鈴音がうるさくて


昨年のことだが、ある人と話していたら、その人は、マイケル・ジャクソンのリハーサル映画に感銘を受け、たぶんマイケル・ジャクソンのファンでもあって、映画を超えたところにあるマイケル像も崇拝的にみていたのだが、これに足して、私は、あの映画のどこがいいのか、リハーサル風景を組み合わせた映像は、興味深いものがあるが、感動するとかしないとかいう次元ではないのでは。そもそも、いくら死んだばかりのスターの映像だとはいえ、そんなののはまっていては、おかしいと言ったところ、不覚にも、そう話した、すこし前に、『スノープリンス』(松岡錠治監督、日本版『フランダースの犬』)を見て、森本慎太郎君が、けなげで可愛い、思わず、不覚にも泣いてしまったと(映画そのものが映像的によかったところも多かったのだが、そこには触れずに)、そう語ってしまっていた私は、手ひどく反撃されてしまった。それって、要するに、子供がでてきて、動物がでてきて、老人がでてくるのでしょう。それで泣いた? そんなのは泣かせる映画の定番でしょう。そんなのに泣いていたら、映画会社の思う壺でしょう。泣いたらな、それはそうれでかまいわないのだけれども、その程度の人に、マイケル・ジャクソンの映画に感動したら、映画会社の思う壺だなんて、言ってほしくない、と。


ただ、それにしても音うるさい。


近くのシネコンは、東京都区内にある数少ないシネコンで、しかも、シネコンでありながら、ロードショー映画だけでなく、時折、ミニシアター系の映画も上映して、これはシネコンとしてはおかしいのだけれども、私にとってはとてもありがたいので、利用させてもらっている。ついつい見逃してしまう映画とか、急用が入って映画館に足を運べなくなることもあって、見ていない映画は多い。『牛の鈴音(英語のタイトルはOld Partner)』もそんな映画で、しかも本日が最終日。あわてて帰宅中に立ち寄った。


それにしても音が。


韓国のドキュメンタリー映画であって、子供こそ出てこないが、老人と動物が出てくる。泣かせる映画の定番なのだが、それでもかまわない。泣くつもりで、この映画を見に行った。


この映画の宣伝文句。公式のものではなく、映画関連のサイトから――

本年度韓国映画界最大の<奇跡>、待望の日本公開!耕作機械も農薬も使わないお爺さんと一頭の牛の物語が伝える。「ないこと」「遅いこと」は、こんなにも美しく温かい。


老いた農夫と一頭の牛の暮らしを見つめた『牛の鈴音』。ナレーションもなく大きな事件もおこらないこの静かな映画が、何と全てのドキュメンタリー映画の記録を塗り替え、韓国映画界に奇跡をおこした!スクリーンに映るのは、韓国の田舎の美しい四季、無愛想で頑固な老人、口喧しいお婆さん、山のような薪を背負い働く老いた牛。それは、忘れてしまった温かいものたち。ちりん、ちりんと鳴る牛の鈴音が消えるとき、「これを見て泣かない人は人間ではない」と地元紙が伝えた理由がきっとあなたの胸にも響く。

まあ、この内容紹介をみても、ありがちな映画なのだが、しかし、映像が、お涙頂戴のドキュメンタリー映画を、盛り上げるか、さらなる別の次元を切り開くか、台無しにする、ある意味、興味深いと考えてが、まあ、予想通り、映像が内容をもりあげていた。しかし、カメラは、透明性を保っている。そして映像を美しく構成する意図がよくみえる。しかしそうなるとドキュメンタリーと通常の物語映画との差がなくなってしまう。


ドキュメンタリー映画は極力作為を隠して、素材というか材料そのものに語らせないといけないのだが、同時に、ドキュメンタリーが記録するのは、撮影者も含めた現実なのであって、こうなると、対象が、あたかも撮影者がいないかのように行動するというのは、ドキュメンタリー映画にとっては理想かもしれないが、ドキュメンタリー映画を破壊する効果もあろう。そのため撮影者は、姿をみせなくても、声をだすとか、あるいは対象がカメラ目線になって語りかけてくるとか、そういうことをしないと、つまり撮影者の存在を感知させておかないと、映像が嘘っぽくなる。


その意味でこの映画は、映像というか構図を決めているところがあって、それが、さらにあざとい演出なり作為を意識させるところがあって、観客は苦しい選択に迫られる。作為と演出が気になりだしたら、どうしようもないが、いったんそれを積極的に忘れ――ロマン派の詩学の逆をいき、作り物であることをいったん忘れるというのではなく、記録であることを忘れ、つくりものと割り切ってしまうことで――俳優は一人も出ていないこの映画を、俳優を使った劇映画だと考えることで、泣かせることにかけては、おそらく日本映画よりも優れている韓国映画に身を任せれば、それで泣ける。……はずだった。


それにしても、音うるさい。


あれ、いまの紹介文のなかで、「ナレーションもなく大きな事件もおこらないこの静かな映画が……」とあるが、なに〜、静かな映画だと。ばかやろ〜。てめ〜、ほんとうにこの映画みたのか(耳障りな言葉をお詫びします)。


あの、この映画、途中からどうしようもなく意識せざるをえなくなったのだけれども、音がうるさい。音響効果が悪すぎる。全編、山間部(と思うのが)の農村とか農家の自然音を拾っていて、それを映画に流している。牛の鈴の音もそうである。私は音響の専門家ではないので、なんというか迷ってしまうのだが(あるいはまちがったたとえとなっても許して欲しいのだが)、普通のマイク、その感度を最大にあげて音を拾う場合、たとえば薄っぺらい紙が一枚、床に落ちただけでも、まるで天井から重いマットレスが落下したような音になるかもしれないし、人間の呼吸音がまるで風が吹きすさぶ嵐のように聞こえかもしれない。それを想像していただければわかろうというものだ。


この映画で自然音をひろっているのだが、それを大音響で流すために、はっきりいって静かな映画ではない。うるさい映画である。風の音が異様に大きい。チリン、チリンという牛の鈴の音も、本来なら、つまり自然にその場で耳にすれば、ある意味、寿命がつきかかっている牛の生命の最後のかぼそい響きのごとく、かそけく耳に響くのだろうが、それが大音響なので、音が鼓膜をひびかせる、鼓膜だけでもなく耳朶も、頬も、音波で揺らせるような、そんな強烈な高周波音となって、襲いかかる。助けてくれ〜といいたくなる。


実際、私は映画の途中から指で耳をふさいだ。もう早く終ってほしいと思った。幸い90分もない映画だったから、早く終ったのだが、泣くどころではない。耳鳴りがするような、音が頭にがんがんひびき、正直言って、映画をみて音を、こんなにうるさく感じたことはなかった。


理由を考えた。ひとつは、映画館では比較的前のほうに座った。前のほうでも映像的には全然問題なく、私にとってはけっこう理想の位置だった。しかし前すぎて、音響効果も映像と比例して大きくなったのか――だが、そんなことはあるまい。あるいは前日、ほぼ徹夜状態の仕事だったので、音が大きく聞こえる――しかし、映画が終ったあとの街の雑踏は、ほんとうにかぼそく聞こえて、驚いたのだから、私の体調不良のせいではないだろう。私の見たシネコンの不手際で音が大きくなりすぎた。私が運が悪かった。もしこれを自宅でDVDで見ていたら、音量を下げるだろう。実際、この映画は自宅で、音量を下げてみたほうが感動できると思う。映画館で見るべき映画ではない――つまりこの大音響は映画館のせいではなかったのだ。


どうかネット上でこの映画の感想をしらべていただきたい。感動したというような感想と並んで、音響効果がひどすぎるという感想がやまのようにあるのだ。それも私が見た映画館ではない、べつの映画館で見た観客が音のうるささ、大きさに音を上げているのだ。そう、この映画、ほんとうに音が大きくて、うるさい。この映画のなかで、老人は日常的にいつも頭痛を訴えいているが、見ている私も、音の大きさひどさに頭痛に悩まされた。ほんとうに頭が痛くなった。どうしてくれるのだ。


韓国映画は日本映画に比べて音響技術が劣っているのではないかというコメントがあったが、それはちがうだろう。技術的に差があるとは思えない。となるとこの大音響は意図的か事故かということになるが、事故ということもありうる。日本で上映すると音が大きくなるということは、使っている機材とかシステムの都合で、やむをえないことかもしれない。しかし、途中、一箇所だけ、中途半端な演出で、老人が、もともと耳が遠いこともあって、妻の言っている言葉がフェイドアウトするところがある。一箇所だけ。つまり全編大きな耳鳴りのような音響効果は、意図的であった可能性が高いが、それがなんだかわからない。耳の遠い、老人にもよく聞こるようにするためという映画会社の意図があるのかもしれないが。


そうもうひとつの比喩でいえば、耳がふつうに聞こえる人が、感度を最大にした補聴器を耳につけるようなもので、耳が遠い人ならちょうどいよい補聴器も、そうでない人にとっては、音が大きすぎて苦痛になるといえばわかってもらえるだろうか。


とにかく老人向けに音を大きくしたのか。そう健常者が補聴器をつけていて自然音を拾っているようなところがある。私はもう歳なのでモスキート音などは残念ながら聞こえない。それでもうるさいと思ったのだから、耳のよい若い人たちは、この映画、逃げ出すと思う。また感動したというコメントをネットで述べている人たちは、たんに業者の宣伝か、あるいは実際に見ていないか、あるいは、映画館のほうで、独自に音を調整したのかもしれないが。DVDで見ることをすすめる。あまりのうるさに思考が停止してしまった。