防衛機構


ネタバラシはしないつもりですが、ついついネタをばらしているところがあるかもしれないので、シャッターアイランドの原作あるいは映画をご覧になってから読んでください。


映画『シャッター・アイランド』は、原作を読んでから見たので、二度目に見たようなものである。映画化に際しては、設定を大きくかえる場合もあるから、必ずしも原作と同じではなく、全くの新作を見るというような印象をもつこともあるが、今回の映画化に際しては、はっしょっている部分(たとえば原作にはたくさんでてくる暗号などは最小限にすませてある)もあるが、大筋、設定は踏まえているし、原作を読んで抱いていたイメージと、映画のイメージはそんなにかわらなかった*1。そのため、まさに二度目に見ているようなものである。この映画をみた人は、おそらくもう一度みても十分に楽しめると思う。たとえば、最初にディカプリとマーク・ラファロが病院に到着するとき、護衛たちが妙にぴりぴりしている。はじめて原作を読んだときは、なにか秘密が隠されていて、その露見を恐れて護衛たちが緊張でもしているのかと思ったが、この映画をみたときは、二度目にみたようなものなので、その理由も明確にわかった。ただそれにしても、原作を読んでからみる(あるいは一度この映画を見終わってから、もう一度みる)と、同じ景色が違ってみえる。もっと正確にいうと二重見えるのはなんとも面白い。原作を読んでから見るか、見てから原作を読むか、あるいは見てからもう一度見るか。とにかく二度見るべきである。面白さもががってくる。


原作は、いわゆる倒叙物だが、その部分はきちんと映画化されている。たとえば同じ倒叙物でも日本映画の『ハサミ男』は、原作の映画化不可能な設定ゆえに、原作のからくりとはちがったものになっているが、『シャッターアイランド』はそんなことはない。また妄想部分が、妄想としてカッコに入れられて提示されるわけではないから、妄想と現実の部分の境界がみえなくなる映画でもあって、私なりに考えるとデイヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』とか『マルホランド・ドライヴ』、あるいは『ファイト・クラブ』とか、されには『ビューティフル・フレンド』といった映画を連想する。これ以上は、ネタバレになるので、やめる。原作の文庫版の翻訳によると、原作もアメリカで発売されたときには、最後の結論部が袋とじになっていたとのこと。また映画にも、結末はあかさないでほしいというメッセージがでる。最後のどんでん返しが面白いということだろう。


逆に、最後のどんでん返しがあることを知らないと、見ている側は、途中からわけがわからなくなって漂流するというか、迷宮に入る。小説を読んでいる場合には、読者の情景想像力は最初から不安定なので、語りのゆらぎや不安定さ(倒叙物にあるような)は、あまり目立たないが(つまり車にのっていると地震があってもわからないようなもので、最初から不安定な場合、周囲が不安定になっても意識されたないのだが*2)、映画の場合は堅固な現実の映像ゆえに、物語の提示が不安定になると、そのことが悪夢的な印象なり難解でついていけないという印象を強めるかもしれない。そこで映画館では、メッセージを発していて、平行線に斜めの短い斜線をつけてゆくと、平行線が平行に見えなくなるという有名な錯視像を提示して、人間の脳は、まさに誤った印象を抱いてしまうかもしれないというメッセージを、本編とは関係なく、まあ配給会社なのだろうが、出している。さらには映画が始まる直前に、結末は絶対に明かさないで欲しいと念を押されてしまう。


しかしこの映画のトリックの部分は、脳が誤って記憶なり認識してしまうということではなくて、むしろ防衛反応である。精神分析でいう防衛機構defense mechanism。この精神分析の基本的な用語を、翻訳も字幕も、きちんと訳していないように思えたのだが、いうまでもなく防衛機構というのは、1)転移(たとえば自分が、たとえばXさんに対して憎しみ(愛情でも同じなのだが)を抱いている場合、Xさんが近くにいなかったり、死んでしまったりする場合、べつのYさんに自分の感情を振り向けること。怒りの場合には、八つ当たりとして知られるているもの)、2)投影(自分が抱いている感情を他人に投影して押し付けてしまうこと。たとえば私がXさんを憎んだり、愛したりしている場合、私ではなくXさんのほうが、私を憎んだり愛したりしていると思い込むこと)、そして3)スクリーン・メモリ(つまり実際に起ったことを認めたくないために、自分で捏造した偽りの記憶)。


この防衛機構はなんでもする。たとえば私が憎んでいるYさんは、実際にはXさんの身代わりになっていて、ほんとうならXさんを憎むべきなのに、私はYさんを憎んでいることになるのだが、私が真に憎むべき相手Xさんは、実は、私自身のことである……というような、錯綜した関係、自他の境界が崩れてしまうような関係が出現するだろう。


こう考えると、この映画では防衛機構が全開していることがわかる。そしてこうした防衛機構の目的は、自分を免罪することである。自分は加害者ではなく被害者である、そう信ずることによって自分を倫理的に守ることができる。あるいは自分を勝たせることになる。と同時に、防衛機構ということを意識的にテーマとしてとりあげる映画なり文学作品があるとすれば、少々、困ったことにもなりかねない。


たとえば『消されたヘッドライン』という映画がある。もともとはテレビドラマだったものを映画化したのだが、新聞記者が合法的取材と違法な取材の間を綱渡りしながら真相を暴いていくこの映画では、最終的にアメリカ社会あるいは政治の腐敗が露呈すると思いきや、すべてが個人的動機に基づく犯罪というように、腐敗を個人に収斂させてしまう。システムが腐敗しているのは大問題である。個人が腐敗することはよくあること、ありきたりなことである。ここでは個人に全責任を押し付けて社会やシステムを無傷のまま残している。まさにこれが社会を免罪する防衛機構なのである。


同じことは『シャッターアイランド』の主人公ではなく、映画そのものについても指摘できる。映画が防衛機構を発動させている。たとえばこの映画のなかで主人公を苦しめる強制収容所ホロコースト場面。1952年から54年という時代設定は、戦争の記憶をまだ色濃く残す時代であり、主人公が戦争のトラウマから逃れられないとすれば、これは、いまひとつのおかしくなった帰還兵というアメリカ映画の系譜につらなるものである。またさらにいうと、戦争ばかりつづけているアメリカにとって、帰還兵は街に溢れているわけで、第二次大戦後さらには朝鮮戦争終結直後という時代設定ながら、現代のアメリカにもつながる一面をもっている。この映画は、ある意味、アメリカのナショナル・アレゴリーにもなりうる面ももっているのだが、ご安心ください、第二次大戦後の、あるいは現代のアメリカ社会の暗いナショナル・アレゴリーになる前に、すべてを個人の精神的問題にすりかえ収斂させるため、防衛機構が首尾よく仕事をしてくれて、社会や歴史を免罪しているのである。ホロコーストの死骸が、個人の犯罪のアレゴリーとなる。その逆ではない。ホロコーストは、ただの引き立て役なのである。


この映画の最後には、原作にない台詞を一言だけデカプリオに言わせている。この台詞は、かなり効いていて、1)原作とは異なる結末にするという防衛機構を働かせているともいえるし、2)原作では謎の部分に説得力のあるかたちで解答をあたえたという、すぐれたものである。つまり最後の台詞で、デカプリオは英雄になる。原作にはなかったことだ。原作では、デカプリオは英雄ではなく、むしろその対極にある。そのためデカプリオ個人に端を発するさまざまな問題を、彼を英雄にすることでシャットアウトしている観がある。まさに防衛機構である。


しかし、またこの英雄の可能性は、実は原作にも胚胎していた、あるいは隠されていたともいえ、原作を変えたというよりも、原作における可能性を開花させたともいえる。つまり原作では、なぜ反復が起るのか医師たちには謎であった。読者にも謎であった。強いて言えば、狂気に呪縛される人間の運命のようなものが前提とされていた。しかしこの映画では反復が起ることの理由を明確にしている。つまりデカプリオは目覚めていた。そのため無意識のうちに反復してしまうというよりも、意識的に反復している――つまり長い自殺であったということが最後にあかされるのである。映画のこの結末は、やや感動的である。でも同時にそれは英雄ではない人間を英雄視する防衛機構ではないか。


そう防衛機構であるというメタ的観点を導入した映画は、みずからが防衛機構ではないかという批判的視線を招きいれてしまうのだ。なぜ防衛機構なのか。それは自己を免罪するためである。悪いのは自分ではない。他人なのだ。これがすべての防衛機構発動の根拠だとすれば、同時にまた、検閲の問題もある。自分の悪を認めないために心的検閲が入った結果、防衛機構がはたらくと考えれば、同じことは個人の心的問題を離れ、すべてのエンターテインメント系作品にもいえる。文学であれ映画であれ、防衛機構の産物である。したがって、それが防衛機構をはたらかせて、真の問題をすりかえるイデオロギー的効果をもつと指摘しても、はじまらないのであって、むしろ検閲による歪曲と考えて、歪曲以前の問題をみるべきであろう。


とりわけ防衛機構を意識化するこのような映画では、もはや防衛機構は働かないとみるべきである。つまり全ては防衛機構の産物であるとなれば、それは映画もまさに防衛機構の産物であり、真実は、検閲によってゆがめられているというメッセージを発するからであって、偽りの結末に騙されるなということ、そして映画のなかで最終的に妄想として切り捨てられていることのなかに、実は真実はあるということ、これが映画のメッセージとなるのであれば、防衛機構は破綻しているのである。映画は、どこまでも真実を語っている。あたかもそれが嘘であるかのように。


となってくると、この映画を、帰還兵ジャンル以外のもうひとつの精神病院ジャンルとしてもみるべきであり、そうなると精神病ジャンルの由緒正しい系譜によれば、精神異常者のみが真実をみるということであった。そして精神異常者が正しくみる真実は、狂気の産物として否定されるということもこのジャンルの特徴であった。帰還兵ジャンルと精神異常者ジャンル。このふたつを組み合わせるとどうなるのか。


この男は、映画のなかでは凶暴な男、凶悪犯として恐れられている。しかし、彼は映画のなかでは加害者というよりも被害者である。ダッハウの収容所を解放したときには看守たちをその場で射殺したという非合法的殺人がおこなわれるが、戦場でもあり、またホロコーストの重大さにかんがみて問題にされなかったようだ。妻の子殺しに責任はあるかもしれないが、実際に殺したのは妻である。そして子殺しの妻を殺害したもの、衝動的なものであり、狂気におちいった妻を、悲しみと怒りのなかで殺すのは、罪であるとはいえ、理解できないわけではなく(ミソジニー的に女性を犯罪者として処刑するとも、逃れられない狂気から彼女を解放したともいえる)、同情に値する。にもかかわらず凶悪犯として恐れられているのは、彼がこしらえている自己ヴァージョン、つまり観客がみさせられている彼の自伝ヴァージョンとは異なり、ほんとうはもっと凶悪な犯罪者なのではないか。そこには深い闇がある。


と同時に、彼の戦争体験で重要な意味をもつ大量虐殺されたユダヤ人の死体の山。以前、『戦場でワルツを』について語ったとき、最後に登場するパレスチナ難民の死体の山(実写)は、いっけんイスラエル軍部の暴虐を批判するかにみえて、まったく逆で、収容所のホロコーストと重ね合わせるかたちで、中東におけるイスラエルユダヤ人の可能性としてある恐怖の運命(周辺アラブ諸国による攻撃と虐殺)を連想させ、防衛軍としてのイスラエル軍部の必要性を肯定するようなものであった。これが防衛機構以外のなにものでもないのは、パレスチナ難民を虐殺したのはレバノンキリスト教系マロン教徒の狂信者集団であったとしても、難民虐殺は、イスラエル軍のプレゼンスなくしてありえなかったという重要な事実あるいは犯罪が抹消されているからである。


同じことは、この映画のなかのホロコースト犠牲者の死体の山についてもいえないだろうか。主人公は、これをナチスの暴虐の証しとして捉え、さらには、そこに妻の子殺しを重ね合わせている。ポイントは、彼自身は免罪されていることだ*3。むしろこれは彼が防衛機構をはたらかせた結果ではないのか。なるほどホロコーストナチスの行ったことだが、それをアメリカが引き継いだ。原作において語られる妄想とは、ナチスの非人道的人体実験と大量虐殺は、ソ連の非人道的人体実験と大量虐殺を経て、アメリカにおける非人道的人体実験と大量虐殺に引き継がれたということである。ナチスと戦ってきたわれわれは、いったい、なんだったのか。アメリカにはナチスの残党がいて、彼らをアメリカ社会が積極的に利用しようとしている。このシャッター・アイランドは、非米活動委員会とも関係していて、そこを経由するかたちで資金援助してもらっている。すべては、狂気のなせる妄想かもしれない。と同時に、狂気の者だけ、見極められる真実かもしれないのだ。


重要なのは、シャッターアイランドの医師のなかにマックス・フォン・シドーが、ドイツ人医師としてまじっていたことである。たぶんスコセッシ監督はよく知っているように、1950年代から60年代にかけてのアメリカ映画は、ドイツ人科学者とか軍人(ナチスを思わせるような)がよく登場していた。彼らはナチスとは関係がないことがわかるものの、それまでは強烈にナチス的なものを発散させていたのである。アメリカ映画は、その防衛機構あるいはフロイト的否認を通して、ナチスの残存を証明していた*4――つまりここにいるドイツの科学者はナチスではありませんというかたちで。そしてさらにいえば戦後のアメリカが、ナチスと戦ったにもかかわらず、逆にナチス化したことを暗示しているのである。


冷戦期、いくら社会主義共産主義の浸透を防ぐとはいえ、アメリカは、数多くの民主的政権を倒してきた。アメリカのせいで「民主化」という言葉が悪い言葉になったのは許しがたい。もちろんアメリカによれば、アメリカが倒してきた民主政権というのは、実は社会主義政権であったというだろう。それが真実だったとしても、では、なぜ社会主義と戦うために、あれほどおおくの独裁政権を支援し、独裁政権下であえぐ人々を見殺しにしたのか。独裁政権を支援して社会主義と戦う? やっていることはナチスと同じではないか。戦後アメリカの歴史は、ナチス化の歴史と同じであった。この映画のなかで、従軍したデデカプリオがみるダッハウ収容所の死体の山、その死体の山を築いたのは、ナチスだけではない。これまで、いまにいたるまで、おびただしい人間を殺してきたアメリカのナチス政権なのである。


したがって私にとって興味があるのは、主人公が真実に目覚めることよりも、アメリカ人が、いつ真実に目覚めるかということである。

付記:
もちろん、ここで終ったら、たんにアメリカという他者を責めているだけで、日本人を免罪することになり、私の思考も防衛機構に支配されていることになる。日本人もまた第二次世界大戦後は戦争こそしなかったが、その経済活動、政治活動のなかで、おおくの人々を殺したか見殺してきた。私たちの課題は、日本を免罪するような防衛機構と戦うことである。
またアメリカ人も真実にめざめているだろうが、それに気づかぬ顔をして英雄として死にたがるかもしれない。断固、それは許してはならない。
そしてこの映画は防衛機構の産物ではあっても、みずからの防衛機構を自意識化しているため、防衛機構からまぬがれている部分もある。そしてそれはまたエンターテインメント系映画の防衛機構が、防衛機構たりえているかどうか、むしろ喜ばしき破綻であるのかについてのの省察へと、私たちを誘うかもしれない。

*1:ちなみに俳優たちは、小説を最初読んだとき、あるいは読みながら思い描いた人物とは全く異なっていた。デカプリオ、マーク・ラファロ、ベン・キングズレー、ミシェル・ウィリアムズは、原作を読んで思い浮かべるような俳優たちでは全くなかった。デカプリオとミシェル・ウィリアムズ、この童顔俳優たちが夫婦役というのも面白かったが。

*2:まただからこそ倒叙物が成功するのだ。『ハサミ男』の場合、もうネタバレすると、読んでいると、犯罪者でもある語り手のことを男だと思うのだが、最後に実は女だったとわかる。だからこの仕掛けは、そのままでは映画化不可能でしょう。また思い返せば、たしかに男らしさとはべつに、男とは違う行動パタンなどがあるのだが、読者は、まさか女だとは思わない。つまり読者の想像とは、最初から不安定さとゆらぎを伴なうので、語られていることが変でも意識されないのである。あるいは想像力で整合的におぎなってしまう。

*3:もちろん間接的ということになれば、ハムレットのいうよに、すべての人間が犯罪者であることをまぬがれないのだが

*4:実はこの映画のなかで防衛機構という心理学上の概念を口にするのは、このマックス・フォン・シドー扮するドイツ人医師なのだ。