グリーングラス・ゾーン


マット・デーモンが、ボーン物(第2作と、第3作)のスーパーヒーローぶりとはうってかわって、普通の兵隊である点が好感をもているというような評もあったが、いやいやけっこうスーパーヒーローぶり満載である。もちろん『パリよりも愛をこめて』におけるスーパー・アクション・ヒーローぶりにはかなわないが、あれは漫画だから。それにくらべたら現実の戦争と状況のなかでのマット・デイモンの活躍はすごいとしかいいようがない。もちろんそれは、いうまでもなくイラク戦争への大きな疑問を投げかけるとともに、『ハートロッカー』への明確なアンチを掲げる映画『グリーンゾーン』においてである。


実は『ハートロッカー』をみていたとき、出てくるヘリコプターがヒューイなので、ブラック・ホークは借りられなかったのかと思ったのだが、右翼の『ハートロッカー』と異なり、明確にイラク戦争批判を展開する今回の『グリーンゾーン』をみていたら、ブラックホークが出てくるのに驚いた。戦争批判の映画なのに、軍隊の協力を得られたのか、軍隊の懐の深さに感銘を受けたのだが、撃墜されるブラックホークが作り物であるのはいいとしても、特殊部隊を運んでくるブラックホークは画面に鮮明に映し出されていて、本物と思ったのだが、実はCGだった。画面をみている限り、CGだとは全然わからない。まあ戦争批判をしている映画だから、陸軍が協力してくれないのは当然なのだが、ヒューイを使って撮影し、あとでCGでブラックホークにみせたということらしい。恐るべしCG。


もちろんこれはCGが現実を作り上げてしまう怖さを指摘したいのではなく、軍隊の協力を得られなくても、CGによってリアルな軍事行動を再現して、その残虐行為ともども私たちに伝えることができるということだ。CGも使いようによっては、軍隊や戦争を肯定すもするし否定もするものとなる。要は使う側の姿勢ということだろう。


実際、この映画における多国籍軍(といってもアメリカ軍しかないなが)侵攻直後のバクダッドの様子は、その破壊されたかた、そしてその混沌ぶりが、きわめて現実的で、ほんとうにイラクにいるような錯覚すらうけるのだが、基本的にモロッコで撮影され、スペインでも撮影されている(ちなみに『ハートロッカー』はヨルダン、『ストップロス』はモロッコで撮影されている)。あとはCGを使えば、似たような場所を、現地そのものに変えることができる。要はそれで何を訴えるかであろう。


『ハートロッカー』のアンチといったのは、比喩でもなんでもない。事実そうであって、たとえば『ハートロッカー』が爆弾処理班の活動とその成功を描くとすれば、こちらは大量破壊兵器の捜索活動とその失敗を描くからである。失敗というのは情報がいい加減で、いつまでもなっても大量破壊兵器(毒ガスをはじめとする化学兵器核兵器など)がみつからないことを指す。また『ハートロッカー』の主人公は、戦場のなかだけでしか生きることができない中毒者だが、『グリーンゾーン』の主人公は、帰国しても落伍者ではなく、ひとかどの市民として生活できるような常識人であるようにみえる。


また『ハートロッカー』における現地人の扱いが、物言わぬ不気味なアラブ人で、全員がさながらテロリストであるかのように扱われちる*1(この原住民テロリストたちのなかで、無辜のアメリカ兵たちが命を落とすことになる)のに対し、『グリーンゾーン』では、現地人は声をもっている。彼らはテロリストとして不当な扱いをうけ日常的虐待に苦しみながら、自分たちの国の将来を憂いている。それは、どこの国、どこの民族でも同じだと思うが、そうしたことすらも描こうとしない多くのアメリカ=オリエンタリズム映画は、恥を知るべきである。


定型的なオリエンタリズム映画では描けないようなところを描いているといえ、同時に、映画そのもののフォーマットは、アクション映画そのものであって、マット・デイモンの活躍は、ボーンの活躍とそれほどちがわない。ただ、派手なアクションと破壊行為が、通常のアクション映画とは異なり現実性を帯びてくる。それは、市民の(破壊された)日常のただなかでさらなる破壊活動を生起させる占領支配の現実、それも、随所にみられる連行され虐待されるイラク人の映像によって、まさに国全体がアメリカの軍人と民間人と政府が管理する巨大収容所と化している占領支配を如実に示している。イラク戦争は、解放どころか新たな占領支配をもたらした。それもフセイン時代よりももっとひどい屈辱的な占領支配をもたらした。しかもそのすべてが狙い通りではなかったとしても、多くが最初から予定されていたことだと、当時も、今も、多くの人たちが感じていた。大量破壊兵器のにせ情報も、最初から、シナリオに組み込まれてこと、そのむなしさと、怒りを感じさせてくれる点で、まさにこれはグリーングラス・ゾーンである。


グリーングラスの映画では、『ユナイテッド……』も面白く迫力のある映画であったが、どうも現実の同時多発テロ、それも航空機テロは、仕組まれたものであることがだんだんわかってきて、逆に話題に上らなくなったのだが、それ以前、つまりボーン以前の『ブラディ・サンディ』では、グリーングラス監督は、北アイルランドでデモ行進中の市民に英国軍が発砲して、多くの市民が犠牲になった事件を扱っていた。あの映画の特徴は、責任者を処罰することもないイギリス軍のやりかた、ならびに英国政府の対処法に強い怒りを観客にかきたてつつも、報復する気持ちは刺激しないことにあった。真実を明確にし、責任の所在を見極めるという欲望を喚起するが、暴力的報復の気持ちを、映画は喚起しなかった。そうした点がすばらしいものであり、報復の喜びを書きたてる多くのエンターテインメント映画とは明らかに一線を画していた。


今回の映画も、同じ姿勢につらぬかれている。この映画をみて、アメリカの軍人やアメリカ政府高官を皆殺しにしたいという気持ちにはならない。むしろ何が起ったのか、その真実を、もう一度検証して、虚偽情報を垂れ流した責任者をあきらかにし、また戦争の目的はなんであったのかをもう一度検討したいという、真実への意志こそが、強く掻き立てられる。今後も、こういう映画を作ってほしいと思う。ボーン物は余計な回り道であったようにも思う。

*1:なおこうした不気味な現地人の扱い方のはじまりはカミュの『異邦人』だと考えるのは私だけではあるまい。