ニューヨーク・マラソン


1) パン屋襲撃


廣瀬満雄氏は、パンの発酵時に歌を聞かせることで有名な手作りパン製造業者で、18日の夜のテレビ東京の『料理の怪人』でも紹介され、その歌声を披露していた。まあ今でこそパン生地にむかって歌を聞かせるへんな、とはいえ人のよさそうなオヤジ、しかも腕は確かという人物として時折テレビ紹介されるのだが、一昔前というか、二十世紀終わり頃には、いまでは想像もつかない、強烈な怒りオヤジ・キャラでテレビに露出していた。


たとえばそのパン作りの現場に若い女性レポーターが一時的に入門修行する。そして彼女の態度が悪かったり、また彼女が無神経な作業で失敗したりすると、ものすごい雷を落として、現場の緊張感を一気に高めていた。あるいはパン屋を開くために修行に入った男性を、徹底的にしかりまくって鍛えたりしていた。とにかくどこかでぶち切れ、叱るのだが、猛烈に怒鳴って叱るために、見ていて、そう、とっても面白かった。本人もそのことを意識して、怒り怒鳴りキャラを強調しているようにみえたし、テレビ局も、その強烈な怒りをフューチャーする番組づくりをすべく、わざわざ、ちゃらちゃらした若い女性レポーターにパン作りをさせて、雷が自然に落ちるような工夫もしていた。


そんななか、いかにもテレビ局が考えそうなことなのだが、非行に走った若い女の子が更正して社会復帰する準備の一環として、廣瀬氏のパン屋で修行をするという企画があった。基本的に不良少女の生き方を引きずっているので、およそ更正して社会で一人前の大人として生活や仕事ができるようにはみえない。廣瀬氏が何度雷をおとしても平気で、そのふてくされた態度はエスカレートの一途を辿っていた。しかし、そうした彼女に転機が訪れる。いやいやでも、つらく厳しい修行をしているうちに、彼女の、心が折れて、態度をいれかえるようになる。以後、彼女は、それまでとはうってかわって、まじめに熱心に仕事をするようになり、責任感ある大人の女性へと変貌を遂げる。めでたしめでたしということだった。


で、その彼女の心が折れる契機となった出来事。それは、パン屋の店先に立たされ、声を張り上げて、客の呼び込みをすることだった。彼女はいやいやながらも、決められた言葉を大きな声で連呼して、客を呼び寄せる。その呼び込みをしている途中に、彼女がもう耐えられなくなって泣き出してやめてしまう。彼女の心が折れたのである。路上での呼び込みが、彼女にとっては、あまりにも屈辱的で、もはや抵抗する心、反抗心すら消えてしまったのだ。それがきっかけとなって、彼女は、従順で熱心な修行者へと変貌をとげてゆく。一度彼女の心は折れる必要があった。それがこの呼び込みだった。若い女の子にとって、路上で、見知らぬ買い物客にむかって大声をはりあげることは、どれほど恥ずかしく、屈辱的なことだったのだろう……。


だが、私はこのとき、テレビ局の企画の馬鹿馬鹿しさに怒りすら覚えていた。


彼女は、どういう呼び込みをしていたのかというと、その店のパンは、「100パーセント国産小麦粉でつくったパン」だと宣伝しているのである。テレビ局のバカ放送作家やディレクターは、ここぞとばかり、この宣伝・呼び込み行為が彼女の反抗心をくじくところを待ち構えていたかのようにヴィデオに収めるのである。だが、待った。彼女が何といっていたのか――「100パーセント国産小麦粉で作ったパン」なのだ。


テレビ製作者のバカどもは、この「100パーセント国産小麦粉で作ったパン」のすごさが全然わかっていなかった。つまり国産の小麦粉はほとんどが麺類にまわる(したがって国産小麦粉を使っていない讃岐うどんには唖然とするしかない。讃岐うどんに日本のうどんを代表してほしくない。讃岐うどんは、国産小麦粉を使っていないから、価格が安いのである)。そのため麺類外のもの、たとえばパン類に国産小麦粉がつかわれることはめったにない。廣瀬氏の店では、国産小麦粉を使ってパンをつくっているというのは、すばらしいことで、これはみんなに触れ回ってよいような、大いに宣伝すべき、よいニュースなのである。しかるに、テレビ局は、このことを全く理解できないまま、ただ大きな声で宣伝することが女の子にとって屈辱的であることを強調するのみであった。


たとえていえば、「死んだイエス様が復活しました」という知らせを大声で街の人びとに触れ回りながら、伝える内容のことは全く理解せず、ただ、〈大声で触れまわるなんて、なんて恥ずかしい、こんなことは二度としたくない〉と思う者がいたら、こいつは馬鹿である。というか、そんなことはありえない。奇跡の知らせを触れ回りながら、そのことを恥ずかしいと思うことはありえない。そのありえないことがテレビではおこっていて、「国産小麦のパン」という、ある意味、奇跡に近いパンの宣伝をしながら、大声をあげて客寄せすることが恥ずかしいと女の子は泣き出すしまつなのだ。愚かさもこれにきわまれりというところであろう。ほんらいなら「国産小麦でつくったパン」は、大いに自慢して誇らしげに宣伝してしかるべきものなのだから。


2)農薬飲ませろ

で、何がいいたいのかというと、『牛の鈴音』――またもや。あのなかで老女は、頑固者の夫に、田んぼに農薬をつかえばいいじゃないのと、何度も言い続ける(このくそババア、うるさい、いいかげんに文句をいうなというようなネット上の反応があったが、これはたぶん、音がうるささ過ぎて、見ている側がいらいらしているがゆえの反応だろう――音うるさい)。しかしせっかく無農薬農法をしているのに、作っている側もそれを意識せず、また消費者側も無頓着なのは(無農薬の米は、正直って、通常の米よりも高いが、映画をみるかぎり、どうも高く売ってはいないようだ)は、愚かさのきわみである。先ほど述べたように、奇跡の知らせを触れ回りながら、内容にはまったく無理解で、大声をあげて走り回るのは、なんとも恥ずかしいと考えたとしたら、愚かさのきわみだろうが、農作業の実態と生産物――要は農業全体――を、まったくどうでもいいうすぺらな書割、あるいはたんなる契機として、頑固者の老人夫婦の行為にのみ還元するのは、無知と愚劣さのきわみであろう。形式主義の勝利といってもいいが、それも度を越すと、愚劣さと同列になる。


形式主義の勝利というのは、たとえば内容が尋常ではなく素晴らしいとか、尋常ではなく悲惨であっても、それにまったく無頓着で、ただ形式的特徴のみを追求し強調することである。奇跡の知らせを触れ回ることを、内容など関係なく、触れ回り行為のはずかさしのみを強調したり、構図が美しいとか、全体に清涼感があるとして、描かれる内容がたとえば陰惨な幼児虐待であったとしても、知らん顔をすることと考えてもらえばいい。内容軽視は、最終的に、愚かさと紙一重となる(もちろん内容重視は道徳主義に陥ったり、芸術のイデオロギー的使用にもなることはあるのだが)。農薬を使う/使わないのモチーフを、農業と食にかかわる社会的文化的問題への回路とすることなく、ただ頑固者夫婦の日常と象徴行為に還元することは、ある意味、無知、ある意味、犯罪的でもある。


さらにいうと、この映画のなかで、農薬を使わないのは、牛のえさとなる草が農薬に汚染されてしまうからと老人は主張していた。隣の田んぼでは、ごくふつうに農薬が散布されている。当然、牛に有毒な農薬漬けの植物は、人間にとっても有毒であり、農薬を使った農作物は、人間にも有毒であるというかたちで、議論なり、あるいは含意なりが生ずるかと思うと、牛への優しい心遣いということで終ってしまう。


いわゆる「狂牛病」の原因も、映画のなかでは、農薬に汚染されたえさを牛が食べたのではないかという暗示がある(もうひとつの暗示は、アメリカ産の牛肉の汚染――韓国の反米感情がよくでいて、その点では、親米右翼しかいない日本よりも韓国のほうが健全である)。だが、農薬の問題を牛にのみ還元して、牛もふくむ人間の食文化へと広げないのは、結局のところ、内容を軽視して、内容を形式的表現の材料としかみない形式中心主義の愚かさでしかない。


じっさいのところ、食問題のドキュメンタリー映画というのは、けっこうつくられていて、わたしたちはそれによっていろいろ教えられてきた。この映画は、農業と労働と農業従事者がテーマで、食問題がテーマではないが、それにつながるような配慮などなく、むしろ内容軽視がみられるのは残念である。音の使用法のうるささ、その無神経ぶり(と考えるのだが)とあいまって、この映画は、どこか無神経なのである−−内容面において、現実把握においても。