり方で事を済ませてしまうのだろうか。
藤原竜也林遣都を見る目はYESでもNOでもなく不自然なくらい長い時間じっと見つめていたが、つまり、本作の落とし前がはっきりしないということだ。
 観客に判断させるつもりだとしたら誠にアンフェアだ。
 ここは作り手の信念を明確に主張してくれなくては全体がボヤーっとした話なのだから締りのないこと甚だしい。

こういう感想を多くの人がもつであろうことは、予想できる。こうした人たちは、実に達者な俳優たちの演技に感銘をうけるだろうから映画は楽しめただろうが、映画の物語そのものは楽しめなかったようだ。


上記の引用には、当然、抜け落ちているところがある。その抜け落ちているところを集めると、この映画が隠れゲイ映画であることがみえてくる。



たとえば彼ら4人がシェアしている部屋は、いまではあまりないような2LDKの古いアパート形式で、個室が2つに、リヴィングとダイニング。トイレと風呂というつくりになっている。そこに4人が暮らしている。4人。つまり片方の個室に、藤原竜也小出恵介が、もうひとつの個室に香里奈貫地谷しほりが暮らしている。はっきりわからないのだが彼らはベッドもシェアしているらしいのだ。同じベッドに男が二人、また別の同じベッドに女が二人で寝ることになる。二人一緒に寝ている姿は出てこないで、実は、もう一人は分身、幻想、幽霊というような可能性もあるのだが、それはここでは考えないことにしよう。とにかく彼らは部屋(個室)だけではなく、ベッドもシェアしている。



最初のほうで、貫地谷しほりが言う「四人は、まるで密入国したような労働者のように、狭いマンションの一室を四人で暮らしている」。それは管理人、ばれたらまずい、なぜなら、「そこは新婚カップル用の部屋なのだから」。そこは愛の巣なのだが、しかし密入国した労働者のように人目を忍んで暮らしているということである。


まず、このような設定がおかしいと気づくべきであろう。彼ら4人は、暮らしにこまっているようには思えないし、仕事をもっている男女と、たぶん仕送りをしてもらっている学生と、仕事をしなくてもいい女が、経済的理由から、いっしょに暮らしているとも思えないのである。彼らは、マンションの隣接する住人たちで、なんとなく仲良く暮らしているということではなく、この一室に密入国の労働者のように暮らしているのである。


Spoiler
この映画のはじまりは、映画内での一連の連続殺傷事件のはじまると一致しているのであり、誰が犯人なのかが、その映画のミステリーが、関心の中心となる。そして犯人は途中からだいたい見当がつくので、ネタバレでもないと思うが、毎晩ジョギングしている藤原竜也である。その犯行を男娼の林遣都に最後に見られてしまう。藤原竜也は、観念して、警察にでもどこにでも突き出してくれというのだが、林は、そんなことをしないと語り、さらに驚くべき不気味なことを語る。この殺人については、部屋をシェアしている皆が知っていますよ、と。そして藤原が部屋に帰ってくると、週末、皆で伊豆に行くことになり、藤原も唖然とするなか、それに従わざるをえなくなる。ここで終る。


え、と、たしかにこう聞くと、わけのわからない終わり方をするように思われる。観客の戸惑いもわかる。しかし、問題は、藤原の犯罪について、動機がはっきりしなこと。まあ、嫌なこと、むしゃくしゃすることがあると、ジョギングしつつ、通りすがりの女性をもっていたレンチで叩いて殺したりするということなのだが、この犯罪は、被害者の側からは描かれていない。たしかにそれは犯罪だが、その凶悪犯罪に苦しむ犠牲者の側の視点はまったくなく、犠牲者たちはまるでマネキンのように叩き壊される(後姿だけで顔すらもみせないのだ)。そして犯罪者が、罰せられることもなく生き延びる。しかもオープンシークレット。ひとつの可能性は、藤原をふくむ全員が、実は凶悪な連続殺人者であって、互いのことは口に出さなくてもわかるということ。この可能性はある。しかし映画のなかで藤原の犯罪が道徳性を極力奪われ、倫理性のゼロ度を達成していることから、世間一般からは犯罪視されるかもしれないが、内部においては犯罪とは思われていないような違法行為あるいは異端的行為となると、これは同性愛ということである。オープンシークレットというのも同性愛と関係する。というより、同性愛問題、あるいは同性愛差別の根幹には、オープンシークレット問題がある。カミングアウトとは、このオープンシークレット状態の打破であって、忽然とどこからともなく現れてみずからの同性愛性を宣言するというよりも、ヴェールをかぶっていたような、いやそもそも見てみぬふりをされてきた要素を言語化して明るみに出すこと、それがカミングアウトなのである。


こう考えると、この4人あるいは5人は、みんな同性愛者としての性向と欲望を共有していることになる。最後は、このことの確認となって終わる。そしてそこからこの空間の意味もみえてくる。


彼らは密入国者のように、都会のなかで人目をしのんで、同性愛者として欲望を共有しつつ暮らしている。都会のなかでカムフラージュするかのように周囲に溶け込みながら、ある意味、連続殺人犯のようにびくびくしながら生きている。と同時に、小出恵介は、恋人に、なぜ地方から東京の大学に来たのかをこんなふうに説明していた。東京に出れば、土佐の漁師の息子や、京都の呉服屋の娘さんとも出会えるからという父親の言葉が、反対する母親を説得したと。都会はゲイ・レズビアンの出合いの場である。地方でひっそりと集団生活をしている同性愛者というのはありえない。同性愛者は、都会になじむ。都会という場が、田舎にはない出合いを可能にしたのであり、都市の発達と同性愛サブカルチャーの発展は軌を一にしているという研究はある。彼らは4人もしくは5人の共同生活の場であるこのマンションの一室は、たんなる隣近所あるいは同僚、学友、同郷人ではなく、もっと緊密な関係を象徴する空間となる。


いやこれがあまりにも無理なこじつけと思うかもしれないので、急いで付け加えれば、こんなふうに考えるほかないほど、この映画には同性愛者が多い。香里奈は、おかまバーに毎晩用のように通う、おかま大好き女であり、その彼女が街の男娼(林遣都)を酔ったいきおいとはいえ連れてくる。林遣都は、ふだん公演で持ち帰ってくれる客を待っている。私なら彼の顔をみただけて買ってしまうのだが、客は尻を触って値踏みしている。尻は肛門性交を暗示するだけではなく、尻の感触そのものが同性愛的欲望を刺激するのであって、同性愛者は尻にこだわることも、よくわかることになっている。


またこの部屋は、もともと藤原竜也が恋人の女性といっしょに暮らしていたらしいのだが、女性のほうが部屋を出ていったらしい。女性のほうは藤原とよりをもどしたいらいしいが、彼は、この女性には関心はなさそうで、男娼の林遣都に惹かれている。そして夜道の女性を襲う、女嫌いなのである。貫地谷しほりは、新進の男優と恋愛関係にあるが、彼女が妊娠したとき、妊娠の事実を知った男が、予想に反して子供を生んでもいいと言ってくれたにもかかわらず、彼女は中絶のほうを選ぶ。それは売り出し中の恋人の今後にマイナスになるであろうから、自分から身を引くというけなげな態度にもみえるのだが、同人、それによって再生産を阻み、血縁的継承を阻止して、クィア・タイムを実現したことにもなる。


かつてフーコーは、ヘテロトピア(さまざまな人びとが、たがいに圧迫することなく共存するユートピア的空間)について語るときに、「船・客船」をその一例(とはいえかなり特権的な一例)として提示していた。これはさまざまな出自や階層や文化の人々が、大きな客船という空間に一堂に会することで、ヘテロトピアを実現することになったということだったが、私たちはここで海、船、というイメージが男性同性愛を強く暗示することを忘れずに思い起こすべきだろう。フーコーにとって、ある種理想的なユートピアとは、同性愛者がつどう、ホモトピアならぬ、クィアな時空間そのものなのである。


こう考えれば4人もしくは5人がシェアするこの空間は、まさにフーコーのいうヘテロトピアというよりも、名称を変えて(だがフーコーも喜んでくれると思うのだが)、クィア時空間あるいは端的にクィア・タイムといってよいのである。実際、この空間がモラトリアムと異なるのは、住人たちは、あらたな可能性、あらたな生産と再生産秩序に組み込まれて、そこを出てゆく、あるいは関係を解消するのがモラトリアムとするなら、これも映画の最初のほうで小出恵介がいうようなループとしての時間を組織し、そこにあくまでもとどまりつづけるのがクィア空間なのである。この映画のなかで、4人もしくは5人の関係が解消しないのは、一種の不気味さをたたえつつも、モラトリアムとその解消という成長物語や再生産秩序に絶対に回収されれないありようを示しているからにほかならない。


彼らは個室というクローゼットから、もうひとつの新婚用マンションというクローゼットに出た。ひとつのクローゼットから出るのは、もうひとつのクローゼットに入ることでしかない(映画のなかで隣の占い師がしめす判断)としても、彼らの共同生活は、魅力的なヘテロトピアあるいはクィア時間として、これからもクローゼットを押し広げることになるだろう。