美しい友情のはじまり

パリより愛をこめて


ジェフリー・リース・マイヤーズは『ヴェルヴェット・ゴールドマイン』以来のファンで、その映画はずっと観続けている。前作『シェルター』(たいした映画ではなかったが、ジョナサン・リース・マイヤーズとジュリアン・ムーアのファンなので観に行った)を観た同じ映画館で、今度は『パリより愛をこめて』を観た。


実際、ファンでなかったら、こんな映画、誰が観に来るかという映画だったが、ファンであることと、ホモソーシャルな関係に収斂してゆく映画だったので、けっこう楽しめた部分がある。なんのこっちゃい。


アメリカ大使館館員であるリース・マイヤーズは、ささいな指令をうけてスパイ活動のまねごとみたいなことをして満足し、やがては本物の諜報部員になることを夢にみているのだが、そこにアメリカから凄腕のプロのSPがやってくると、にわかに凶悪な事件に巻き込まれてゆき、最後にはテロリストの陰謀をくじまでになるとういアクション映画で、主人公には結婚を誓い合った恋人がいることから、彼女もまた危険な眼にあったり、彼女がひょっとして命を落とす、そんな展開になるのではと、予想した。


ただ、それにしてもジョン・トラヴォルタが登場してから、パリの中華料理店の銃撃戦にはじまる物語は、もう目も当てられないほど、ひどい話で、唖然とするほかはなかった。同じ監督の『96時間』でもそうだったのだが、CIAのエージェントとか、SPは、どんな場合にも判断を過たず、的確に悪人を処刑するというスーパーヒーローで、国家を、さらには世界を救うという、子供だましの妄想には、いい加減、うんざりする。いっそのこと異星からきたスーパーマンとか、Xメンのような超能力者だったら、まだ話はわかるが、この子供だましのヒーロー物語は、いっぽうで新米スパイのリース・マイヤーズを配して、ある種の現実の限界をみせつけつつ、犯人を救いがたい狂信者集団へと一方的に還元するというイデオロギー的操作の一翼を担うのである。


いい加減にしろよというかたちで、観ていたら、先ほどの恋人が実は裏切り者だったということがわかり、そこからにわかに主人公が失恋モードに入ることによって、物語は思わぬ方向へとシフトする。結婚まで夢見ていた主人公にとって、フィアンセが裏切っていたことは、まさに衝撃的な事実であり、本来なら、つまり映画のスピーディな展開がなければ、かなりの時間、煩悶し苦しんでいてもいいような経験なのである――映画は残念ながらそれを許すほどの時間はないのだが。彼女は、狂信者集団の男に従属し、大義のために活動をしようとするわけで、主人公にとって、彼女は、べつの男に奪われ、また自分を裏切った、救いようがない悪女なのである――たとえ、なかなか忘れがたいとしても。


となるとこれは女の謎のジャンルであって、たとえば今年の1月に観た『500日のサマー』から、もっと古くは、そう『カサブランカ』にも見出すことができる。そう『カサブランカ』。あの映画のなかでもボギーは、イングリッド・バーグマンにふられたのだが、それは彼女が、レジスタンスの大義のために戦う、活動家の男を愛していたからであった。ジョナサン・リース・マイヤーズ+彼のフィアンセ(アラブ系フランス人とでもいおうか)+狂信者集団の指導者(ムスリムとは語られない)は、ボギー+イングリッド・バーグマン+レジスタンスの闘士と類似関係にある。


ちなみに、このブログでも何度も紹介しているジジェクが提出した、『カサブランカ』において、ボギーとイングリッド・バーグマンがやったのかやらないのか決定不可能な謎の2分か3分があるという議論は、なぜ、他に男がいながら、なぜ女は自分を愛したのかという女の謎の問題にシフトして考えることができる。また、そこにはエディプス期における、父親(夫)と自分(息子)の双方を愛することのできる母親の二重性と裏切りに帰着する問題があったはずである。この映画では、謎の部分は、一方で消されつつ(彼女はスパイだったから、最初から愛してなどいない)、同時に残されている(彼女は、それでも、主人公を本気で愛していた)。


そしてこの矛盾のなか物語が帰着するところは、『カサブランカ』のアナロジーで確認することができる。『カサブランカ』ではボギーは、かつての(だかすでに失われていた)恋人を、レジスタンスの大義のために、レジスタンス活動家にゆずりわたし、二人の脱出の手伝いをする。いっぽうこの映画では、同じ大義でも、テロリストの大義に、彼女を譲り渡すことはできないから、どうするのかといえば、彼女を大義から解放する。そう、ジョナサン・リース・マイヤーズは、かつての恋人、破壊活動をしようとするその恋人を、大義から解放すべく、一撃のもとに射殺するのである。


かつての恋人を、べつの恋人へと譲り渡すというボギーの行為は、けっこう意外なのだが、そこには、ワルだけども善良な精神を失っていない魅力的な、あるいは道徳的な悪党という、18世紀頃から登場した、ある種のアンチヒーローの影がある――英文学でそれをいえば、ディケンズの『二都物語』のシドニー・カートンに遡ることができる(彼の場合、恋人を友人に譲るべく、自分の命を捨てるのである)。残念ながらこの映画では、ジェフリー・リース・マイヤーズには、ボギーの影はないが、だが、そこから生まれる新たな解決あるいは人間関係は同じである。


女の謎は、同時にまた、ミソジニーの裏返しである。男にとって、女は裏切る者、裏切りこそが女の性であるというミソジニー的世界観では、信頼できるのは男だけである。美しいのは男どおしの関係だけである。だからこそ、かつての恋人を再び失ったボギーは、最後に、現地の警察署長と、友愛関係を結ぶ。「美しい友情のはじまり」というのが『カサブランカ』の最後の台詞だった。これは、女が消えていったあと、取り残された男二人が祝杯を挙げるようなものである*1


いっぽう、この映画では、ミソジニー的世界観のなかで、女はアラブのムスリムと同様の異民族であり異教徒であって、信頼のおけないスパイとして位置づけられる。もはや女は信用できない。だからこそ、殺されて当然なのであり、女を排除したあと、ジョナサン・リース・マイヤーズとジョン・トラヴォルタにとって、「美しい友情のはじまり」が訪れる。二人は空港でチェスに興ずるのだ。


カサブランカ』の「美しい友情」は、ふたつの点において必然性が付与されていた。ひとつは、警察署長が、ボギーに対して同性愛的感情をいだいていたこと。このことは、映画の途中でも強調される。彼はボギーが女から解放されるのを待っていたのだ。と同時に、まだ第二次世界大戦中に戦意高揚的目的でもつくられた『カサブランカ』は、戦争勝利の大義の前には、男女の恋愛よりも男性間の連帯こそが優先されるべきであり、美しい友情の強調には必然性があった。


だが、『パリより愛をこめて』(これは原題どおりなのだが、意味は、007『ロシアより愛をこめて』のもじりである以外に、どんな意味があるのかよくわからない)において、美しい友情の始まりに、どのような必然性があるというのだろうか。テロとの戦いという戦争状態?あるいはフェミニズムに蹂躙されて軟弱になった男どもだから、同時多発テロ攻撃を受けるのだという、9・11直後にアメリカにはびこった、いまわしい後ろ向きのイデオロギーをそのままふまえているのだろうか。男たちよ、女を射殺して、男同士団結せよということなのか。だとしたら友情であり友愛であれ、それを掲げる背後には、悪辣な保守的なイデオロギーがある。それを打破するには、美しい友情を、積極的に同性愛として読み替えるスキャンダラスな戦略しかないのかもしれない。つまり女性だけでなく、男性もみんなでジョナサン・リース・マイヤーズに熱いまなざしを送るファンになればいいのである。

*1:最近、日本でも上演されたモームの喜劇『故国と美女』(アメリカ版のタイトル「夫が多すぎて」)における結末を参照。ちなみにサマセット。モームがゲイであることはいまでは有名な話である。