最終定理?


私は数学については全く無知だが、去年か一昨年、フェルマーの最終定理に関する本を読んだことがある。もちろん素人向けの、数式を使わない本で、フェルマーの最終定理の証明がいかにたいへんだったかは書いてあるが、どのように証明されたのかについては、なにも書いていない――説明されても、素人には理解できないからだろう。


それはそれとして、証明ができてから定理として認められるのではないかと思ったら、最初に、まず定理があって、あとから照明がついてくるというは、主観も客観もない、まさに直観の世界。またそんな直観的定理を証明しようというのも、その定理が正しいと感じられたかということか。あるいはそれを提唱した人間が、戯れで、あるいは人を騙すつもりで、言ったのではないという信頼があってのことだろう。同じことは「***予想」という数学の世界での特異な主張についてもいえる。証明できなくても予想できる。そのためその予想が正しいか正しくないかを証明する。となると、こんなことをいうと、数学のほうからは嫌がられかもしれないが、やっていることは文学研究とか批評と同じようなものだ。


たとえば本日、GW中に演劇関連の研究会をしていて、そこで、20世紀のある戯曲が、シェイクスピアの『テンペスト』のアダプテーションではないかと、そのことを検証すると(ただしそれだけが研究会の目的ではないのだが)、あらかじめ言い渡されたので、そのための準備をした。


テンペスト』は、私が昔から研究しているシェイクスピア作品で、それとの関連でなにかいえるというのは、実に興味深い。そのアダプテーションではないかという芝居は、昔読んだのだけれども、内容はすっかり忘れていて、しかも『テンペスト』との関係に全く気づかなかったので、準備の段階から、興味津々、知的刺激を最大限受けながら、すっかり忘れていた作品を読み返した。


しかし、すぐさま、私は頭をかかえた。このどこが『テンペスト』なのか?嵐はでてくる。でもそれだけじゃないか。『テンペスト』とは筋書きも似ても似つかない。しかし『テンペスト』のアダプテーション説を提出した人は、いい加減な思い付きを言う人ではない。信頼の置ける人であり、その批評判断には、私はいつも一目置いている。だから、無責任な思いつきであるはずがない。この作品と『テンペスト』とを結びつけるもの、なぞかけのようなものだが、つまりX作品とかけて『テンペスト』ととく。その心は、どちらも……。わからない。答えがでない。まったく整わないまま、研究会を迎えた。


その人の説明を聞いたが、わからない。それは理屈にも、理由にもなっていない。結局、その作品は『テンペスト』のアダプテーションではないということになった。なんのこっちゃい。私にとっては、超難問で、解ければ嬉しかったのだが、そもそも解がなかったのだ。もちろん解がないことを、見抜けない私が最終的にアホじゃといわれてもしかたがないのだが。


なおその作品は『テンペスト』ではなく『十二夜』のアダプテーションではないかという発言があった。もちろんアダプテーションという面から考えなくても、いろいろな議論はできるのだが、またアダプテーション研究の悪いところは、なにのアダプテーションかの発見が最終審級になってしまい、そこから先にすすまないことが多いことだが、『十二夜』のアダプテーションというのは、その作品にも、またひるがえってシェイクスピア作品にも光をあたえる重要な指摘である。私が最初に指摘できなかったのは、残念だが、ちょっと簡単な論文が書けそうな指摘ではあった。