批評の復習2

批評の復習2
(短期集中連載)

文学理論の復習松尾芭蕉の有名な俳句のひとつに

 古池や  蛙(かわず)飛び込む  水の音 

という有名な一句を材料に、これまで紹介してきた理論による典型的な解釈・分析法をみてきます。


なお、あまりに有名な句なので、それとはべつに、私の知人(ほんとうに知人で、私ではありません)が、おちゃらけで作ったヘボ俳句も紹介して、比較参照の材料とします。

前ふり:以前、夏のことでしたが、大学の文学部3号館のエレベーターホールで、私の前に立っていた人物が、後ろを振り向くまで、柴田元幸先生であることに全く気づかずにいたことがあります。それは柴田先生が半ズボン姿であったため、私が柴田先生を学生と誤認して、同僚なのに挨拶もしなくて、とんだ失態を演じたということがあり、それを知人に話したところ、いまもずっと憶えていて、最近、俳句に凝っているその知人が、居酒屋でこんな俳句をつくりました――
 

*原書読む 柴田元幸 半ズボン


 解説:まあ、名前が七文字の人は多いので、名前を俳句に盛り込むのは簡単ですが、一応季語もあります。「半ズボン」は夏の季語です。たぶん柴田先生はもう半ズボンははかれていないと思うのですが、勝手に空想した、まあ妄想したともいえる情景が面白いし、さわやかな感じもします。これを名前をかえて、たとえば
*原書読む 内野儀の 半ズボン 【「うちの・ただし」と呼びます。架空の人物です】


この場合、内野儀というのが6文字なので、「の」を入れています。こうなるとなんだかさわやかさが消えて、気持ち悪くなります。「の」は、所有の「の」ではなくて、切れ字の「の」なのですが、所有の意味にもとれて、「内野儀の半ズボン」となって、ちょっと気色悪い。


承前


ロシアフォルマリズム的読解 芭蕉の句:まず、形式そのものから考えてみます。これはふうつなら、蛙が古い池に飛び込む音がしたと、日常言語で語ることができるものを(新批評では、これは作品のパラフレーズにあたります)、それを5・7・5音に分解して定型詩としただけでなく、順番も入れ替えています。


まず「古池」が先にきます。これは主語の前に目的語がくるという、日本語の語順の反映かもしれませんが、同時に、「古池」という場面、ある種の舞台を構築しているのです。この舞台空間で、ささやかな事件が起ります。蛙が飛び込むのです。いま舞台空間といいましたが、これにこだわらなくても、凝視しているかぼんやり眺めているかにかかわらず、とにかく見られている空間というのがまず設定されるのです。そこに蛙が落ちてくる。もういうまでもないでしょうが、先の日常言語では、蛙が主語でしたが、これは蛙の目的語ではなくで、この池が主語そのものです。そして蛙が主語の場合とはちがったことが強調されます。蛙が主語なら、池に飛び込むのは能動的行為(蛙にとって)ですが、池が主語なら、これは蛙に飛び込まれることになって、受動的行為となります。つまりアクションではなく、パッション(受身)が強調されるのです。蛙が飛び込むのは、まあ、ふうつのことでしょう。その何の変哲もない行為が、飛び込む行為があれば、飛び込まれる受け身の何かがあることを強調している(異化している)ともいえます。そしてここから水の音は、どちらが立てているかという禅問答のような世界に発展してゆくのではないかと考えられるのですが、ここは、ここまでにします。


つぎに、この芭蕉の句は、ロシア・フォルマリズム的世界観を反映しているところもあります。「古池」というのは(池が「古い」というイメージは、専門家ではないのでよくわかりません。昔からそこにある? 見た感じが古い? ただの枕詞なのかもしれません)、これは自動化した世界、変化のない、常套的日常的世界です。そこに音がする。驚きが生ずるのですが、そのあと、自動化した日常化した世界に変化が起ります。池は、死んだような、古びた外観(でしょうか)をしているのですが、実は、音を出している。生きている。実際、蛙が飛び込む音を聞いたあとでは、またなにか音がするのではないかと耳をそばだてる。蛙が飛び込んだあとの古池は、前の古池と同じではない。同じ古池でも異化され、生きているように思えてきます。自然の光景は、静止していても生きているのです。


へぼ俳句:原書を読む柴田元幸というのは、ありふれたイメージかもしれません。自動化したイメージです。と同時に半ズボンの柴田元幸というのも、ありふれたイメージで自動化したイメージです(実際にそうであるかどうかは知りません。多くの読者、ファンには、半ズボン姿の柴田先生は異様にうつるかもしれません)。しかし、ふたつの自動化したイメージを付き合わせることによって、ふたつのありふれたものが見慣れぬものにかわるのです。


原書を読む人は、それなりに知識と教養がある人物で、その人物の読書行為には、えもいわれぬ高級感あるいはアカデミックな厳粛感が漂っています。ところが半ズボンというのは、たとえそれが超高級な半ズボンだとしても、日常的・身体的でその落差というのは驚きであり、また知的活動を異化しています。なぜ知的活動が、肉体的(快適な)行為として語られるのか。ここが問題となり、ここが異化の要となります。


おそらく、知的活動といえども、世界内存在で、身体的、日常的、生活的、環境的(夏は暑い、クーラーは嫌い)といったさまざまな要因をたずさえる世俗的なものであるということです。ここに注意を向けることで、あらためて知的活動はなにかを読者に喚起しているともいえます。


内野俳句についても、同様なことがいえます。ただ内野儀の場合には、半ズボンでも暑苦しいかもしれません(なお架空の人物ですから、同姓同名の人がいても、偶然の一致で、悪意はありません)。(つづく)