批評の復習3

(短期集中連載)


文学理論の復習松尾芭蕉の有名な俳句のひとつに

 古池や  蛙(かわず)飛び込む  水の音 

という有名な一句を材料に、これまで紹介してきた理論による典型的な解釈・分析法をみてきます。


なお、あまりに有名な句なので、それとはべつに、私の知人(ほんとうに知人で、私ではありません)が、おちゃらけで作ったヘボ俳句も紹介して、比較参照の材料とします。

前ふり:以前、夏のことでしたが、大学の文学部3号館のエレベーターホールで、私の前に立っていた人物が、後ろを振り向くまで、柴田元幸先生であることに全く気づかずにいたことがあります。それは柴田先生が半ズボン姿であったため、私が柴田先生を学生と誤認して、同僚なのに挨拶もしなくて、とんだ失態を演じたということがあり、それを知人に話したところ、いまもずっと憶えていて、最近、俳句に凝っているその知人が、居酒屋でこんな俳句をつくりました――
 

*原書読む 柴田元幸 半ズボン


 解説:まあ、名前が七文字の人は多いので、名前を俳句に盛り込むのは簡単ですが、一応季語もあります。「半ズボン」は夏の季語です。たぶん柴田先生はもう半ズボンははかれていないと思うのですが、勝手に空想した、まあ妄想したともいえる情景が面白いし、さわやかな感じもします。これを名前をかえて、たとえば
*原書読む 内野儀の 半ズボン 【「うちの・ただし」と呼びます。架空の人物です】


この場合、内野儀というのが6文字なので、「の」を入れています。こうなるとなんだかさわやかさが消えて、気持ち悪くなります。「の」は、所有の「の」ではなくて、切れ字の「の」なのですが、所有の意味にもとれて、「内野儀の半ズボン」となって、ちょっと気色悪い。


承前

受容理論的読解
芭蕉の句:受容理論といっても、新批評、あるいはロシア・フォルマリズムの読解を読書過程に変換したものであって、目新しい読解をするわけではありません。しかし受容理論と俳句は、よく似あう。なぜなら俳句は、読者の反応、あるいは受容の実際のプロセスを念頭に置いたジャンルであるともいえるからです。


つまり「古池や」と、古池ならびに「や」という切れ字によって、読者の期待の地平を形成します。それはまさに静寂が支配し、人工によって汚染されていない、またわびさびにも通ずるような世界あるいは状況です。こうして、ある特定の世界像、ある特定の方向性をもった世界を構築した次の瞬間、「蛙飛び込む水の音」と、動的な世界なり視覚的世界を展開して、「古池や」から生じた期待の地平を壊します。ずっこけさせます。落差をもちこみます。それが俳句の面白さです。17文字のなかで、まさに変化と「オチ」をつけるのです。それは読者が、最初の句で、たとえ一瞬でも一定の方向付けをもった世界なり地平を構築したからであり、読者へのこうしたひっかけ的導きが、この俳句ならびに俳句全般の面白みになっています。なおここから先は、新批評あるいはフォルマリズム分析と重なってゆきます。


へぼ俳句:これもロシア・フォルマリズムで指摘したように、「原書読む」で示される高級なアカデミックな期待の地平が、半ズボンの世界で、ずっこけてしまいます。もちろん柴田先生の半ズボン姿は、そんなに滑稽でも、異様でもないという場合は、期待の裏切りは、精神的活動のあとに、身体性との思いがけない合体ということになるでしょうか。期待の裏切りがこの句ならびに俳句全般の特徴です。


なお認識異化について考えると、「古池」あるいは「原書読む」で読者が受ける印象あるいは先入観は、「水の音」と「半ズボン」ではぐらかされ、崩れ落ちます。そして新たな地平が生まれるのです。それは新批評とフォルマリズムのところで書いたことです。


内野儀という人は、架空の人物です。同姓同名の人がいても、偶然の一致で、悪意はありません


自己参照的読解 self-reference/ self-referential reading
すでにプリントなどでも触れているのですが、「自己参照的」「自己言及的」ともいいます(英語表記はどちらもself-reference)。自己言及というほうがわかりやすかもしれませんが。これはどういうことかというと、作品が、それ自体について、たとえば作品そのもの、作者について、作品のジャンル、あるいは文学そのものについて、なんらかのメッセージを発信していると考え、そのメッセージを取り出すことです。あるいは通常の解釈のうえに、こうした解釈を上書きあるいは挿入することです。作品は、みずからのこと(俳句、文芸など)について語っているとみることです。


たとえば芭蕉の句ですが、これはどこかで目撃した光景を詠っただけではなく、同時に、そこに俳句についての、俳句の運命とか、俳句のありかたについてのメッセージもこめられていると読むことがことができます(実際に専門家の間で、そういう読み方がさなれているかどうか知りません)。


古池とは、日本語の言語表現、それも伝統的で日常化・自動化した表現です(なにしろ「古い」ですから)。この池と周辺が静かなら、その水面にささやかな音とさざ波をたてるこの小さな(たぶん)蛙とは「俳句」のことです。俳句とは、伝統的日常言語という池に落ちた小さな蛙そのものです。小さなものです、ささやかなものです。しかし一定の効果はあって、日常言語を活性化します。大きな変動ではないのですが、小さく日本語を活性化します。古池に飛び込む蛙の句は、日本語のなかにささやかな事件として生ずる俳句の運面とか作用を示す「俳句そのものについてのメッセージ」を含んでいます。


こういう俳句であるなら、この俳句は自己参照的/自己言及的であるといえます。またそうした自己参照性/自己言及性を取り出すのが自己参照的読解/自己言及的読解です。そしてその詩が、そうしたメッセージも持っているのだと、多くの人が納得すれば、その詩は、「メタ詩」metapoetry(「詩についての詩」という意味です)、あるいは俳句なら「メタ俳句」といえます。「メタ俳句」という名称は一般化していませんので、まあ忘れたほうがいいでしょうが。【なお古池が俳句の伝統、蛙が俳句に記録され詠われる日常的な小さな出来事、水の音が俳句そのものという解釈も可能です。】


あるいは半ズボンの俳句。これは原書を読むという、アカデミックな活動、外国の文献を読んだり翻訳したりする研究者や翻訳家の活動についてのメッセージを含んでいます。またそのようなメッセージがいかなるものかは、すでに新批評やフォルマリズムのところで述べた通りです。


形式主義を超えて
これまでのところは、形式分析でした。それぞれの特徴(重なり合っている部分もあるのですが)についてはわかってもらえたのではないかと思います。


しかし文学研究あるいは批評は、これだけではありません。

フォルマリズム的(形式主義的)分析ができない者は、バカだが、
フォルマリズム的(形式主義的)分析しかできない者は、もっとバカだ

これが今回のモットーです。今示したような分析は、誰にでも簡単にできます。ほんとうです。しかし、それだけで終ったのでは、文学批評や文学研究の意味がありません。


ここで思い出してもらいたいのは、いま現在放送中のテレビドラマ『臨場』です。(つづく)