人見知り教師2


たまたまある同業者と話をすることになって、そのなかでさまざまに語られた他愛ない話題の中に、ふたりは別世界に住んでいることを痛感した話題(正確にいえば私のほうが別世界に住んでいることを痛感した話題)があった。


たとえば、テレビなどで、いろいろな俳優なりタレントなり(まあ文化人、キャスター、その他、誰でもいいのだろうが)、そういう人たちをみていて、この人たちは、素はどういう人なのだろうかとは考えないか。たとえば、その人と、居酒屋で酒を飲んだら、どんな感じかと思わないのかといわれ、ピンとこない。


たとえば特定の男女の俳優を好きになったり嫌いになったりするときには、その人物の演じている役柄とは関係ない(関係してたら、どこまでナイーヴかということになる)、むしろその人物の演技の幅に感動したりするのであって、その人物の素の部分が、どうであるかは意識したことがない。また意識しても、たとえば悪役が多い俳優が、実生活では、実直な善意の人だったり、人当たりがよかったりすることは、よくあることだろう。しかし、それがどうしたというのか。あるいはスター俳優となれば、どんなに純朴で情熱的な人物を演じて好感度が高くても、実生活では、どうせ傲慢なクズで、嫌な奴に決まっている。だから、私は俳優なりタレントの実生活は想像しないし、あくまでもそのパフォーマンスで評価するというようなことを語ったら、おまえはどこまで学者じゃといわれた。


そういうものなのかと不思議に思いながら、考えていたのだが、私の相手が、トイレに立って戻ってくるときに(居酒屋である)、隣の席にいった小さな女の子に向かって、お嬢ちゃんは、箸のもちかたがうまい、とってもきれいにもっているねと声をかけている。その子の頭をなでてはいなかったのだが、その女の子に向かって暖かく微笑んでいる。


なるほど、そうかと思った。やはり、私とは違って、誰にでも気さくに声をかけられる善い人なんだと思った。私などは、その隣に座っている家族らしきグループには気がついていて、深夜の12時をすぎに、小さな子供3人と食事(居酒屋で)しているこの夫婦は、なんちゅう親なんだとけちなモラリストになりさがっているのだが、その人物は、そのなかの女の子に親しげに声をかけている。まあ最近テレビなどに出ているタレントで、箸の持ち方がおかしい奴が多いからと、逆にあんな小さな娘がきれいに箸をもっているのは珍しいと話す(箸の持ち方について同じようなことは、子供のころ父親から聞かされたこともあって、まるで父親が生き返ったかのような印象をもったのだが、それはどうでもいい)。とにかく、見ず知らずの人にも自然に声をかけられ、それがなんら違和感ももたれないのだ。そう実にうらやましい。人見知りの教師の私には、絶対に、まねのできないことである。


だからであろう、タレントをみて、居酒屋でいっしょに酒を飲んだらどんな感じなんだろうかということは、酒には弱くて、酒が嫌いなだけでなく、人見知りの私には、絶対にうかんでこない思いなのだ。やはり住む世界がちがっている。人見知りの私が。人をみて、その人と話そうとか、話したらどんな感じなのだろうかとは、思いもしない。とにかく見ず知らずの人と話すことなど、義務か仕事かでなければ絶対にしないのだから。住む世界が違っている――私が。


付記:教室と実生活


以前、人見知りの私が講義の時間に、学生にむかって話をしていることを知って、驚いた同僚がいたことを書いた(「人見知り教師1」で)。不思議なことに、教室と実生活、あるいは舞台と楽屋が同じと考える人たちがいる。人見知りをしない、人当たりがよく、社交的な人たちである。こういう人たちと交わると最悪である。楽屋でも舞台でもまったく変わらずハイテンションだったり口数が多い人たちは、楽屋で物静かでも、舞台ではじける、という(まあ古典的な漫才師のパターンだが)、それを理解できない。だから、ふだん口数の少ないが私が、教室でも黙っているのではないかと(そんなことあるわけがないし、もしそうなら学生が問題にするし、私は解雇されている)本気で思ったりするのだ。まあ別世界の住人にはわからないし、そういうことが分からない無神経さ――というと喧嘩になるので――、まあ、無頓着さが、社交的な人たちの長所ともいえるのだが、いや、うざい。もちろん、むこうもこちらのことをうざいと思っているのは承知しているが。


人見知りの人間が、いつも適当に相槌をうったり、適当に話をあわせていると(自分では、話をすすめられる能力がないからだが)、そんないい加減な受け答えをしている学生は、教室では許されないでしょうと、言われた。だから、教室と実生活をいっしょにするな。社交的な人間は楽屋でしゃべりまくって、その勢いで舞台に出ていく。しかし人見知りの人間は、楽屋ではなるべく人と話したくないのだが、舞台でははじけるというか、そうしないと舞台にいられない。だから、たとえば楽屋でそんなに話さなかったり、もの静かだったら、お客さん帰っちゃうぞといわれるようなもので、舞台で黙っている馬鹿がいるかとしかいえない。同じく、教室で学生が、そんな受け答えをしたら許されないと、居酒屋で言われても(前述の女の子に声をかけていた人物とはちがう人から)いわれても、ここは教室じゃないし、授業でもないから関係ない。裏表、楽屋と舞台の区別がないおめでたい人間とは、できるだけ接触してはいけないこと(これは人見知り人間の鉄則だが)、これをあらためて思い知った。