批評の復習1

(短期集中連載)
大学の授業での、内容そのものではなく、脱線の部分で話そうとして、話すチャンスがなかったものを、プリントで配ったりしている。ここにその一例を載せようと思う。おちゃらけた話だが、批評理論の確認にとしては有益であると考えている。


文学理論の復習松尾芭蕉の有名な俳句のひとつに

 古池や  蛙(かわず)飛び込む  水の音 

という有名な一句を材料に、これまで紹介してきた理論による典型的な解釈・分析法をみてきます。


なお、あまりに有名な句なので、それとはべつに、私の知人(ほんとうに知人で、私ではありません)が、おちゃらけで作ったヘボ俳句も紹介して、比較参照の材料とします。

前ふり:以前、夏のことでしたが、大学の文学部3号館のエレベーターホールで、私の前に立っていた人物が、後ろを振り向くまで、柴田元幸先生であることに全く気づかずにいたことがあります。それは柴田先生が半ズボン姿であったため、私が柴田先生を学生と誤認して、同僚なのに挨拶もしなくて、とんだ失態を演じたということがあり、それを知人に話したところ、いまもずっと憶えていて、最近、俳句に凝っているその知人が、居酒屋でこんな俳句をつくりました――
 

*原書読む 柴田元幸 半ズボン


 解説:まあ、名前が七文字の人は多いので、名前を俳句に盛り込むのは簡単ですが、一応季語もあります。「半ズボン」は夏の季語です。たぶん柴田先生はもう半ズボンははかれていないと思うのですが、勝手に空想した、まあ妄想したともいえる情景が面白いし、さわやかな感じもします。これを名前をかえて、たとえば
*原書読む 内野儀の 半ズボン 【「うちの・ただし」と呼びます。架空の人物です】


この場合、内野儀というのが6文字なので、「の」を入れています。こうなるとなんだかさわやかさが消えて、気持ち悪くなります。「の」は、所有の「の」ではなくて、切れ字の「の」なのですが、所有の意味にもとれて、「内野儀の半ズボン」となって、ちょっと気色悪い。


さてこれを
新批評的読解 

芭蕉の句:パラドックやテンションに着目します。それは静かな池(静・永遠)と、蛙が飛び込む水の音(動・一瞬)の緊張関係があります。静止と運動。静寂と音。古さ(過去)と今(現在)、永遠と一瞬、こうしたものが絶妙なバランスで緊張関係をともないながら存在します。あるいは見えている景色という視覚面と、飛び込む音という聴覚面(飛び込む姿ではなく、「音」であることも重要です)との緊張にみちた共存がみられます。


この緊張関係は、あらたな変動を呼び起こすことはなく、すでにある状況を一瞬ゆるがせても、すべてが元に戻るという、変化と不易の緊張関係にも貢献しています。古池に落ちる蛙ですから、大海原にぽちゃんと落ちるカモメのウンコよりは何か変化を起こします。しかし崖から池に巨岩が落ちて小さな池が埋まってしまうわけではないので、大変動ではありません。変化は認められるが、またすぐにもとの状態に復帰する。その絶妙なバランス、あるいはちょうどいいバランスがこの句のよさであるといえるでしょう。


ヘボ俳句:原書というと外国語の本ですから、読書には精神的集中がともないます。いっぽう半ズボンというイメージは肉体的です。精神と身体というふたつの要素が、柴田元幸という人物を介してバランスをたもっています。さらにいうと原書を読むという緊張感と、半ズボンというリラックス感との、緊張に満ちたバランスも見て取れます(とはいえ、実際に柴田先生の行動をみて作った俳句ではないので、誤解のないように。柴田先生には、この妄想劇場に出演していただいているというかたちになり、まあ、申しわけなく思っています)。


パラドックスとしては、自分の能力を最大限発揮するには、緊張するのではなく逆にリラックスするほうがいいということかもしれません。原書を読むとき正装して(まさにエリを正して)厳粛な趣で机に向かうよりは、半ズボンで、あるいは寝っころがって読んだほうが、読解能力が発揮できるということもいえます。緊張とリラックスは実は共存するとも読めます。


内野儀は架空の人物ですから、同姓同名の人がいても、偶然の一致で、悪意はありません。(つづく)